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チャップリンのまねかも(2/2)

(承前)
昨今ドラマで主演した前田敦子が「LITTLE BOY」(広島型原子爆弾のコードネームがLittle Boy)と書かれたTシャツを、こともあろうに広島に原爆の投下された原爆の日の翌日8/7のドラマで着用した・・・と本質は変わらないともいえるし、単に配慮がなかったということだけでも政治問題になるともいえるから、問題として瑣末ではあるがこれとて導火線になるものだったりする。
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あーあ。これだめだわ。

思いっきりブラックジョークということには逃げられんな。

もっとも、これ自体はチャップリンの「独裁者」をオマージュとしたという気もするのだが・・・・お菓子にはそぐわないといえばそれまでですな。西ドイツといっていたから1990年以前のCMであろう。もっとも、BBCのモンティーパイソンでも似たような事をやって西独政府からクレームがきたというのもあるとか。あの国ならやりかねんのう。
なお、このCM自体は関西限定(当時の桂三枝の人気は西日本ではすごかったが、関東ではそうでもない)であったがすぐやめたという。またこのCMの会社(橘高㈱・最初に出てくるひし形のマークは同社の社章である)は、これを見るからにはいい怪訝な会社かなあとおもっていたが、当時菓子専門商社としては全国にネットを持ち(本社:東大阪市)国内3本の中に入る規模を誇っていたという。コンビニがひろまって菓子の流通過程と価格設定が販売店イニシアティブにかわってしまい、1993年突如倒産(不良債権化した兼業)し一部事業を分離したが、全国の大方の系列会社群は再生さえもしなかった。これは支援する用意をしていた企業も阪神大震災の影響でそれどころでなくなり、撤退してしまったともいう。他の菓子専門商社も大手はこの直後から倒産や総合商社の傘下に入るという形になる。2000年になったらこんどは食料商社が吸収か倒産かとなってしまう。
だから、そこまで監視体制が整わない企業ということではない。けど、売り方という視点が強くなると其のバックボーンが失われるようである。なお、現在はRitter Sportの国内での代理店は菓子問屋のサンエスである。
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さて、ネオナチの話に戻る。
デモが暴徒化し、さらには火事場強盗の群れとなることは、各国であることであり、日本でもないとは言わない。但しイデオロギー的な背景や動員もなく起こり、他の都市に飛び火した上に、己の犯罪を撮影してユーチューブで自慢するようなことはなぜかというのは群集心理なのだろうとおもう。
但し、従来均質人たちのいる場所は価値観が画一化するが、他方ちょっとのことでも対立を招き、社会を不安定化させるという意見があった。さまざまな属性の人が交じって暮らすことは、各々の利害関係のバックボーンが絡み合いなかなか闘争に行くまでの経緯が複雑になる結果、混乱の抑止となる。また、環境によっては多様性から相互理解と協力が進み社会が堅牢になるということを通説的に語るものが多かった。だからある程度の混住は薦められることで社会全体の価値観の多様化につなると。
まあ、高級住宅街とかができたり、企業城下町とかができること、スラム街もあるしさらには南京町とかもそうなのだろうが属性別の棲み分けは自然に起きてしまうこともあり、特定の属性をもつ住民を意図的に排除するのは日本では表向き作らない配慮がなされている。むしろ政策は多様化・ランダム配置を促進するべきというのがのがよいと「経験的に」いわれている。トラブルが頻発する混住地区では解決しようと努力する人が多く、結果相互理解が生じるからこそ頑強な(ロバスト製の高い)社会となることで、社会全体が平穏な発展過程になるという。もちろん生活貧困という問題はトリガーになるのだろうが、この地域では概してこのような事実はそもそもあまねく存在していたこと。
ところが、今回あったイギリスの暴動では人種や所得階層の混合した地域で暴動が多く起きているという。相互理解・寛容性は育たず(そのような素質がないが情報発信ツールが充足している中で)暴動はおきた。均質な社会ではちょっとのことで対立し嫉妬し合うとしても、混合地区の人びとは大きな違いに対立し嫉妬し合う。
多文化主義は現状改善には適しているが、違いというものを相互に尊重という前提がないならば、成り立たないという視点もあり、文化の勃興という前提が各国の政治的意図や政策のもとに成り立ってしまったものが重畳されてきた場合、各国の枠組みが前提である文化たるものは、多文化を前提とした社会成立が不可能というあきらめされ存在する。国家による前提によって他国の文化が侵食対象として対立を招いているのは、現在のフジテレビの問題にも通用することである。
実はカナダ・オーストラリアのように過去の反省に立って多文化主義をすすめ、上記のような文化的摩擦が微小やないところもあるが、英国・ドイツのように国内の混乱が激しくなって失敗となっている場所、北欧のようにじわりじわりと問題が顕在化しているところもある。ただしこれは前者が開拓地として自由な移動などの結果形成され文化を持ち込んで定着させた国家なのに対し、後者はもともと土着の歴史を前提にして文化が積み重ねた国家である。
ネオナチは、放っておけば分離する社会を肯定し、無理に混成させること自体を否定することである。そうなると、そこに対して、ニュルンベルク裁判に対して英米法的な視点で欧州大陸法(日本もドイツもこの法体系)も同じことをしてるんでは・・・ということになってしまう。実は違いというものを相互に尊重する以上に、相互の基礎的文化の根本が深すぎて相互に信頼し理解しあう内容は既に一般的スペックをもつ人間の判断する知識の総量(キャパシティー)を越えてるのかも知れぬ。

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