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母集団の偏在は免れない(1/2)

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【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思(さえき けいし) ウィキリークスの危険性  2010.12.20 03:01 産経新聞
 少し前に大学の講義で学生たちに「政治家は場合によっては嘘をついてよいか」と質問をしたことがある。すると多数の学生が「よい」と答えた。少し意外な気もしたが、内心「結構、大人の考え方をしているものだ」などと思ったものである。
 もちろん、事と場合によるであろう。国民代表の政治家が国民に対して真実を告げなければならない、というのはいうまでもなく政治家の責務である。しかしだからといって、政治家は常に正直で誠実で国民に対して本当のことを話さなければならない、などというのは子供じみた民主主義の形式論である。実際の政治が実直さだけで動けば政治家の苦労も半減するであろう。政治家に「裏」も「表」もあるのは政治家の責任ではなく、「人間交際」がそのようなものだからである。
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経済学者の佐伯さんはその道では論客として知られているが、これを聞いて、「うーむ 母集団の偏在は免れないなあ」と思ったものである。
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たぶんここで学生(たぶん京大生、かつ法学や経済学部生であろう)に聞いたというところにすでに偏りが出てるきもする。というのはこれを理学部・工学部生に聞いたらどうなるかというと、「空気を読むことを前提にしなければ」いくらか反対の意見がでてきかねないのである。

私もこんだけ長い間社会人をやっており、応用倫理に関する研鑽をやってきて、いろんな立場の人に話を聞いてもらったりしたりということをしていると、「政治家は常に正直で誠実で国民に対して本当のことを話さなければならない、などというのは子供じみた民主主義の形式論」という考えに同調する立場である。しかし、政治家ならずとも「人間交際」が「裏」も「表」もあることから、そもそも人間交際・いわゆる腹芸の世界に対し嫌悪を抱き、その素質が無いからこそ比較的ではあるが絶対真理という主軸をもつことができる理系の学問に進み、またそこに主眼を置いた生活をしている人は少なくないと考える。
つまりここで「人間交際」がそのような曖昧模糊なものだからということ自体にどこかうさんくささ、疑念、生理的違和感を感じながら生活している人が、潜在的に極めて多いことを考えなければならない。
私の場合でも割とある事例なのだが、技術者の社会的責任といった場合、特に技術といっても政治的視点がどこかに絡んでくる。具体的な場面として事故調査報告や裁判審議などで言われる罵声は、聴衆側の圧倒的な不満感である。それの一つは「言うことに対して隠されたことや、隠喩などで明確にしないことで理解できない人物がいるような、きわめて複雑な発言が、各自の業務の内容において必ずある。そこが意図しても意図せずとも技術者の発言や知見が利益相反に係る以上、情報咀嚼能力がない人がわかるまで矛盾無く説明しなければならない」という「説明責任の無限大の膨張」である。
この場合、技術者が政府の立場や企業の立場ならあるいみ「雇用側の責任」であるからある意味聞く側も配慮するし、処世として仕方がないのだが、中間的立場に立とうとしても同じ目にはあうし、意外なのだが聴取側の代理人として立つ技術者に対してもこの反目が聴衆から起こるのである。弁護士をたびたび忌避して代える方と同じ立場になることもある。
つまりこれは人間交際自体がそういう統一性のあるものという見方よりその前に、他者への不信が前提で生きているという視点ではないか。後一つは「損失利益回復のための恣意的誘導」というゼニカネの話になるのだが、根源はそこにあってもこれは言うほうも隠蔽したがる「確信犯」であるから副次的要因としておくことはできなくはない。
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 アメリカのいわゆる「ネオコン」の思想的支柱と見なされた哲学者レオ・シュトラウスは、政治の場で語られる言葉には、「表に出たもの」と「裏に隠されたもの」があり、政治に関わる言説では、人は「表にでたもの」においては決して本心を語らないものである、本当のことは「裏に隠されたもの」においてしか語れない、と述べた。
 本当に重要なこと、大事なことは少数の信頼できる者にしか語れない。微妙なこと、誤解を受けそうなこと、しかし大事なことは、大勢の前でパブリックに表出できるものではない。それは信頼できる者にしか伝わらない。こういうことはわれわれの日常を見ればいくらでも思い当たるだろう。同時に人は、いささかどぎつく自らの思いを表現したり、本気とも冗談ともつかぬ皮肉やジョークによって思いを表現する。これも信頼できる仲間にしか適切には伝わらない。それをいちいちパブリックに表明するわけにはいかない。
 ところで、ウィキリークスなるものによって、この「裏に隠されてきた」情報が次々とネットに公開されている。このケースは、今述べてきた「政治家の嘘」からは少しずれてはいるのだが、しかし全く別の事柄でもない。インターネットの類にほぼ無関心な私には、ウィキリークスなるものの実態やそのメカニズムはよくわからないが、いずれにせよその意味するところは、内部告発や他の手段によって投稿された政府や企業に関わる匿名情報がネットで公開される点にあり、「裏に隠された」情報の表面化である。
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本当に重要なこと、大事なことは少数の信頼できる者にしか語れないということが、少数の信頼できる中で第三者への利害関係に対して無力だと感じる人が要る。その人が社会的にきわめて信義に忠実だと言う評価を得ていても、その評価事態を公正かを疑いだすこともある。
微妙なこと、誤解を受けそうなこと、しかし大事なことは、大勢の前でパブリックに表出できるものではなく、信頼できる者にしか伝わらない。しかし、その結果生きるための要因が隠れたり、また信頼されるものというものが極めて恣意的な知見とすることもある。遺失利益があって現世利益や末代への向上可能性が否定されたりということがあると、そもそも佐伯さんのいうような「人間交際」自体に不信感を持っている人が増加していくと、「裏に隠された情報」の表面化、露呈化を際限なく求め、またその際に加工データでなくデータのべース、元ソースたる生データ(いかにも語彙が技術屋ですな)を求める。
ある程度高度な技術者にとって、加工されたデータが出ていても恣意的視点で意図せず要因が見えなくなることは、そう珍しくなく、そこで元データまでさかのぼっていくことで、そもそも測定手法が悪いとか、測定者の技能の問題や、はてまた本当に特異なデータが生じる新たな知見を得るということはあるという。エザキダイオードでも田中耕一氏の分析計でも理論先行ではなく偶然をキャッチしたものである。偶然がトリガーであるのみならず、理学・工学・農学ではむしろ解析的検討で推奨される行動であったりする。そもそも物事の要因が一元的なもので、そこからの認識の違いで現象がいか二でも変わるということはある。変化する過程をどう把握する流動管理の視点と、元から潰さなければというゴキブリ退治と恒久対策的視点に相容れる事が難しいどころか相容れないのは既知であろう。
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 「裏に隠された情報」にもさまざまあり、アメリカの外交官がサルコジ(仏大統領)を権威主義者と呼んだり、ベルルスコーニ(伊首相)を無能といったりするというゴシップの類から、イラク攻撃の軍事秘密など深刻な外交上、国防上の問題にいたる情報まで多様である。そして、それが仮に無作為に、あるいはある種の悪意をもって公開されればどうなるのか。いずれにせよロクなことにはならない。ゴシップの類の公開は、それ自体は児戯に類するものだが、その子供じみた戯れが実際に政治を動かすとなると事態は放置できない。また、シリアスな秘匿情報が公開されれば重要な政治的・外交的決断に大きな支障を与えかねない。
 それは「政治」というものを不必要に動揺させる可能性大である。
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無作為に、あるいはある種の悪意をもって公開されればどうなるのか。子供じみた戯れが実際に政治を動かすとなると事態は放置できないとは思うが、日比谷焼き討ち事件にしてもパリ・コミューンにしても米騒動とてこの要因からのスタートである。これ自体を否定する事は、むずかしい。(そういえば、日比谷焼き討ち事件の時期にあった、シーメンス事件は、発注者の日本海軍将校に会社側がリベートを贈ったことを、シーメンス社員が会社の重要書類を盗み出して同社東京支店長を脅迫したが失敗したことから、ロイター通信特派員に書類を売り、ドイツへ帰国、恐喝未遂罪で起訴されたというどこかで聞いたような話である)
また、仮に無作為に、あるいはある種の悪意をもって公開というのは情報戦・空中戦など揶揄されるものであるが、これろてプロパガンダ・広報戦略というものに絡むと考える。
つまりこういうことは、「政治」というものを不必要に動揺させる行為で必要性をあぶりだし、プロの政治家の存在を否定する。しかし、実は米国のティーパーティー運動でもその傾向があり、恣意的なもっていき方に従った保守派と、過激なプラカードにも現れる雑多で無秩序な集団の非常にゆるくしまりのない、穏やかかつわらわらと集まる人々の混成(烏合の衆かも)である。(その実、政治家の資質どころか、一般知識のレベルも旧来の政治家の資質に遠く及ばないし国際的な知見をことさら無視するとか無視するしかない低い資質とまで、「政治のプロ」は彼らをこき下ろす。)実はこれらの人は政治の必要性はあるとみなしても、強い管理能力を持つ「政治」自体を不要なものとし、あくまで表層的かつあらい信頼性の関係にあるなかでの狭い世界のなかでの「まつりごと」を意図してるのではないか。だから、不必要に動揺させる政治を前提とし安定性自体になんら価値を見出せないが、それとは別に自分たちはおとなしく生きるというよそ者的な視点を貫くのが、ティーパーティー運動の意図する人々のいくらかの共通認識ではないかと考える。
(続く)

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