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主観と客観

カメラ目線での主観映像(P.O.V. ・・・Point Of View) というのは、映画などの場合、自分がその立場になったというところを感じさせる。そこで日本映画では結構使われている。たとえば北野武の監督映画は、これを極めて多用し、かつ目線の高さを普通の人と同じところに水平に保っている。また鳥瞰映像を従来使ったものもあえて視点を人間の目線にあわせることで、感覚依存の考えを持っている人には疑似体験を含め、気持ちいい景観が得られるという。
ただし、主観と客観というともっと概念が広い、認識論の議論になる。科学では、物質的な存在、事象の観察と理論化を通じて行われる。直接観察できない事象については言及、仮構を控える行動主義のような立場では客観主義と呼ぶこともある。反対に観念主義的視点であるが、内省や内観を重んじる立場もある。
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考えればのものの設計を行うとき、CADなら部分的な拡大で同寸にしていたり、思い切り引いて全体を見たりすることで設計の巧拙があるていどわかるものと思う。主観と客観はその間でバランスを取らなければ、生活の中でも苦労することもあろう。

おおぼけな事象も起こりうるかもという体験を具現化するものとして、粗忽長屋という古典落語の演目がある。
(例:http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug398.htm

たまたま出会った行き倒れを見て、親友の熊と思い込んだ八。今朝も長屋の井戸端で会った。元気だったのに……本人に引き取りに来させるといって制止も聞かずつれてくる。熊ははじめは納得していなかったのだが、説明を聞いているうち、どうやら自分は死亡していたのだと考えやってくる。周囲は呆れるが、説明しても2人の誤解は解消できない。熊は死人を見て悩んだ挙句、「間違い無く自分」という。自分の死体を抱いて泣く有様。そこで熊は、八に聞く。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だ?」

これを、当代の立川談志は、主観性が余りに強すぎたが為に自分自身が死亡していたか否かと言う事すらも、正しく判断できなかったのだと解した。
さて、主観性をもてるということは客観性がある視点を持っているからこそ存在が明確になるともいえる。主観だけで書いているものが、独善に陥りやすいのは、たとえばYAHOO NEWSの下に時々書き込みがついているものにいくらか見られるかなあ・・・と思うことがある。2chにも、そのような記載が全体の空気を支配することがあるし、韓国が典型例であるが、インターネットの普及政策が日本よりも早期で、一方過去の政策的経緯やかつての検閲処置の印象もあって報道活動は比較的活動的(新聞購読者が非常に多い)にもかかわらず、公的情報が信頼できなかったり意図あって伝えられるということもあったため、うわさの信頼性が高い意識が定着し、情報の真偽よりインターネット情報が優先されるネット社会が構築された。そのため芸能人の自殺原因を嚆矢とする、インターネット上における中傷が深刻な社会問題となっている。
しかしこれは緊急時に抑えていたことが沸き出すこともある。関東大震災直後、外国人の抹殺という事件が起こったり、私刑という形が時に正当化される事例に混在しておきたこととてその要因がたまたま顕在化しただけである。主観・客観のバランスを崩した平面的な意見が図面を見るとき、引いて見て、反対に近づいてみて、全体のバランスを見ながらでないと、平滑なある程度広いユーザーを捕まえる商品が作れないのではと思う。
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冷静に客観的に自分自身を見詰めてみても、そう簡単には見えないようである。結果的に「どんな」評価を下すの
は他者である以上、自分で自分は客観視できない。そういう意味で他人のレスポンスを見るのは鏡・姿見となるはずだが、その鏡が平坦であるかというと、これが品質保障できずどこかひずんでいたりするもので、合わせ鏡でもしなければわからない。
カメラ目線での主観映像を多用し、レンズ越しに女の子が話しかけてくるのは、非常に感覚的なところを刺激するので、この形で撮影された映像が多く市場に流れている。そうAVにおいてはかなりたくさんこの手の映像が上市されており、またこれがかわいかったりエロかったり、男性の需要によく合致したものが得られる。主観映像で作られないAVは、過激なもの、たとえばグループプレイものは出にくいというのはあろうか。
しかし逆に、自分を客観視する経験がない人がこれにはまると、実のところかなり実像と虚像の差異が見えなくなり、ネットゲームにはまる「廃人」のような状況になるんではという懸念も感じるのである。日ごろ無意識に図面を手前に引いたり、遠くに持っていったりして、設計を行う。それが、かろうじて設計活動の公衆へ葉の反映、社会性を保つ行動のひとつという視点、奇妙に思えるかもしれない。

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