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金融立国になりうるとは思わない(2/2)

(承前)
いささか過激だが、意見を自分で出している有名ブロガーの記載である。外資系の勤務経験がある人の視点で結論はそう変わらないが、私とは誘導するロジックはことなる。ここからはちょっと異なってくる。
-------------------引用
2011-07-04 金融業なんてむいてないし、東証も要らない。
(続く)
さらに一歩進めて言えば、東証とかマザーズとかJなんとかなど、全部潰しちゃった方が、国民の利益になると思う。
東証とかが存在するからみんな日本の企業の株を買う。でも日本企業の株なんて買っても、向こう30年くらいはまず儲からないよ。
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日本の証券取引所なんて潰しちゃって、世界の取引所で直接、株式投資ができるような仕組みを整えたほうが圧倒的に儲かる。日本は成長しないけど、世界は成長するんだから、世界の成長に直接投資できるようにしたほうがいい。
余計な「自国の市場」が存在してると、みんな世界の成長に目を向ける前に、まずは日本で投資しようとか(アホみたいなことを)考える。「国内株」とかいうのがポートフォリオに入ってきちゃうし、営業マンもそっちを勧める。これ、超無駄。

株式投資したい人が上海や、香港、シンガポールの取引所を通して株や金融商品を買えるように、さらにNYSEやナスダック、ロンドン証取の株式も直接売買できるように、ネット証券がどんどんサービスを整えて、日本語で、日本円からの自動換算で売買できるようにすればいい。
日本は金融業は向いてないけど、お金をもってる人はたくさん存在する。つまり、金融業はだめでも投資家はたくさんいる。彼らのお金を(まずは)東証だの日本の企業に向かわせてしまうというだけでも、東証の存在は害になってる。
企業だってそのほうがいいって。グローバル企業なら最初から欧米で上場しておけばいいし、スタートアップだって最初から海外の市場で株式公開することを目指せばいい。「日本でしか公開できない」なんてレベルの企業ではどうせダメなんだから。
最近、東証が国際的な競争力を失ってるから立て直そうみたいなこと言う人もいるけど、そんなアホみたいなことしなくていいと思う。さっさと諦めて潰しちゃおう!
---------------------終了
実はこれに関しては、東証とかマザーズとかJなんとかなど、統合するのはむしろ必然であろうが、なくすというのはさてどうかな。日本・韓国・台湾までしか使えないビジネスモデルで全世界をカバーする企業ができたとしてシンガポール取引所はともかく上海取引所が使えるだろうか。多文化主義が通じるという前提で金融も考えていいのか。一時期第二創業の支援をやっていた私には、かえって投資意欲が減退するとしか思えないのである。
株式投資したい人が上海や、香港、シンガポールの取引所を通して株や金融商品を買えるように、さらにNYSEやナスダック、ロンドン証取の株式も直接売買できるように、ネット証券がどんどんサービスを整えて、日本語で、日本円からの自動換算で売買できるようにする。そうすると、多くの人は言葉の壁でなく投資先の中を判断するツールが日本的な積み上げ思考でもてないから、投資行為自体をあきらめるであろう。つまり、ロジックがこうであるから、他国の人はこういう投資をするだろうという行為が見えないどころか思考することができない投資家集団が果たして海外に投資するであろうか。むしろそれだったら、商慣習の中でわかる範囲での投資額にとどめるか、国内ないしはロジックがわかる範囲の周辺諸国で不動産や物資などの実物(先物でもない)をちょっとかってあとはたんす預金か金の現物購入・・・ということになるでしょうな。
日本企業の株なんて買っても、向こう30年くらいはまず儲からないというのは厳然たる事実だが、そもそも投資によって社会的な価値をほじすることで企業や投資家は存在を保つ行動のときに、企業実態を見に行くだけで時間・手数ふがかかり、それでもノウハウ・経営に対する同意性とCSR的価値が共有できない(思考ロジックが頭から異なるから)同意できない企業に投資することが、さてできるかというと金融をゲーム理論と考えるひとこそこなせるだろうが、金融を社会貢献と新規価値創出と考える人には手仕舞いのためのトリガーになりうる。投資は金融の世界では収益確保の手段であるが、投資は社会のための利潤循環への社会活動であってそれが損をしても生きることが可能な人の特権と心理的欲求を満たすもの。これだけ認識が異なれば意味は変わる。(村上ファンドなどのときに文句を出した人は彼らを前者とみなし、北尾吉孝のようなホワイトナイト活動を後者とみなすのも便法かもしれないか)

日本は資産をもってる人・団体はたくさん存在する。しかしお金(流動資産)をもっているとはいえないし固定資産を流動化すること自体に抵抗感がある。流動資産から固定資産への異動が結構中間搾取が多いからであろう。そのため、金融業はだめでも投資家はたくさんいるというのはわたしは異なると思っている。投資家でなく社会への還元で結果的に投資回収ができればいいという考え方である。日本のCSR思想には海外展開をしない場合、営利活動のなかの持続的発展の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくという立脚点があると、投資回収以前の社会的なお金の循環に目的を持つことが多かった。そうなると「日本は成長しないけど、世界は成長する」というのは利潤回収では最適であるのだが社会への還元でとなると、単に身の回りの社会をつぶし海外に資産を持って生かせるような場合が出てくる。(もっとも海外の取引所で日本企業の株を買えばいいというのはあるが)これでは「社会への還元」ではない。もっというとCSRの視点で考えると、海外の成長に投資するのは自らの企業の姿勢、継続的反映、社会的責任(・・・もっとも企業はお金を稼ぐための人の集まりというのが否定され、社会の主管構成員と定義されるのは日本ぐらいではある。会社法の設立意義が空文化していないのである・・・)を貶めることになってしまうのである。
この思考は海外展開をする企業や海外から投資を受ける企業では、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRとはうけいれられなくなるから、決して語らないとは思う。しかし、ドメスティックな産業が多文化主義の取り込みが難しい日本ではないわけに行かない以上、国内株式市場がないと、国外市場へのマイルストーンが得られない。最初から海外の市場で株式公開することを目指したら、そこにいくまで息絶える企業が死者累々であると思う。
国民の利益はお金をえて永続的な利益を確保することであろうとおもうのと、社会が既存の思考を捨てることができず新しいものも入れられず(取り込むには相反条件が多すぎる)単に摩滅する化という既存認識の硬直度合いの査定が見方を変えてるとは思うが、まあ正直言うと国内の市場はマザーズクラス1つと東証クラス(1部.2部)ひとつという形にしたほうが、購買先の整理が図られいいという気は多少は私にもある。
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まあ、このような金融情報の活用は知的ノウハウの集合であるとみなすと「知的財産立国」による産業競争力の強化を国策としているのには会わないのかと思う。けどこのような知財的視点は、今度は特許や著作権・商標に関してみると、お互いの法的概念が思想形態が合わない限り、商流というかお金を得るシステムは勝手に変えられる。権利ビジネスはならず者国家には通用しないが、極端なことを言うと国際法は信義則であり、国際的な倫理は勝手に作り変えられる(ISO IEC規格等でも委員から日本が外れたら、いきなり不利になったというのは多い。だが途中から委員にはいったらぜんぜん動かないという。つまり交渉や強談判には日本人の倫理性や社会常識は使えない)。
投資や金融の社会に日本は入っても其の他大勢になるだろう。そのいみでドイツは力技であるがひとつのモデルを閉鎖的に作っている。しかしブロック経済したくてもそうならないという現実から、無視したくても無視できないほどになっている。だから答えはひとつでないとはいえる。

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