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知財立国における文化圏共有の規模

金融情報の活用が知的ノウハウの集合であるとみなすと、「知的財産立国」による産業競争力の強化を国策としているのには相反するのではと一瞬思う。ソフト的な技術ということに活用ではないかけどこのような知財的視点は、今度は特許や著作権・商標に関してみると、お互いの法的概念が思想形態が合わない限り、商流というかお金を得るシステムは勝手に変えられる。
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権利ビジネスはならず者国家には通用しない。しかし、国際法は極端なことをいうと信義則であり、国際的な倫理は勝手に作り変えられる(ISO IEC規格等でも委員から日本が外れたら、いきなり不利な規定改定になったというのは多い。交渉や強談判には日本人の倫理性や社会常識は使えない)。
投資や金融の社会に日本は入っても其の他大勢になるだろう。そのいみでドイツは力技であるが金融に対し対峙するひとつのモデルを閉鎖的に作っており、無視したくても無視できないほどになっている。
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よくモノつくりにおいては、其のビジネスモデルには限界があり、既に既存のシステムでは成り立たないという議論はある。たとえばものつくりに対して種々の意見はあるわけで、ものつくり敗戦などという本にもそのような視点があるようだ。

さて、本当に「知的財産」による立国はできるのだろうか。私は「知的財産」だけの立国はないと思っている。そこには組み合わせるべきものがあり、圧倒的な生産技術や生産拠点能力、ないしは圧倒的な政治的圧力と発言能力であろう。
「知的財産」による立国は、法規により体制を整えることが前提であるが、そのためにはコスト増加の問題もある。世界一厳格な著作権法を運用することに日本は注力したが、これを商機ととらえた権利ビジネスも法的な紛争の増加で維持コストが増加している。同じことのなかでアメリカは知的財産権の強化を求めるプロパテント手法をとってきたのだが、これが特許バブルともいうべき状況をつくってしまい、アンチパテントの手法もとりはじめている。行き過ぎたプロパテント政策により、過度のブラックボックス化と寡占が進んだソフトウェア産業が問題視される。其の対策のひとつがオープンソース化推進であり、また法制に特許法による知的財産の保護と独占重視を弱めるアンチパテント政策が並行して進められる。 アメリカはここに特許法が先出願主義に変わるなどの整合もまぜでいて、独自システムさえも取り下げている。もっとも、EU各国の著作権法は強化が進んでるともいえる。やっかいなのはどこに強いところをもってくるかという制度設計が、一意でないことであるのと、法規の運用面・遵法性の問題はあろうか。
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まあ、この知的財産権に関しては映像などの著作権というところもある。文化的な普及のプレゼンセスは高くなっているのだがそれだけは利益は上がらない海賊版である。そうなると文化の変化まで促進する。私は彼女は頭がいい人で、ほかの場面でも成功するべき人だと思っているのだが、蒼井そらのように中国版ツイッターで500万人以上のフォロワーをもち、中国でもステージ興行が成功するとなると、これは一流である。(ちなみにAV系の人は盛衰が激しく、長く残っているというのにはそれなりの資質が必要であるわけである。)
いくら、かつての日本がアメリカのテレビ技術や手法受け入れ、技術を世界から得た結果アメリカ製の映画やテレビ番組が浸透し、消費文明が日本に広がったのだが、とあれジンジャー・リンやトレーシーローズがあまねくとりいられるようになったかというと・・・・。
となると、知的所有権自体を商売にするにはボラティリティという概念が援用できるのかもしれない。それは金融工学での資産価格の変動の激しさを表すパラメータであるが、わたしはこれを数値で語る技能がない。
どっちにせよボラティリティを吸収するダンパーとなる資本・収入・庇護などがあれば、「知的財産」による立国は可能であるが、しかしそれが継続性があるか問うのはまた別である。

天然資源が少ない日本で国内需要も少ないと、輸出できる資源があればそれに越したことはない。そのことは韓国も似ている。北朝鮮は資源はまだ多いほうであるがあの通りである。国内需要が少なく、輸出できる資源があっても輸出する環境と持っている資源のバランスが悪い。まあ持てる国・もたざる国という言葉でいうと資源をもたざる国ということになるのかもしれない。但し、技術力やコンテンツなどの知的財産を資源」と捉えることができ、またそれをそのような技術力やコンテンツを持たない外国に「輸出」することが可能である。昨今の韓国芸能界の海外開拓はまさにこれである。
天然資源が有限で、知的資源は無限であるというが、このことは天然資源が実態のある物で、知的資源は単なる情報であるという裏腹の面を持つ。つまり知的資源は盗まれやすく、盗まれると回収するのはほぼ不可能という難点がある。 つまり、管理能力をどう扱うかということであろう。
日本も、ドイツ・スイスもそうなのだが、圧倒的な生産技術や生産拠点能力、ないしは圧倒的な政治的圧力と発言能力となると、前者しかない。(スイスの場合大手プライベートバンクによる金融立国という側面もあったのだが、マネーロンダリングの中継地としてつかわれたこともあるが、この面のステータスはおちてはいるようだ)そうなるとだ、日本としては物資を軸とした圧倒的な生産能力ということになるのだが、其の付加価値として知的資源をどうとりこむかということしか議論できなさそうな気がする。
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もっとも、物流という内容においても、今までAの国でつくったものをBの国で売ってというビジネスよりも市場の一体化で現地生産ということはありうるだろう。映像コンテンツならハリウッドが世界に映画を輸出するとか、海外でモノをかったらMade In Japanと書いてあってずっこけるというのは以前は良くあった、しかし技術にはこのよう原産地はつけられない。
以前ある機器を設計するか購入するかを考えることになり、当該品を取り寄せてみた。ところがアメリカの会社のドイツ工場製、其の設計はドイツ規格で作られ基本設計はドイツ(企業合併の経緯からドイツの設計図書がやってきた)、電機部品はアメリカ、樹脂材料は日本、そして部品の成型加工はイタリア・・・まあまともに動いている分はいいのだが、製品を導入する時の評価で改善を申し出ても、この製品が不良を頻発させたときにどこに対策をしてもらうとなっても・・・ということがあった。要するにこの機械そこまで需要がないので、量産効果がないといっても年間10000個は流れているのだからどこの国も作らないというのである。こうなると国籍はどこかといっても意味がなくなる。
輸出側と輸入側に価格差があっても其の要因は流通コストとかいう形で洗い出されてしまって一般消費者に届くのは映像作品などもそうなっている。市場はある程度の社会システムがある国同士では、細かなカスタマイズを許せる物品や技術では一体化してきた。
このため、商品企画についても自国のニーズ対応で完成し、海外仕様にカスタマイズという形では成り立たない。これは最初から、最初から世界で売ることを前提として「世界市場をみて基本的仕様を考える」ということは、現地でのカスタマイズができるために現地での能力が求められる。
多国籍企業では世界中の支社で同じ基準で人材を採用し、本社の基準で一律に優れていると判定された人が、グループ全体の経営者に抜擢されることは欧米系企業では多い。つまり日本人が現地法人のトップになり纏めるという視点が成り立たないであろう。「市場の一体化モデル」である。こうなると、輸出とかということを考えるよりも「移出・移入」という国内流通の延長戦の形になるだろうと思う。
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しかし、どこでも国の言うものの存在がその人の存立の原典という認識はそう逃れないような気がする。ヨーロッパの財政危機、ユーロの危機というなかでも、すでに経済圏では崩れている国のこだわりは外れない。市場の画一化はある程度進むと思うが、毛皮のコートを地中海で使う人は特異な人とみられる。そばは各国で食されるが其の食し方が違うため、日本にそば粉を「移入」したところで食べられない人が多くなる。おのずから、市場一体型でキャリアを積み、ビジネスを展開する人や企業は大きくなり、既に投資能力では国以上の存在になる一方、国や郷里によって存在を確認する人がますます、其の存在を荒げていくと考えている。いわくユダヤ教にせよ、イスラム教にせよ原理主義(一律にまとめるのが強引というのはわかっているのだが・・・)にせよ、其の形がますます強固になると私は考えている。
巨視的に考えれば世界複数極のブロック経済化というものはあるとおもう。そのなかで、ヨーロッパの財政危機、ユーロの危機は起きているが、これに関しては南北問題という形が隠れているだけであくまでボラティリティであろう。ただし、結果的には多くの債務国の住民が貧乏になり、固定化するということだけである。(これが旧ユーゴであったら、固定化してから国際的な市場一体化システムを壊すようなテロ・戦争に行くというトリガーになろう。それがおきそうなのはイタリアであるが、今のところ国民がさくに海外流出するという現象が先に起こり、かろうじてまぬかれているか)そうなるとたかだか成り立つのはブロック経済というところしかなりえないのではと思っている。

市場は否応なく一体化する覚悟は必要であろうし、ものによってはそれは免れない。しかし、たとえば私の経験でも、ある程度の専門機械を導入するとその製品の設計のよりどころは、「アメリカ・カナダ系のメーカーや技術系譜」「ドイツ・スイス・フランス系のメーカーや技術系譜(イギリスやイタリアという場合はたまにあるが)」「日本・韓国・台湾系の技術系譜」という整理ができ、日本のメーカーとて「ああこれアメリカの図面のライセンスだな」とかわかってしまう。そしてこういうのがBricsにいくと技術でぶつかることが多い。「一体化された世界市場で生き残っていくか」というなかでは企業はがんばりのであろうし、そうあるべくなっていくのだろうが相変わらず大方の人は、国という存在の中でのロジックにこだわるしか見えないし、さらには一体化された世界市場に対峙する形の小さなセクト的存在が太っていく上に、収益を得るモデルが知的資源に大きく偏った場合、利得が得られる人とそうでない人が出来上がるわけで、後者が圧倒的な生産技術や生産拠点能力を維持できないとなれば、生き残るという前提案件がなくなるので、保護主義化にいたる傾向がある。地産地消が保護主義や小地域ブロック経済に繋がるという視点はまああって、実際閉鎖されたところで生活するという閉鎖主義が宗教などに見えている。
これは、実は「権利ビジネスはならず者国家には通用しない。」ということに近いと私は考える。閉鎖保護主義は一歩間違うとならず者国家とならざる得ない攻撃性を持つからである。市場が否応なく一体化しようとした結果、其の市場で階級的な分離が行われて、表向き市場は一体化したけれども、一定購買層能力層の塊がかゆの中の米粒みたいに生じ、本質に基づかない混乱が頻発するだろうとおいことは覚悟するべきだろうと思う。

自国と他国の境界線に国の存立がある。人や企業にはその仕切りはない。但し、国というものを文化や生活習慣や気候に由来する思考という考えに立つと、結果的に「国」は文化の枠の代替になる。それがなくなるのは多分宇宙人が地球を後略し始めたときであろう。となると其の文化にどうしても付帯性をもつからこそ生まれる知的資源流通だけが社会経済の伸張を期待できるという議論は当面いいとして、其の限界もかなり早く生じ、基の物資供給のほうが利潤を得られるということになってしまうのではと思うのである。

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