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隣がだんだん遠くなる

仕事で兵庫県播磨地域に来ている。
意外な話と思ったのだが隣町で、都市圏もつながっているはずの、加古川市の加古川駅から、隣町の高砂市の中心にある高砂まで行こうとすると、バスもあまりない(下手すると2時間に一本)というのである。高砂市は私鉄(山陽電鉄)の便があり神戸方面・最近は大阪との連絡は(速度はともかく)比較的利便性がいいのだが、遠距離の連絡がある反面隣町まで行くのにもむしろ苦労するわけである。ちなみに高砂市は工業都市で人口10万、加古川市は人口20万人である。廃れた町とはとてもいえない。
もちろん乗換えをすれば、なんとかなるはずなのだが、これでも、加古川の街中から、私鉄の駅(山陽電鉄尾上の松で乗り換え)までいくのも、実は1時間に一本しかバスがない。(市のコミニュティーバスを入れると30分毎)ちなみに電車は15分毎。あららである。しかも道路渋滞でバスの遅延はあるようだからなおさら使いにくい。
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実はもともと加古川から高砂までは国鉄(国鉄高砂線)があり、貨物を中心に営業していた。旅客列車はそれなりに1~2時間おきぐらいに走っていたのだが、日中でも10~15分ごとに走るバスにはかなわなかったのである。これが、この路線が貨物のニーズが低くなりバスにて代替できるといった理由なのだが、その後自動車の普及と、工場勤務者の工場合理化、更には工場がバス会社に委託したり、送迎バスを所有したりによるユーザーの減少も重なり、つるべ落としに乗客が減ってたということになる。いまやその頻繁に走っていたバスも極端に便が減り、すぐ近くの大きな町どうしの交通が自動車以外には乏しいということになったようだ。
最近、高速バスなどの普及で拠点間輸送についてはどこも便利な時代になった。ところがこれは、一点から集約する形になりそうだ。ここでも神戸までは便利、姫路も便利、しかし隣町には行きにくいどころか、自動車がないとまったく手段がなくなってしまう。日常生活は、タクシーでしか動けない。車なしではどこも動けないということになってしまっているのである。そして車が買えないという人は当地でも最近の社会動向も反映してか、この地域でも産業がぱっとしないことから、じわりじわりと増加しているらしい。職がない人といっても、日銭を稼ぐために車を持たないわけにいかないし、車があって勤務地にいけるとか産物を持っていけることが前提で社会が動いている。
つまり、暮らしを構築する基本的なコスト負担環境が増大し、それをケチると生活が成り立たない。そのため見かけ上生活がよくなったように見えても、実態の感覚として必須インフラの供給が保たれるためのコストが高すぎて、結果として生活はよくなったという実感は出てこなくなってるのかもしれない。
子供の給食費を払わないという人には、本当に貧困の人がいる場合が多いし、いくらそのような人には福祉(生活保護)で救うから捕捉しているので、官庁としても手を下すということができるという。しかし、都市部の貧困者にはモラルの問題なのか、ケータイには月何万も費用を割いているのに給食代をはらわない(そちらに避けるほどの収入がない)という問題がある人が多い地域もあるらしい。
一律に判定するのは危険だが、当人の問題意思の欠落、モラルハザードということだけで処理していいかなという気はする。たまたまケータイがあることで日雇いの仕事を得ているということもある。そこの必要経費が認められないということなら・・・
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まだ人口が増加傾向にあるこの地域でもこうなのかと思った。おなじことを人口が減っている地域でも感じることはある。たとえば東北だと仙台に一点集中というのが南のほうではあって、隣町や、地域の支所があるところにいくよりも便利というところもあったり、下手すると山形県内でも隣の宮城県の県庁所在地であるところのほうが便利だとか。一種のハブ構造になるのかもしれない。となると、地域振興という形でその地域をもりたてるという思考が薄くなり、とおくの町に依存知るということが是とするならば、自力よりも予算をどこからか獲得・・・という発想につながってるんかもしれないなあと思った。そらそうだ。広域の流通によって物品が流通することで生活が成り立つ。自家用に物を作り、それを食べ、家は近所の人で山から木を切って建築しという形はすでに社会の中での固定的な位置にもすわっていないことになる。物流によって生活を維持するのが思想的に世界の標準になる。
地産地消という活動(一村一品運動とともに大分県が嚆矢である)は、エネルギーというものの削減という議論以外でも、評価されているのだが、ここには裏があり、遠隔地に送ることで付加価値をあげても、物流業者に経費は流れる側面もおおいのなら、地場でそれなりに高いPAYで消費するというほかに、「本当に付加価値があるなら、その人自身が消費しにくるであろう」という見方をするわけで、ここで間接的には物流(運輸という意味・・・人間を対象にした)の意義を認めたからこそという側面はある。この発想は観光で人を集める(ゆふいんとか別府とか・・・)経験豊富な地域の発想で傾聴するべきである。ところがその後「地産東消」という言葉を大分県では言い出した。これは本質をまったく摩り替えた言葉になっている。つまり、地産地消ではINPUTが頭打ちになるということで、一見そうは見えないが「地産地消」の限界・頭打ちをある程度肯定したものであろう。
この点あたまから「製品を県外に付加価値を無理にでもつけて、需要地で強力に販売する」というのを隣の宮崎県は気がついており、物流がなければ収益を奪取できないという点をわりきっていたようだ。これは今でも観光で立地できる大分県と、観光立県が世間の動向でふらつくパラメータである(新婚旅行のメッカだった時代があった)ため過度に依存しないほうがいいという認識の違いかも知れぬ。
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2つの町があっても最近は「共存共栄」という環境は難しいようだ。かつての福岡・博多の町のように相互補完した町の並立が成り立つ場合もあるのだろうが、どちらかがメインになりどちらかが廃れるという食い合いになっている。ストロー現象にしかり、物流という概念が中央集中で地方の文化を価値が低いかもの珍しいものにしてしまい、それに順応する人と、それに反発し小さく引きこもるというものがどうしても出てくるというメカニズムが、地域によっては改善や革新を不可能にしたり拒絶する結果、だんだん相対的に衰退する地域が出てきてしまうことはあろう。ただしそれを「都市が地方を搾取している」とみるか、「地方が活力を失い都市へ依存している」と見るかは主観の差しか意味がないのかもしれない。
老人の僻地での医療過疎に対する答えには、僻地医療従事者の充実という声もおおいが、最近は経済性での視点を重視するために、あえて医療が必要な老人をあえて都市に強制移住させ、老後を暮らすのも高度な医療を必要とする以上集約させるという見方があるという。いったい人の幸福は医療による長寿か、ある程度の医療と穏やかな生活との選択を促すというわけ。人権的問題(ただし北欧はこれをあえておこなうことがあるというのも聞くが)か生存の確保が先か・・・という選定であり、これにも輸送という語彙が結構かかわっている。
輸送体系の変化は、よりどころにしている生活や嗜好、主義主張の変化を強烈に、しかし「真綿で首を絞める」ようにそれとなく支配しているのかと思ってしまうのである。

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