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混沌としたものを判別させることができるのか(1/2)

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?rt=nocnt
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=2
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=3
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=4
反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク  ジャーナリズム、調停役として機能せず 
武田 徹 【ジャーナリスト・評論家。恵泉女学園大学人文学部教授。元東京大学先端科学技術研究センター特任教授。核に関する執筆あり】
(前略)
 ではそうした「基本財としての安全安心」はどのように求められるべきなのか。その答えは、そんな安全安心がどのように失われたかを辿り直すことによって得られるのではないか。(中略)
 科学技術はリスクを生み出すものだ。ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンはそう考えた。ルーマンは「危険」の対語を「安全」としない。「危険 Gefahr」と対置されるべきは「リスクRisiko」だと考えた。彼が「危険」と呼ぶのは、いわゆる天災の類だ。それに対して、人間が関わることで発生する危険を、彼は「リスク」と呼ぶ。
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 こうした危険とリスクは単に対立するわけではない。たとえば冷たい雨はそれに身体を濡らした人を病気にしかねない危険な存在だ。この場合の雨は人の力で降らせたり、止ませたりできないという意味でのまさに天災の一種である。だが、傘という「文明の利器」を人類が発明した時点で、この天災としての雨は性格を変える。雨に濡れて風邪をひくことは、傘を持たずに家を出た人の責任に帰せられるリスク=人災となるからだ。
 このように文明が、天災としての危険をリスク(=人災)に変質させてゆくと考える点がルーマンのリスク論の特徴だ。

 今回ももしも原発が福島県の太平洋岸に作られていなければ、放射線の恐怖に日本国民の多くが怯えるような結果にはならなかった。地震や津波という天災を原子炉事故を伴う災害に変えたのは、原子力利用技術を採用したからに他ならず、日本社会が原発を作った結果として地震と津波は人災化したのだ。
 しかし、この人災化の構図は丁寧に見て行くとより複雑だ。(中略)福島第一原発が、敷地内に立ち並ぶ6機の炉が連鎖的に破壊される恐怖で国民をおののかせたのは、そうした過去からの経緯による。つまり人災化の過程で反原発運動と原発推進の国策、電力会社の施策が絡み合い、リスクを肥大化させてきていたのだ。
こうした構図はゲーム理論でいう「囚人のジレンマ」に通じる。(引用者注:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9E(中略) この構図が原子力を巡ってもありえる。
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 科学技術はリスクを生み出すものだといえばそうであるが、もともと科学技術を用いないものは微小である。技術というかは疑問だといえばそうだが、ハンマーを作るのも釘を作るのも科学の成果ということはいえる。それらは危険に用いてもリスクというものは少ないが、ハンマーでガラスを割って強盗を働いたり、人に怪我をさせることはあるし、釘で足を踏み抜くことはある。このロジックを前提とするという場合タルコット・パーソンズの提唱する社会システムは、大は世界システムから小は個人に至るまでの入れ子構造から成り立っているということから、相関関係でロジックを語るといえる。このため、文明が天災としての危険を人災にするなどの分別はあまり考えないようである。
一方これとは違う(というかパーソンズに教えを受けた結果違う構成を考えた)ニクラス・ルーマンの社会システム理論においては、多次元的・相互補完的・相互浸透的なシステムを考えるのだが、システム間の階層性がないということだそうな。その結果同列並列的なものの中で天災としての危険をリスク(=人災)に変質するという議論ができて来るようだ。
たしかに、このような機器を設計するとき、予想されない現実だったり、記録されない事象(たとえば1200年前の貞観地震の被害状況。これはやっと2006年ぐらいに発掘で被害がわかりだしてきた)を今回排除して設計をしたことは言われている。もちろん、後にいろんな人が「あれはだめ、これはだめ」と指摘したのであるが、この場合全部改善するとしても優先順位がある以上に、お互いに干渉してこのような改善を行うことは実際、私は難しかったとおもっている。但し、杞憂ということで、人の知識で内容を取捨選択することができないとなると、すべてのものがないということになる。
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杞の国(古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国。BC445年、楚によって滅ぼされた。)の人が大地は正方形で、四隅を天柱という柱が支えていると考えられていたこの時代の通説を考え、柱もうち腐れていると考え、悩んで夜も眠れなかった。そこである人が教えた。
「天は気が積もったもので、気はどこにでもある。 気の中、つまり天の中で生きているから、崩れる心配はない。」
「地は土が重なったもので、人はみなこの地上を踏みしめて歩いている。だから、崩れる心配はない。」
この話を聞いた杞の国の人は、大変喜んだ。この話から、とりこし苦労やつまらない悩みのこと『杞憂』という。
出典:列子:春秋戦国時代の列御寇(河南鄭州人)の著書とされる道家
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しかしこの前提を目前にした人が、このような地震・津波とそれによって引き起こされた状況を想起した場合「とりこし苦労、つまらない悩み」として人間が内容を取捨選択することは、場合によっては合理的でない。つまり「基本財としての安全安心」というものを絶対視し、そこを突き詰めても突き詰められないことを前提にすると、社会の円滑なはどのように求められるべきなのか。安全安心がどのように失われたかというよりも、安全安心(私は安全安心安定というもっと変革というもののないものを前提にしていると考えているが)ということもある。
つまり、どこに考える中でのベースを持つかで安全性をいくら高めても社会技術はわれわれを豊かにするとは限らないと考えるならば、すべての科学技術を否定するのでなくすべての科学技術の既存知識からの変革を否定する・・・つまり安全・安心を得るためには差分を最小限にするということ、変化を少なくとも既知の経験からみて最小にすることということになってしまう。そして今回のように既存知識自体の滅却を目の前に示されると、科学自体の不信任につながるのである。(続く)

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