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混沌としたものを判別させることができるのか(2/2)

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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?rt=nocnt
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=2
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=3
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/?P=4
反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク  ジャーナリズム、調停役として機能せず 
武田 徹 【ジャーナリスト・評論家。恵泉女学園大学人文学部教授。元東京大学先端科学技術研究センター特任教授。核に関する執筆あり】
(前略) 
 ここで反対派をA、推進派をBとする。反対派は原子力利用をなくすために今後も積極的に反原発運動をする(=A1)か、あるいはもはや反対運動をやめる(=A2)かという2つの選択肢を持っている。推進派も同じで今後も原子力利用を続け、施設を増設し、あるいは既存施設を維持し続ける(=B1)か、その政策を放棄する(=B2)かの選択肢を持っている。
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 反対派は国や電力会社に原発の即時停止を求め、反原発運動を続ける(A1、B2)。しかし推進派は日本の国力を維持する電力需要に対応できないとして原発の停止には応じない。彼らは原発がいかに安全かを様々な機会を通じて訴え続け、反原発運動が鎮まることを期待している(A2、B1)。こちらは反原発運動家には大事故を招く選択と映るので、とてもでないが承伏できない。こうして両者が互いに相手の主張を拒否する結果として選ばれるのが(A1、 B1)である。反対運動は続き、一方で原子炉の新規建築、増設も続く。この結果、反対運動の妨害を受けて新規に原発用地を取得することはできなくなった推進派は、既存の敷地内に原発を密集させることになる。これが福島原発のリスク(=人災)をむしろ拡大させてしまった構図だ。

 囚人のジレンマ的状況は原子炉の安全性確保に関してもありえる。実は外部電源を喪失しても重力をつかった冷却水注入や、自然な廃熱によって安定的に冷却にまで至る新世代の原子炉も設計されている。(中略)だがその成果は殆ど報じられなかった。なぜか。より安全な炉があると認めれば、いま動いている原発の安全性に問題があると認めることになる。反原発運動のアピールで不安を感じている国民を安心させるべく現在運転中の原発に関して「絶対安全」と繰り返して述べて来た以上、「より安全な原発」の存在は許容できず、その道を選ぶことができないのだ。
 こうした反対派と推進派が互いに不信感を持って一歩も引かずににらみ合ってきた構図が原子力発電のリスクを拡大してきた。そしてそのリスクは今回、現実のものとなってしまった。
 そうした経緯を考えるとき、本当に選ぶべきものは(A2、B2)の選択肢だったのだ。推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げてより安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中でリスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく。
 しかし、原子力を巡る囚人のジレンマ構造によってこうした経過は選ぶことができなかった。こうした構造的な問題こそ今、意識し、それを乗り越える方法を模索すべきなのではないか。(後略)
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 だが60年代の日本社会は原子力発電を求めており、当時の報道も原子力翼賛色が強かった。ジャーナリズムもまた日本が本格的に戦後復興を果たすためには原子力の平和利用が必要だと報じていた。しかし科学が生み出すリスクについて予想し、その対応が実施されているかの検証を行う能力は報道にあったのかは疑問だし、もしそのような判断ができる人が発言するとしても、それを説明するしてもそのプレゼン手法が適切担っていない場合もある。
ここでも、武田さんはこういう言い方をしている。

 『「核」論』を書いているとき、取材に行くと相手がしばしば口にする言葉があった。あなたは「推進派ですか? それとも反対派ですか?」というものだ。どちらの立場なのか、まず確かめなければ話ができない。同じ立場なら胸襟を開いて話ができる。違う立場なら言質を取られないように注意しないといけない。取材相手が疑うことなくそう口にするのは、あらかじめ立場を確かめておくことが習慣として定着していたからだろう。そして実際に報道されている内容もそれを物語る。反対派のメディアと推進派のメディアがあり、同じ事象を報じても評価の仕方が180度違っている。

ただし、私は考えるのであるが、多くの交渉言や説明に対して、このような相手先の考えることに対し、それに迎合すにも抗うにも、相手の立場をあわさなければ頭から聞かないことは、私たちが研究者としてその知見を述べても、人格攻撃から始まりあわや「総括」というロジックに導かれ、黙って帰るることは普通であるし、大学の講義でも頻繁に感じることである。いや企業内部の技術指導とてそうなる。
その中で唯一なんとかなる手法は、いわゆる「Yes。But」という進め方しか議論を進めるべきしか取り付く島がないことは多い。こういう意見を時々聞く中には、「説明のうまい科学者・技術者や政治家は自分の意見を正当化するため、自分たちの考えている身近な議論をすることを試みても論破される。従ってそのような席には混じらす、そのような情報を聞くような場所に入らず(ネットもそのひとつかも)という消極的対応をするのが自己保身には必要。もしそのようなことで不合理があっったときにはじめて事実として訴求する」という態度をきめこむ人も多いようだ。つまりある意味きわめて復古的保守的、ロジックより感覚に強く依存するともいえるし安全安心が失われていても、まがい物でも安定があればじつはそれが、問題なく生きること心の安寧を得る手段としてのひとつの極北の姿である。
この動向、特に科学よりも宗教や過去の知識に依存するようになるというと、「ティーパーティー」にしかり「米国の銃規制問題(宗教的指針や建国の精神)」にしかり、そしてこれに限らず各国の消極的内にこもった原理(=過去の守旧的ロジックを基本とする)主義になっているのだが、これに対してのジャーナリズムに関してもなんのことはない本当に選ぶべき(A2、B2)の選択肢を選ぶようなことを、ジャーナリズムにその見識を生かして調整を期待すること自体にそもそもの自己矛盾がないかとおもう。
原子力には原子力技術利用に賛成する人の集団と反対する人の集団があって、科学者・ジャーナリスト・メディアが各々いて、議論を囚人のジレンマをおこした。そこで、武田さんは「囚人のジレンマ構造」が「基本財としての安全安心」を損ないかねないリスクの増加を招いていることに気づいて、原子力を巡る2つの共同体の価値観を調停することであり、そこがジャーナリズムが寄与することと意図している。
そう考えると、大きな政府を否定した「ティーパーティー」にしかり、その他のブロック経済を志向したものやある意味『モンロー主義』とするべきもの(時にドイツ緑の党などの環境政党も同じ挙動を示すことがあるようだが)に同じことがある結果のように見える。
モンロー主義は、よくアメリカ合衆国の孤立主義政策の代名詞とされるが、他と協調しない独自の行為を「○○モンロー主義」と称することは日本でも多く言われる。(例:市営モンロー主義:一定地域の社会サービスについて、民間資本の参入を認めず独占化によって社会資本構築を一元的かつ一方的手法で構築する市や国などの思想・態度の俗称)ところが、孤立主義の対語はこれはまた『覇権主義』(資本などの力で経済的社会的要求をベースにする)でもあるのだがら、もともと中庸の位置になりにくい。
つまり武田さんの意図する、囚人のジレンマを解体する手法には既存価値基準を破壊するまで行う焦土作戦を伴った革命(つまりこれは国力を滅却する情勢を伴うことで資本的な議論を意味なくする手法も抑止する)となるわけで、学者やジャーナリスト、民主的に選ばれた政治家が関与する社会であることは、政治家が突如独裁化するというシステムを抑止するシステムが正常に働く以上、囚人のジレンマの解消はほぼ閉ざされた手法といえ、それを求めることはないものねだりはと考えるのである。

被災以後の原子力を巡る報道は、政府や電力会社の発表を伝える新聞・放送系のマスメディアと、それをあくまでも疑おうとするフリーランス系のジャーナリストたち。そのなかで御用学者(この表現の考え方には別項で)といわれて抹殺されるもの、信念のある人は対立のなかで憔悴する結果破滅に落ちていく。政府の発言は単純な事実伝達も恣意性を疑わせて大本営発表と揶揄され、たくさんのデマまがいの中にあるある程度評価されるべき現象の伝達は『疑わしい情報は・・・』というなかで意義を滅却されている。結果ますます武田さんの意図に反して、囚人のジレンマは混迷を深め、こうした状況をいかに乗り越えるには、独裁者を求める一連の人が出てくることを単に市民が前後脈絡なく『期待』だけするという。
3月11日の前代未聞の災害は、これらをさらにジャスミン革命以降の各国と同じくさて事は起きたが、その後誰が纏めるのかを忘れてことが進んでしまった場合を考えるべきである。

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