« 入電なしと情報過多(1/2) | トップページ | TRIZ的視点から見た解決困難さ(1/2) »

入電なしと情報過多(2/2)

(承前)
来た情報の内容が正しいかどうか、善意か悪意かに関わらず、チェーンメールを受け取ったときには、慌てて転送せずに、落ち着いてメールの転送をやめるようということである。
ブログランキング・にほんブログ村へ
ここで第一のジャッジメントの是非を考える。
まず、チェーンメールなのかどうかという判断は、上記のようになるわけだが、これをすることはひとつの情報の取得を第三者が選択するのに狭めてしまうという見方をする人もとっさのときはいるかもしれない。さらに、この情報を「本当に必要なメール」と認識するものもあろう。もちろんそういうのを情報リテラシーがないものと判断するのは簡単であるが、伝言ゲームでもわかるように同じデータをプラスにとるかマイナスにとるかはその前提条件を個々の人がどう池とっているかによるものである。つまりこの段階でたどり着けるのは、情報リテラシーという知識以前に、情報を受け取る側の心理的環境に大きく支配されるのではないか。従って、抑止はするように仕向けるのは統制側として当然の権利であるが、その効果は限定的でしか期待できないことをあらかじめ覚悟するべきである。

この伝言ゲームの事例は「情報を改変可能な形で広めてしまう」ということにある。最も、現地の情報から政府に伝わる情報自体も管理されているとはいえ本質は伝聞に依存するところはあるが、その間において基礎データを聞いている限りは、品質を保つ一定の機構(それは速度・緊急性を犠牲にせざるを得ない反面を持つ)は保つ訓練をしていると考える。伝言ゲームでの錯誤を減らす一つの解決策は「復唱」であるなど、その手法がいくらかあるわけで、訓練はされているのだ。

第二のジャッジメントであるが、情報リテラシーの面で「又聞き・孫引きは信用してはならないし、それを原典の確認をせずに更に伝えてはならない」というのは、文献探索でも多いわけで古来から問題になることである。しかし、種々の情報源が全部二次情報源であって(現地にいけない以上そうなることは自明)情報にタイムラグがあるなかで判断をしなければならない場合、判断をせずに正しい情報を待つことが実際当事者にできるかというと疑問である。
今回の場合頭の痛いことには、この情報が日本以外の国の助言どころか自国民への指示として飛んできて、各国政府からの見解自体に日本政府の判断を否定するか不信感を持つ国が情報を流した。そのうえで一次情報はきわめて理解できないロジック性の取れないが生の情報が飛んでくるのだから判断できない。原典をたどることに労力として無理があった場合無視する情報とするのはひとつの視点であろうし、最もである。しかし孫引きも、又聞きでも情報がなけれは次の判断をしなければならないと考える人がいろんな場面でいる以上、ここで孫引きの情報を使うことを逃れること自体に既に無理があると考える。先週の金曜日の浜松町の乗車口にごった返していた本邦から脱出する人たち。これは日本国としては情報リテラシーのない人であるのだが、おのおのの信じる国の政府の情報から考えればいくらかの国においては情報リテラシーの高い人になってしまうのである。(日本に見切りをつけた知り合いの日本人IT技術者も今回の機会に移動した。いずれは国籍を動かす予定はあったらしいが。)

第三のジャッジメントであるが、そもそも「大本営発表」という形の情報自体に、欺瞞性を感じた場合もある。今回は上記の外国からの自国民保護の段階で、強い疑いが得られたらしく「公平」とされている海外の高級紙までがこれを言い出し日本国内に情報を逆に入れたということである。(大衆紙にいたっては平時の「東京ス○ーツ」以下のものもあるぐらいで、もっとめちゃくちゃらしいが、それは話のネタとしてしか入っていない。ここしばらくの本邦の「東京ス○ーツ」はそこは自制してる気もする)
上記のように「情報を改変可能な形で伝える」ことを防止するために、情報品質を保つ機構が働いており、またさらに多少の優先順位を発表で決めることはあるので、情報に対しての意味合いが出す側にも聞く側にも恣意的な視点が重畳されているかたちで政府発表が行われる。当然タイムラグはある。
「最初の発信者が発信したときには正しかった情報でも、相手が受け取った時点では状況が変わっている」ということがここで逆説的に起こりうるわけで、それを見つけた段階で聞く側においては「現場の事象と異なるのだがら、政府発表は現象を正確に伝えない」という認識を持つだろう。つまり、ここでは断片的な一次データが入手されることですでに、「出所の分かる情報でもそのレベルは低い」という認識を植えつけることがあり、結果的に大量に流れる二次データのほうに信頼性を置く場合があるのではないか。極端なところ、「東北地方太平洋沖地震に関するチェーンメール等にご注意ください。 総務省」というこの情報さえ、非常に欺瞞性の高いデータと認識する人はかなりあろう。
関東大震災においてはその災害に付帯した流言飛語が種々の問題になったのは知られているが、このときは情報の過少に対し飢餓状態にあったところに、問題の多い情報が混ざったといえよう。しかし今度はあまりにも雑多で品質が担保されにくくそもそも品質が見えない情報が、どこも「一次情報に近いですよ」てな顔をしてしかし善意でどさっとやってくる。正邪を判断する基礎知識とはレベルの異なる応用知識(理解するのはえらく時間がかかる)がなければ、素直に受け容れられない情報でもある。
この3段のジャッジメントのふれはどうしたものかである。ではネットが・・・ともいえないのである。こちらはこちらでもっとリテラシーが求められる敷居の高いモノであるのだが、そこに平時使わない情報にかかわらざる得ないと・・・本質は変わらない。
--------------------------------------------
津波の情報は瞬時に起こり、他国への波及は短期間であったため、陰惨な現場の事情は適度に海外に伝えられているようなのだ。従って海外からの救援が入っている。
ところが、原発事故に関しては継続的に種々のシーン(健康被害・通商的問題・世界情勢や環境問題・エネルギー問題・国ごとの勢力分布)まで含め、各国の対応は統制とは程遠いのである。当たり前だ。
たとえばこのような中で、できるだけ中立の位置を保つことに腐心して(全部公平とはいわない。よりどころを私も持てない)いるものとして、これなんぞは「もと原子力技術を学んでおり、かつ人に情報を伝達するプロ」として一定の評価ができる「二次情報」と考える。
http://ameblo.jp/satoshitaka/entry-10834940369.html
またかの大前研一氏は(普段の彼の論調には、私は一定の距離を置いてみている立場である。かれのやっていた政治団体を解散したとき持っていたバスを、今回の被災地の某バス会社が買って高速用路線バスに使ったというのは受けたが・・・)、原子炉の専門家として日本・アメリカで学んだ専門家でもあり、それなりにロジックのある、事故対策に関する考察を13日に開示し公開しているというのは、自己弁護という意見もあるが、私は「技術者」の良心としてある程度評価できると思う。
http://www.youtube.com/watch?v=U8VHmiM8-AQ

もちろんこれらは二次情報であり、恣意が入っているのは逃れないといえばそれまで。見る人の主観が強固な現実からはこれらの言葉は絵空ことにしか読めないのも、やむをえない。
さらにどこの放送局も一応は専門家を入れていたが、おおむね問題意識がある一流の研究者であるのだが、一次情報がない以上放送という前提ではいえないのだろう。しかし誠意ある対応を「技術者として」やっているのは技術者倫理の見地から見て確実と考える。しかし、この態度を市民によっては「技術者の良心があれば、原子力の研究開発をやめることでは」=「御用学者」といわれると回答も出ないのである。
-------------------------------------------
私自身は省エネルギー技術と技術者倫理教育を専門にやっている。原子力ベースの技術者倫理教育は統制を保つため教条主義的視点の弊は多少あるのだが、このような「大衆への説明責任」「問題解決」ということを必須的に考える場面に常日頃からさらされている。ということもあり、日ごろから多くのプログラムにおいて検討されているものである。
但し、では同じエネルギーを太陽電池で得てということは、現実には無理である。計算上は得られる可能性もあるが、需要時間帯がことなるのと光の当たり方などで最大効率を得ることが難しい機構など、代替が利かないのである。さらに省エネルギーによる効率改善をとなると、物流を最小限にするというところ以外は、代がないというのも事実である。これはあらためて稿を改めるが、それこそ日本の人口を2/3に間引くなどという倫理的に人間として不可能なこういを容認するレベルでしか、省エネルギー目標が得られない可能性があるとさえいえよう。さらに精神論で省エネを進める団体もあるが、これは従事者がつかれきって結果的に効果を得られないか、省エネと引き変えに業績も急降下し廃業となる場合もある。確かに廃業するしか達成できないという倫理的には立派だが、生計とはバランスが成り立たない自主的にきつい省エネ目標レベルを設定する企業・団体って、たまにあるんです。そこで、モノに頼らない生活を提唱することはあるかもしれないが、思想統制の弊害が露呈することもある。
原発容認否認というのはどこに社会の基盤をおくかであって、原発を避難しそれ以外の化石エネルギーを消費すること(ロシアから天然ガスをパイプラインで買う)、原発で作ったフランスの電力を買うことで、「国内」に原発を最小限にしているというドイツでも一時はエネルギー削減のために容認していた時期がある(この段階で既にクリーンエネルギーといういみではいささか欺瞞なのだが)

もっとも、たまたま私の両親(一人は原爆投下時の広島におり、究極の焼け野原を経験している。一人は空襲はなかったのだが、食料で苦労した)と話をしたら、この当時の話から連想していくのにはこまってしまった。いくら原爆とは異なるからとはいえ、結果的に壊れた発電所を同類と見、被災者を差別感をもって扱う人はゼロにはできないとまで(ちなみに、親のそもそもの郷里は映画「黒い雨」の舞台の土地でもある)。で結果このような情報の偏在による問題としてはひとつは
「情報を遮断する。報道も見ない」
というのではという。仏教における思想にこのような諦観(全体を見通して事の本質を見きわめること。)のひとつとしてもあるんだそうな。まさに3世紀 魏の竹林の七賢のごとく悪意と偽善に満ちた社会に対する憤りと、その意図の隠蔽をするのであるが。
但しその日に急な計画停電で都内まで車内に閉じ込められ5時間かかったとか(そのときは政府の告示を見てすぐ出先に20キロ歩いたという女性までいて驚いた)あると情報遮断は、生きることはできても生きる糧を失うという側面もあるわけで、仕事をしているとはいえ隠居に近い70台の人に言われても、情報過多から入電なしに意図的に切り替えるのは、仕事・やるべきことがあるから(会社があるからではない)生きていられる現実から目を背ける、きわめて非現実的な行為であると私は憤慨したのである。
たしかに、技術士さんでもあまりにもずたずたな2次情報体制に業を煮やして、そういう姿勢をとる人もいる。けどそのような人も最低限のデータはとるわけだから、厳密な情報遮断ではないのだが。
--------------------------------------
すこしインターバルをおいてまた書いていきたいと思います。

|

« 入電なしと情報過多(1/2) | トップページ | TRIZ的視点から見た解決困難さ(1/2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/51183445

この記事へのトラックバック一覧です: 入電なしと情報過多(2/2):

« 入電なしと情報過多(1/2) | トップページ | TRIZ的視点から見た解決困難さ(1/2) »