« 問題意識の違いであろう(3/3) | トップページ | そこに着地したわけで »

あっけらかんとした率直さ

--------------------------------引用
放送批評懇談会が選ぶベスト番組【ギャラクシー賞月間賞】 失政にも“あっけらかん”の元官僚たち~NHK「なぜ希望は消えた?」  (GALAC 2011年1月号掲載) 2010年12月19日(日)配信

ETV特集 「なぜ希望は消えた?~あるコメ農家と霞が関の半世紀」
10月3日放送 22:00~23:30 日本放送協会

ブログランキング・にほんブログ村へ
戦後、食糧増産の掛け声の中で希望にもえて、米作りを始めた山形県の3軒の農家の半世紀の歩みが丹念に描かれる。その一方で、戦後の農業政策を主導してきた農水省(農林省)官僚OBたちの「証言」が次々に紹介され、農村の戦後史と対比される。番組の骨格となるこのユニークな手法に、まず意表を突かれるが、その構造を通じて明らかになるのは時々の農業政策が誤算の連続だったという、紛れもない事実である。
農村でも都市勤労者なみの所得水準をと、農業規模の拡大が計画されたが、農村の都市化や人口流出などの社会全体の変化を見誤り、自分の土地を手放さないという農家の意識の前に計画は破綻する。さらに、1970年に突然打ち出された減反政策。それまでの方針とはまったく逆の対応を農家に押し付けることになる驚くべき政策の変更だが、「減反」は現在も継続され、休耕田や耕作放棄地が増え、稲作農家の意欲を失わせる事態を生んだ。
農政の変更に翻弄され続けた農村の実情と「猫の目農政」と揶揄されてきた戦後の農業政策の失敗を見せつけられる思いがある。
むろん、番組では現在の農業の疲弊の原因を、官僚が主導した農政の誤算や失敗のみに押し付けようとはしていない。しかし、各時代の政策立案に関わってきたOBたちの発言からは、結果としての戦後農政の誤りに自らの責任を認めるという意識は感じられず、彼らの言葉や表情から見える“あっけらかん”とした率直さ(無責任さ)に驚かされるばかりだ。このことを強烈に印象付けたところに、この番組の真骨頂があるというべきだろう。
出演者のひとり、稲作農家の佐藤章夫さんは自らの農業経験と農政の変遷を総括し、大学院に学んで博士論文にまとめたという。官僚と農民とのこのような意識の落差の間に、この番組が突きつける重い問題提起があると思う。(戸田桂太)
--------------------------------終了
私はちょっとひねくれた見方をする。

官庁がよく「シナリオ」という表現で言う、策定する技術開発や政策実現のためのロードマップがある。この作成で投入する資本(お金も人的資源も)がある程度決まってくるのだが、このプランは一度決まると変える事が難しいのである。世論や情勢が変わると過去の資産を無駄使いという解釈になることも多く、政策変更を無視して突き進むか、何もしないという消極的対応を求められる。しかも、このところは世間の進行が早く変動し、長期計画をたてて修正することは、無効な仕事(使わない技術開発、使わない設備、使わない投資)を増やすため予算膨張をまねき、結果何も目的を達しないということがおき始めている。
困ったことに、このような行為は利益相反を生み出すことでまえに進んでいくのだが、意識の落差というか認識に基づく立脚点の違いが解消されないままでは、業務は推進できないとはいえよう。そして、農村の都市化や人口流出などの社会全体の変化は、農業政策以外の問題から波及して起こした行為であり、農政の専門家において把握できないのは免れない。農政を良かれとプランを立てても、動かない人おり、動けない人あり、違うビューを持つ人が生じて、そしてこの方針決定には十年ぐらいのスパンをこと農政においては要する。・・・というのは業務が1年サイクルで動く気候に依存した業務だからである。(工業化農業というモヤシ栽培や、酪農などの工業化産業がこの後に続く工程ではこのようなことはそこまでおきず、早い改善・対応ができたというのがひとつの考え方。また不稼動時期が生じる北国では遅くなるのもその結果であろう)そして10年前のプランがまったく対応しないとなると、大幅な方針変更がおきるにしたがって、方針決定ができずドロップアウトしていく人ができ、結果失政としか評価されないのが、工業などに比べて評価しにくいことで成果が出ない見え方になる。そこで社会は投資効果を疑い、更に投資が非効率になるというサイクルが生じているのではないか。

『各時代の政策立案に関わってきたOBたちの発言からは、結果としての戦後農政の誤りに自らの責任を認めるという意識は感じられず、彼らの言葉や表情から見える“あっけらかん”とした率直さ(無責任さ)に驚かされる。』という書き方であるが、じつは自らの責任をもし求めたとすれば、回答がどこにもない方針に翻弄された過去の経緯から、結果的に業務は水のごとく流されるまま、黙々と第三者の指示を忠実に実行するという行為に徹することが、概念が構成されてい「社会」に対する公僕として全うな活動であるという見方はしてもやむをえないと思う。
もちろん戦後農政の誤りに自らの責任を認めないのは自己弁護・自己擁護で当人が良かれとしており、むしろ役人などの指導者によって自由自在に動くことで社会的責任を達成するか、農業事業者の意向に従って自由自在に動くことで社会的責任を達成するかという判別がある。もし、独自性を出すという場合(尖閣列島の例の情報漏えいのように)それがもともとの「公務員の本分」でなく、そもそも独自性を公務員が持つことは好ましくないという行動にいたるならば、そもそこ責任を取るべき相手がどこにあるかという問題対応の姿勢自体の前に、公務員という職がこのような迅速な改善行為に適しているかという自己矛盾に陥るのである。
また、このような中で問題意識を持つ官僚の卵たちは、農政に対する関与をあきらめ、それこそ研究者になるか違う仕事に就くか、更にはコンサルとなってあくまで外野でわいわい騒ぐ立場に身をおきなおすかになり官僚としては全うしない。結果そもそも「各時代の政策立案に関わってきたOB」にもならないし、また意見ある人は官僚≒公務員の存在価値を疑わせるTVの取材に対応しないという消極的姿勢もあろう。この段階でTV番組として意見のバイアスがかかってしまうことは免れないと考える。
彼らの言葉や表情から見える“あっけらかん”とした率直さというのは、じつは回答を性急に用意できない問題において、官僚と農民との意識の差というより根が深いの問題があろう。官僚と農民との間の意見の重なりが起きないところにおいて、空理空論しか提示できないし、それ以上もそれ以下もできないし、特定の思慮を現場で「考えて」行うことに既に制限がはめられていることも、露呈するのではないかと考えている。あっけらかんとした率直さは無責任さと同じに見えるが、官僚という立場の限界と無力さ、そして責任って誰に対してのものかという、目的設定の変動幅の大きさに対応しない責任範囲の狭さを、公務員各自がが公共性の元で担保させられている証左ではないか。
----------------------------
官僚をあっけらかんにさせた一因は、社会の要求が離散しているからである。つまり意見が統一できない社会では人間が複数関与すればするほど、何もできない三すくみになるということではないのか。

|

« 問題意識の違いであろう(3/3) | トップページ | そこに着地したわけで »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/50653153

この記事へのトラックバック一覧です: あっけらかんとした率直さ:

« 問題意識の違いであろう(3/3) | トップページ | そこに着地したわけで »