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大教室での講義(1/2)

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「大量の文献を読ませる」「アウトプットの教育の欠如」「アカデミズムと政策の分離が、今のデフレ不況につながっている」
勝間和代×浜田宏一×若田部昌澄 「ハーバード大やイェール大にあって東大に足りないものは何か?」
(SAPIO 2010年8月4日号掲載) 2010年8月19日(木)配信
文=勝間和代(経済評論家)、浜田宏一(イェール大学教授)、若田部昌澄(早稲田大学教授)
 経済評論家の勝間和代氏が、最新の経済理論を学ぶために、教えを請うた教授が2人いる。ハーバードと並ぶ名門・米イェール大学で教鞭を執り、国際金融論の分野で世界的な業績がある浜田宏一教授と、歴史的知見を踏まえて現代日本の経済問題について多く発言する早稲田大学の若田部昌澄教授だ。日米の人気教授と“特別受講生”の勝間氏が一堂に会して語り合った。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20100819-01/1.htm

今日は、話題の「ハーバード白熱教室」に絡んで、「大学教育」について聞いていきたいと思います。まず浜田先生は日米両国の大学で教えた経験を持っていますが、学生にどのような違いを感じますか?
浜田 アメリカの学生は個性を重要視しますね。幼稚園の頃から「すべての子供はそれぞれ違う」というところから教育が始まっています。反対に、日本の学生は幼い頃からコンセンサス(共通の意見・認識)を優先し、「なるべく波風を立てずに皆と合わせましょう」という教育を受けて大学に入ってきます。
勝間 日本は「空気を読む」教育をしているわけですね。
浜田 ですから日本の学生からは、独自性のあるアイデアがあまり出てきません。
若田部 確かに大学に「入るまでの違い」の問題は大きいですよね。(後略)

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このように、話題の「ハーバード白熱教室」は講義システムのあり方として一石を投じている。有名講義といってたくさんの向学心ある人が聞きにくる例は、日本でも心学などで事例がある。(石田梅岩は石門心学と呼ばれる思想(今で言うCSRの考えに近い)を無料講座を開いて説いたが、対象は商人であり当初は男子のみを対象としていたもののが、聴講を望むひとが男女とも膨張し、挙句の果てには篤志というよりも賽銭を置いて帰る人がいたようである。ただしこの講義はプレゼン技法というところで着眼されてるとも言え、論旨が革新的なのは数人に限る。)特に指導方法として大教室を用いているのは、日本の大学では効率的なのだがあまりいい講義ではないとされているようである。
ところでこの政治哲学の講義は相当な準備を持って成り立っているものである。
教授側は、たくさんのスタッフ(その多くはオーバードクターだとか、次の教育指導を自分の仕事として考えている人である)によって、事前資料を作成したりする指導を行っている。つまりこの手の授業は一人の人が大教室でしゃべったというのでは成り立たない。テレビ番組で公開録画を行い、さらに舞台上にパネラーがいるとか、ひな壇芸人が座っているとかいうのがあるが、このような集団的構成を通じて一般的な思考能力を育成している教育といえよう。だから、そのあたりのバックボーンが違うのである。

さて、そのようなプレゼンという議論に対して受け取る学生の側ではどうしてるのであろうか。
「ハーバード白熱教室」で発言する学生のレベルの高さ、個性の強さを演じるには、講義前に学生たちに大量の文献、すなわちアリストテレス、カントなどを学生に読ませた上で議論している。そこで、講義用リーディング・リストがにある数々の古典の抜粋を先のスタッフが作り「それを読んで自分でまず考えなさい」という。そこからすべての勉強が始まるといえる考え方である。
これは合意がなくても物事を遂行しなければならないという社会の成り立ちjから来ているとはいえよう。そもそも、自分の意見がことなって団体から逸脱することをしても、それはそれで仕方がないという社会であるからである。死ぬなりすればよろしい。その前提があるなら個々の資質を勝手に磨き、それが取り入れるかを訴える必要があると認識されているのだろう。そのためにはたくさんの原典を読み、そのなかで関係あるものを読み飛ばしながら選択していくことで、我流の体系が出来上がっていき、最後はこれをどう社会が評価するかという、成功率を考えれば非常に心もとない世界が待っているわけである。
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ところで、講義をするあいてによって話し方を変えるのは当然であるが、こういうことをいう日本の人がいる。

講義で学生たちに教える場合、
●アメリカ人は未熟でもとにかく質問をして自分の考えを評価し、それを自分の経験のモチネタにしようと一生懸命になる。そのため、はじめの段階で持論を蓄積することをしない人は脱落していくのだが、脱落した知己を再度有効に生かす環境は社会にはない。
●日本人は、貝のように黙ってとにかく教師の指摘した項目を逐一理解し、それがあらかたまとまってから第三者の評価に耐えうる議論を作ろうと一生懸命になるため、社会に出てからこの結果が生きてくる生徒が出てくる。ただしそこが理解で着ない人にはまったくの無駄になる。
●中国人は、講義も聞き質問もするわで講義が盛り上がる。けど結果的にはそれまで自分が持っていた既知の志向や論理構成の補強に都合よく使い、また既知の志向や論理構成に対して不利な知見は、存在を否定するように無視する。このため高等教育における講義は個人の自我を強固にするだけで、教育をしても知識層としての指導効果は得にくい。

これは、ひとつは情報を浴びることができる環境を整備した結果、そこにたどり着く工程を軽んじているということもあるし、根源にたどり着いてしまった議論を展開することをしても、社会が同意を前提に動く場合では、日本人学生は貝のように黙ってしまう方が社会の要請にかなっている。さらに以前なら海外留学というのはことなった視点をもっているといって、それなりに評価された留学実績を、最近は同意という社会風土になじめない慣習を身に着けたといって、毛嫌いすることもあるし、また定住意識の強いことが同意形成を促す側面もある。新規開発を行うと言う場合にその分野の基本的な文献を手配することをすることは、わたしの同世代以降は「効率が悪い」「成果が短期間で出ないため、評価されない」という人もかなり多いようである。
そういい見方をすると、
浜田:以前、東大法学部で大変驚いたことがありました。私が1時間ぐらい話をした後に、「今日のお話の要点を3つ挙げてください」と聞いてきた学生がいたんです。
勝間:そんなこと自分でやりなさいっ!(笑)
と怒っていた。まあ、質問するほうもどうかとも思うのだが、素材(1次資料)を無駄でもたくさん入手・読破しでそのバックボーンを得ることを前提とすることが知識層の行う思考過程であると考えてる人と、加工されたデータをたくさん集めてその上で膨大な2次資料から新規性を得る行為を、他人の実績を使い倒して迅速に行うのとは当然聞く側の視点はかなり変わってる。もしかしたら、浜田さんの講義に対して、その結果だけを性急に求めすばやく援用しおうという専門技量の(専門知識ではない!!)獲得のみを志向しているなら、この学生はまどろこしくて必要性の薄い講義と考えているのかもしれない。講義に興行的視点を求めるのは、古今東西よくあることで、その要求が極めて高くなっている。だから、勝間さんのここでの指摘は「言いたいことはよーくわかる」が、切片だけの判断は短絡的だとも思える。
(続く)

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