« 母集団の偏在は免れない(1/2) | トップページ | LED照明は電車にはいいのか »

母集団の偏在は免れない(2/2)

【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思(さえき けいし) ウィキリークスの危険性  2010.12.20 03:01 産経新聞
(承前)
----------------------------------------再開
 40年ほど前の沖縄返還交渉において、佐藤政権は基地の継続使用や核持ち込みについてアメリカ政府と密約を交わしたが、もしこの外交機密がリークされておれば、沖縄返還はどのような経緯をたどったであろうか。
 当然ながら、政治的決断においては、今ここで公表できないものはある。「裏」に隠れたものは、それに関わる人々の信頼によって維持される。それが個人の間の信頼であれ、組織的なものであれ、関わるものが守秘義務をもつという相互の信頼において成り立っている。この相互信頼があって、「表」と「裏」の二重性が維持されるのである。告発の「匿名性」はこの信頼を著しく損なうのである。
 ウィキリークス的なるものは、政治を構成するこの二重性を認めない。「裏」をすべて「表」に表出すべきだという。それを「民主主義」だというのだ。
 私には、子供じみた悪ふざけと子供じみた悪意に正義の仮面をかぶせているようにしかみえない。しかし問題なのは、「民主主義」なるものがこの種の悪意と高い親和性を持っている、ということである。少なくとも、民主主義はこの手の情報公開というまやかしの正義に対する免疫力が著しく弱い。
---------------------------------------中断
ここからは認識の差異がでてくるかもしれない。
ブログランキング・にほんブログ村へ
ウィキリークス的なるものは、政治を構成するこの二重性を認めないのを、民主的という帰結だけで活動しているとは思えないところがある。それは科学的というある意味思想的でまやかしがないとはいえないけれども、一つの絶対的ドキュメントの唯一性を提示し、その「情報性だけを評価するべき」で、各自はそれに対してどう推察し、思考しというところまで拘束もしないことがある。最も大方の従来の報道や情報の見方をする人・・・それがほとんどの「公衆」であろうとおもうのだが・・・子供じみた悪ふざけと悪意だけを感じ、パパラッチ的視点で語る人がやはり多いのは世界各国おおかろう。

ただし、本当のウィキリークス的なるものの意図はここではなく、パパラッチ行為はこのリーダーは副産物とみなして必要悪の存在と割り切っているのではと思う。根底に「絶対的ドキュメントの唯一性を疑う2次加工されたデータの活用」によって、実態と乖離された「実感」をもつ社会構成への嫌悪であり、その段階で人間交際の不確実性やブレ、個人的なという確実なロジックが担保されえない個人間の深い信頼を排除するというなら、これまた否定しにくい。表裏という一意的でない現実の露呈と2次思考の展開への寄与ということかもととおもう。けどその趣旨とおりに公衆にといどいているかというと・・・
---------------------------------------再開
 内部告発や機密情報の暴露がすべからく間違っているというほど私は原理主義的ではない。しかしそのもっとも危険な点は、内部告発や機密情報の暴露をひとたび正義にしてしまうと、政治や組織を支えている基本的な人間相互の信頼が失われてしまうことにある。
 「人間交際」の基底には「義」とでもいうべきものがあり、明らかにより大きな「大義」がなければ、簡単に破るべきことがらではないだろう。先般の海上保安庁職員による中国漁船衝突の映像リークも、確かにもとはといえば民主党の対応の稚拙にあるにせよ、決して「正義」の名で称賛されることがらではない。
---------------------------------------中断
内部告発や機密情報の暴露を正義とすると、政治や組織を支えている基本的な人間相互の信頼が失われてしまう。それは私も思う。しかし先般の海上保安庁職員の事例に仮託すると、基本的な人間相互の信頼(それは海上保安庁職員の職責も含む)自体が政治や組織の社会的責任より低い社会的価値と考えて、これを発表しているという節もある。
第三者が経緯を想起せず正義だとうかつに言うのは私も憤懣やりかたない。その意味でこのようか活動は否定するべきと思うが、人間交際の基底の「義」が、きわめて軽くてもIT環境が生活自体を可能にしており、意見を公にすることもできるという思考が否定できないITというツールが潤沢に供給というか街中に落ちている現代である。
政治や組織を支えている基本的な人間相互の信頼自体を抹消した生き方が成り立つなら、この海上保安庁職員の場合はドキュメント(つまり加工しないビデオ)の「生データの公開」がみんなに考えてもらう材料として供給する事が明らかにより大きな「大義」という思考は成り立ちうる。これはミートホープ事件でもそうである。しかも各々自分に対して「旧来からの」社会によるそしり・非難・抹殺を前提としてすでに内部告発や機密情報の暴露をすることを社会的使命としてるのだから。極端なところ「グリーンピース 」、「シーシェパード」における鯨への対応にも根源的姿勢は近かろう。
つまり、基本的な人間相互の信頼自体を社会が共通に用いる事はすでに喪失されているという認識は持ってもいいのではないか。そして政治や組織を支えている基本的な人間相互の信頼が社会を造るという事が前提と考えてる人は、統制を前提とした社会をその究極の目的に持つ。基本的な人間相互の信頼が社会を堕落させてしまい、代わりにその基本にあるのは科学技術よろしく絶対的唯一の「事実の蓄積」となることをよりどころにするならば。
--------------------------------------再開
 インターネットの展開が民主主義を促進するという根拠のない楽観論がずっと続いている。そうかもしれない。しかしその意味は、それは、政治の基底にある人間の信頼や「義」を喪失させることによって、政治的な混乱と不信に拍車をかけるということであり、それこそが民主政治の帰結だとすれば、はたしてこの事態を楽観などできるのであろうか。
--------------------------------------終了
この結論を見ると、佐伯さんはたぶん気がついているのだろうが、私は逆な議論展開で締めくくる。
人間の信頼や「義」という問題に対し多大な労力を割いて、そして帰結するところはたいしたことがないという落胆にさいなまれながらも他の手法もないし・・・という人も、従前かなりいたのだろう。だから、人間の信頼や「義」とかを排除できた上で生きていければ(ここが大いなる矛盾でもあろうが)排除したい。そこに排除する事が可能なインターネットというツールが流通したことで生データにやや近いところにアクセスできることになった。もちろん不信がのこるから政治的混乱は起きることは当然あろうが、それと人間の信頼とどっちが「各個人」にとって必須なのかとすると、個人主義を貫く社会では政治の混乱はその気になれば社会の外(海外もそうだろうし、引きこもりもそう)に逃げ出せば回避できるのである。
だから民主政治は個人主義によって排除されるわけであり、残るのは民主という概念である。

ところが直接民主主義にとってはIT技術はあるいみ使いでのあるツールという側面もあって、政治家というものは不要になり直接民主主義的視点がいっそう広まると思える。つまり政治家というものは住民代表ではなく社会と個人間の媒体でしかなくなる。その分狭い都市国家がうじゃうじゃでき、相互調整が難しくなるという古代ローマ時代チックな世界観ができるかもしれぬ。ないしは原始共産制かもしれない。その段階で旧来の「科学の進歩」がとまることも覚悟して。
回りまわって世界は帝国主義より前に流転・先祖がえりした。ただそれだけなのかもと思う。すでに国益という概念さえも消えるかもしれない。

|

« 母集団の偏在は免れない(1/2) | トップページ | LED照明は電車にはいいのか »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/50354286

この記事へのトラックバック一覧です: 母集団の偏在は免れない(2/2):

« 母集団の偏在は免れない(1/2) | トップページ | LED照明は電車にはいいのか »