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非礼であるらしい

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問われる民主党の皇室観  2010.12.2 03:24 産経新聞
 先月末の議会開設120年記念式典で、民主党のN氏が来賓の秋篠宮ご夫妻に「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と発言していたことが分かった。皇室に対して極めて非礼である。
 天皇、皇后両陛下のご入場までの約5分間、秋篠宮ご夫妻は起立して待たれ、国会議員も立っていたときの出来事である。N氏の発言は大声ではなかったが、周囲に響き渡ったという。
 N氏は「早く座らないと誰も座れないよ、と言ったかもしれないが、秋篠宮さまに向けて言うはずがない。副議長らに言った」と釈明した。たとえそうであったにせよ、問題に変わりはない。
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 式典は、明治23(1890)年の第1回帝国議会から120年を迎えたことを記念する厳粛な儀式だ。両陛下が来場されるまでは全員が起立し、威儀を正して待つのが礼儀である。
 秋篠宮ご夫妻への不満は、天皇、皇后両陛下への礼を失したものでもある。N氏の発言の責任はそれだけ重大だ。

 自民党など野党は衆院にN氏の懲罰動議を提出した。当然である。議院運営委員会の理事会では、N氏が「お騒がせして大変申し訳ない」と陳謝したことも伝えられた。
 N氏の発言は複数の議員が聞いている。西岡武夫参院議長も事実関係を調査する意向を示している。与野党とも、安易な妥協で済まさずに調査を続行すべきだ。
 民主党政権になってから、皇室に対する敬意を疑われるような言動が目立つ。
 昨年暮れ、習近平・中国国家副主席が来日した際、当時の鳩山由紀夫内閣は天皇に会見を求める中国側の要望を一方的に受け入れ、「1月前までに会見申請をしなければならない」とするルールを無視して、強引に天皇と習氏の特例会見を設定させた。
 しかも、当時の小沢一郎党幹事長は「陛下にお伺いすれば(習氏との会見を)喜んでやってくださると思う」と述べ、天皇のご意向を勝手に忖度(そんたく)した。
 また、現幹事長は外相だった昨年10月の閣僚懇談会で、国会開会式での天皇のお言葉に注文をつけた。
 民主党政権は、天皇の政治利用を慎むとともに、両陛下と皇族に敬意を払うべきだ。
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まあ、人としての振る舞いということと、政治的な問題というのをここまで混在している産経新聞に記事もある意味困ったものだと思った。いや、N氏の話だけでなくこの記事としてである。
催事の存在自体に意義を見出したかったのだろうが、これが共有されないという社会環境の変化と、その趣旨を前提として有権者が議員を選定している「はず」であることに、すでに実行側とすれ違いがあるとも思う。厳粛な儀式は国会の存立の歴史的意義を表すのではあろうが、そこに新たな価値を見出したり、その儀式が社会への「金銭的還元」にならない以上、関与は本当は無意味だが、権威という形式的なところにしか価値を見出せないという人がかなりいるのではと考える。
議会開設120年記念式典ということは、ある意味モニュメント的なものである。少なくとも日本が近代社会として「議会制」をとって立憲君主国であることを確立した時代カラの経緯である。この場合の君主は「天皇」にあるのだから、ここで天皇家の立席を仰ぐとは筋としてはもっともである。(但し必要な行為というのとは同一ではない)しかし、ではこの催事にどれだけの議員の参加があったのかというとこれまた疑問で、出席者は約半数なのである。
この中には共産党のように帝国議会時代は議会制民主主義を採ったということでないことと、そもそも天皇制自体の価値を見出さないというところから公式に参加を辞退するという形をとっている場合もある。(ちなみに天皇が形式的にせよ出る国会開催式も共産党は参加をしないことを貫いている。帝国議会では非合法扱いの共産党は、その当時は当然参加できなかどころ刑罰の対象になっていたわけで、公的に筋を通したともいえる。)但しこれは最初から理由を明確にし、公的なルートで示している以上、相容れないことであろう。

権威は信頼とか心のよりどころとかいう世界で成り立つことである。それは社会概念として「すでに前提条件として」扱われたものである。そのことを疑いだした場合、特に「人間」としての天皇に対し信頼が特段生じない人があっても、その思考を否定することはできない。つまるところ、思考する自由がある以上皇室に対する敬意をもてという強制力は社会にないどころか、敬意の持つ相手自体を社会が指導し形成させることは、実は無理なのではないかと考える。敬意を疑われるような言動どうこう以前に社会インフラとしての「天皇」という概念になったら、おおむね存在は薄くなる。上水道があることを前提に社会インフラを組んだら、水道の存在意義が埋没してしまい、「なんで水に金をはらわなきゃならんのだ」と言い出すのと同じであろう。さらに、搾取する側としての存在価値をもし考えた人がいたら、直接的にお金や利益を供給する行為を演じない限り頭をたれないというのもある意味残念ながら「合理性のある論理」に成ってしまうのである。

では、天皇家を国家の一つの存在として、価値設定するとなるとどういう見方ができるかというと、これは天皇機関説になろう。実は、天皇機関説は当時学問では、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説であり、意外なことに赤尾敏のように天皇制に強い期待を持つものでもその実運用上の骨子は天皇機関説に近いものもある。もちろん、第二次世界大戦後天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立すると、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えたとはいえるのだが、最高機関でなくなった象徴であり人間である天皇はいったい社会のなかでいかなる役割を得るのかは、象徴という言葉に概念があやふやな定義をされ、考えてこられなかったのではと思う。
この、天皇機関説は最後には国体明徴声明で批判されてしまうのだが、天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言したことで政党政治が否定されることになった。これは直前に政党政治の不全と運用の滞りが顕著になった経緯もあり、天皇を絶対視する思想が広まった。軍隊のように統率された運用をその主義とする場合、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であるということは、種々の政策運用の迅速化という側面もあろうが、一部の人物なり利権団体の暴走を招くことになる。
但しここで大きく関心を呼ぶのは、この美濃部らに対して行われた一連の天皇機関説批判はその実、学術論争では無く、倒閣運動などの政争の具に矮小化された点である。(この議論を問題視した議員は、どうもこれは学術解釈に一理あると考え、以降この件の文句はつけていないのだが、これをトリガーにして一部の人が騒いだ。)今回もこのほかにケータイを鳴らしてしまった自民党の議員もおり、お互いに問責決議合戦にすでになってるのであまりの類似性におどろくのだが、その根拠が「国会に対する尊厳」ないしは「皇室に対して極めて非礼」という定量性の乏しい事務的かつ抽象的問題に収斂されて語られており、いささかその議論の稚拙さに「orz」を繰り返すしかない気分である。
見方によるが、「習近平・中国国家副主席が来日した際、当時の鳩山由紀夫内閣は天皇に会見を求める中国側の要望を一方的に受け入れ、「1月前までに会見申請をしなければならない」とするルールを無視して、強引に天皇と習氏の特例会見を設定させた。」というのはルール無視という内向きの議論としてでは問題も多いしのだが、見方によっては天皇を国家の機構の一つとして活用した結果とも取れる側面もあり、また対外的にも天皇機関説の前提となったドイツ法学の「国家機関説」からの類推では対外的にも分かりやすいともいえる。その運用には大いに問題ありとはいえ、これを『天皇のご意向を勝手に忖度(そんたく)した。』とまでいえるかというと、忖度されることを前提にされるから国家の中の「機関」として運用されているとなると、まったく否定できないものではないともいえる。このような言葉の表現と専門用語からの認識が異なることは先の「暴力装置」の発言が政争の具になるのと同じである。(侵略、テロなど言われ無き暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけである。よって暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力が社会の中で準備されなければならない。マックス・ウェーバーは軍隊、警察などこれに相当するものを「権力の根本にある暴力装置」と称したといわれる。)
したがって、あくまで象徴として位置付けされているものに対して、墨祖のごとく敬意を払うことは強制したくてもできないというのが現実なのではないか。象徴という存在の定義がすでに難しくなっており、さらにコンセンサスを得るには実際の利益を享受することが天皇の存在により、間接的(例えば国のステータスや文化のよりどころ)でなくあくまで直接的(給与の支給社だったり顧客だったり、果ては写真に一緒に写ることで当人の価値をあげる宣伝材料になったり)に必要だというなら、現在の日本における宗教や思想が摩滅しているのと同じく、この祝福に意味を見出すことはないし、セレモニー自体を社会が求めないのであろうから。
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但し、ここで天皇家もまた「人間」であり、人格を持つ一個の存在として扱った場合、これらの言い方は相手の心情を気づくける可能性があるというところを、N議員がまったく想起していないというところは、国会議員どうこうという以前に人として非難されるべきである。来賓の秋篠宮ご夫妻にいったわけでなく、仕切りをする担当者に対していったとてもある。大体こういう式典を運営する側の経験があると、こういうイレギュラーな問題に対し、対応するのは相当な仕切り能力と調整技術が必要だというのを経験している。
その立場で言うと、人間としてこのような意見を意図せずにせよ発言するのは、現場を知らずただその上に乗ってきたという立場を露呈したということで、国会を愚弄したというより、有権者を愚弄したともいえるかもしれない。もっとも有権者が議員に人格高潔さを求めず現世利益のみを求めるという姿勢を貫いた、利益誘導型の人材を送り出している場合もまた多いので、その場合は国会の愚弄でも有権者への愚弄でもましてや天皇家への愚弄でもなく、ただその有権者の求めに応じたということもあるかもしれないが。
N議員はその今までの政治的な立場を考えると、この議会開設120年記念式典に対し「まったく存在意義を認めていなかった」可能性は否定できないと思う。けど元大臣相当職を勤めた手前出ないわけにはいかなかった。本来ならば多くの議員と同じく「出ないでいい」という姿勢を保ちたかったのかもという気もする。

要するに懲罰動議とかどうこうという内容に、本件はなじまないと考えるし、無理にそこに話を持っていくと矮小化した政争に帰結させるやからが極めて多いこと、かつそうした事例が幾多もあることは考えなければならぬ。ただ人間としてその行動に問題ありとする人が、その議員のみを投票しないということになるべきであろう。もっとも「明日の幸せより、目の前のジェニ(銭)」というモットーのある至近な現世利益を求める人の群れや、そこしか頼るすべのない現実に直面している人に対しては、机上の空論とみなされ無力だが。

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