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観念による動機付けと成果による動機付け(2/2)

(承前)
http://allatanys.jp/B001/UGC020001820100825COK00622.html
エコキャップ運動が投げかける問い  2010年08月26日 安井 至 (独)製品評価技術基盤機構理事長、東大名誉教授
 最近、学校や職場で、ペットボトルのキャップを集め、それを売ったお金で開発途上国にワクチンを贈ろうという運動が急激に普及しているという。
 ペットボトルの本体はリサイクルに回すことができるが、キャップは、自治体によっては回収の対象になっていないところもある。どうせ捨ててしまうものが、ちょっとでも有効活用されるなら、というモッタイない感覚、さらに、さりげない形での社会貢献を好むという日本人的感覚の両方にピッタリとマッチしてるのが、普及の理由と言えるだろう。
 しかし、一部では問題も起きている。その理由は、リサイクルをすることの価値を検討してみれば、すぐに分かることである。(後略)
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まずペットボトルの価値は材料の価値そのものでなく、飲みきる前の「衛生面」「ハンドリング」「保管性」に対しての価値であり、飲み終わった段階ですでにぺットボトルの本体もふたも価値としては0円になると考えられるという認識である。
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特に、寄付したものは寄付者にとっては0円の価値しかないものであり、分別する人にお金は現実回っていない。(缶ジュースのカンの回収には1円ぐらい出るという場合もあるが。どっちにせよそれは、本当の備忘価額程度である。現実大きな対価にはなっていないだろう)そこで、輸送費を掛けることを問題にすること以前に輸送費のうちの適正な人件費と管理費をその0円の価値しか単体では見出せないものに対して充当することによる社会活動への促進と雇用の確保、また集荷に協力した団体(NPOなどや官庁・施設とか)への適正な対価、さらには廃棄物を処理するごみ処理場の設備投資縮減への対価とそれに関したCO2削減というところへの対価であるというのが本当である。だから、本当は
「ペットボトルのキャップを集め、それを売ったお金で開発途上国にワクチンを贈ろうという運動」
社会活動と静脈産業への支援への動機付けに過ぎないのであるが、大々的にそこに価値創造の根源を見出した動機付けを行った結果、「開発途上国にワクチン」が一人歩きしてなんのことかという誤解を招くことになるのだろう。

そこで欧米人の場合、「こんな面倒な手続きを経ることなしに、単純に寄付をすれば良いではないか」と考えるところで喜捨という形の社会還元と、社会の静脈産業の維持の余得(寄付金の11倍もの輸送費は静脈産業の維持活動)として考える意識付けに本質的差異があることがわかる。これはなんと企業の社会的責任という概念が異なることからきても居るようである。

西ヨーロッパ:社会的な存在としての企業が、企業の存続に必要不可欠な社会の持続的発展に対して必要なコストを払い、未来に対する投資として必要な活動を行う・・環境や社会に対して負荷を与えない事を行う。したがって企業活動はしばしば、環境に対することを前提とする場合、企業の業務自体が社会性がないとなれば自主廃業もいとわない場合もある。雇用は社会性のある企業という相手との契約で定められる。
東ヨーロッパ:企業統治の実現や法令順守を先行させて企業の規律を守る事と認識される。これは共産主義の本での企業という考えが、社会よりその上の政治家の要求というところであり、下で同行できないという時代があったことで統制こそが社会の存立ということのなるからと考えている。
英米:企業は利益を追求するのが前提で、株主への反映が必要である。その前提の下、法律の遵守、環境への配慮、コミュニティーへの貢献が求められる。このため「汚く稼いで、きれいに使う」というところがどうしても強くこの是正を法的規制で乗りころうとしている。
日本:どうしても出資者の意向で上2つのスタイルになる場合も多いが、「企業の持続的発展」の結果、雇用を安定させることが社会の存続に不可欠で、雇用を維持するには社会性を維持し、企業の社会的貢献や企業イメージの向上で企業体を維持するという行動になる。つまり協調性を保つことが企業の存立価値そのものであり、たとえば赤字製品であるが有機リン酸系の農薬中毒除毒に使うプラリドキシムヨウ化メチルをある会社は製造していたのは、有機リン酸系農薬を系列会社がつくっているからだとか。(プラリドキシムヨウ化メチルをサリン・VXガスの治療に使うのはほんらいはそうていしていないものだったらしい)逆に協調性を保つことが企業の存立価値とは必ずしもなりえない(協調性確保が担保されるとは限らない)新興企業に対しては日本は冷淡というのもここからくる。最も近代国家成立以前からある企業では「企業の持続的発展」は規模拡大に走らないことという形になって、規模や収益性の最適化より持続性が先という場合もあり、ここが欧州と近いというところもある。

つまり先に産業維持・人々の継続的収入源確保が先に来ると、寄付という概念はお金を出す側の「きまぐれな」意思に左右されるわけで、その意思がたとえば宗教や倫理的指標に依存しない限りはふらつく。もっとも材料相場というのもあって、不確定要素はないわけではないのだが、そこは日本人は意識付けが不得意である。それよりも産業の流れ構築によって企業・ひいては従事者の雇用を確保することでそもそも回収する社会環境を・・・と考えると寄付・喜捨という「上から目線」の行動は受け入れられないのではと思う。
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ペットボトルの材料を集め再生するという行動自体を否定することは、静脈産業全体を育成するという意味合いではできないとは思っている。しかし、そこで別種の燃料への転嫁とか、それこそ再度二次加工でエネルギーにするという行為は検討されてしかるべきではと思っている。ところがこれはまたスケールメリットと人材育成、そして人材や設備のコスト計算と違った見方での適正配置が必要という別種の問題を抱えている。
 北海道のある学校では、無邪気にキャップを集めたものの、その輸送費が余りにも掛かることが判明し、大問題になったようである。

だから地元にそういうプラントがあればいい・・・となるのだろうが、実際国内の廃ペットボトルをペットボトルバージン素材相当にする再生樹脂プラントが本邦では、全部収益性の面でコケているという。これは販売価格とプラントの設備費用、さらには人件費まで考えると、大きなプラントで設備費も人件費も生産した材料で割った経費計算としても成り立たなかったという。つまり、そもそも地域のプラントで再生するということは地域にそういう産業が成り立っている地域でない限り無理である。そもそも、無邪気にキャップを集めた段階で「ボトラーズさんの配送車の帰り荷を使わなかったの?」というマネージメントの欠点に気がついた。
またこのプラントの構成や、生成された二次材料の用途によってはふたをはずす意味がない場合もある。(これは、PETボトルにはどうしても口にPET樹脂以外のふたの材料が少しのころということもある)。つまり、このキャップを集めた成果をあくまで開発途上国にワクチンを贈ろうという行動だけにしぼり、その波及効果を考えるに及ばなかったのがもともとことの本質を見誤っているのであろう。
だからモチベーションのもっていき方を錯誤させるからこそモチベーションが成り立ち、効果が得られるというちょっと難しい側面がどうしてもかかわらざるを得ないのであろう。
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たまたま、私の関係している企業がこのふたを集めている。これは環境関係の貢献内容として株主へへの訴求に用いるというのもあるのだが、もうひとつは関係企業にジュースの企業があって、材料の再生のルートや手段を確立している経緯があるため成果も得られやすく取り付きやすいということである。
しかし、確かに物流コストは結構問題になっていた。たまたま近所の公的機関でおなじようなことをやっており、こちらはトラック会社と契約してその会社のCSR活動になって無償となっているんだそうで、そこに業務委託することまで検討したのである。
しかし、ここに寄託すると今度はその回収量を保障して値付けする行動ができず、環境関係の貢献内容として株主へへの訴求をするための帳票・値付けができなくなるということになってしまい、なんと企業の社会的責任という絞りがかかわるという問題が出てしまった。なんとなくむなしいことである。

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