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大教室での講義(2/2)

(承前)
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つまりいくら世界的な傾向とはいえ、アメリカ的知識の熟成とその社会への反映については、と日本的知識の熟成とその社会への反映に対しその立脚素地が異なっており、日本人留学生、特に大学院まで進む学生は、その体制に乗ること自体が難しいと思うと回避のであろう。
いや、以前なら、海外に行った日本人は現地の風習をふまえてその中に日本的知見のバックボーンを持った人が多かったが、そのような大志も満州国侵攻と撤退、アメリカなどへの移民とその結果の収容所隔離などで相容れないことに諦めを持っていく世界状況になったともいえよう。(地域がら海外に行く人が多い地域に親戚が多く、遠縁の人がブラジルやアメリカにいって財産を作り、幸運にも戦争前に交換で戻ったという人が、たまたま多かったもので、いろいろ聞くことが多い)
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また、以前会社員時代セミナーを企画し、企業内中堅管理職研修のコーディネータを行ったときに、セミナー終了後参加者が講師(日本人)の名詞をいきなり交換したりして収止がつかなくなったことがあったのだが、これをやったのが中国人(中国の事業所の日本採用幹部の採用方針があって・・・日本の大学を出た人がたくさんいた)参加者漏れなくであった記憶がある。
この態度はあとで困ったときに相談乗って・・・ということなのだが、セミナーの管理側としてはこれは企業に所属する以上良識に反すると再三注意した。しかしそれにもかかわらず、逆に参加者にかみつかれてしまった。講師に対する相談は私のところ経由で行うといったのにである。
つまり、いくらか海外の講義がいいといっても、その社会性取得の過程がその国ごとに異なるため使える使えないと社会がカスタマイズされているなら、講義形式をそのままできないからといって、解決になる答えになるかは疑問と考えている。
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ところで、日本における大教室における講義は、知識の取得や知識の習得の道筋だけであると考えた場合、マイケル・サンデルさんとは当然環境が異なるから手法は異なるのであろう。
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というわけで、ある企業の技術講師を行った際に私はちょっと工夫をしてみた。

この講義は入社3年までの人に基本的な汎用性のある大学3年クラスをターゲットとした技術教育の再確認を行う集合研修である。ただし、ある程度経験をつんだ人も希望者は参加している。
基本的な講義内容は先に基本書という形で講義資料(500ページの参考図書)を配布しており、それを見れば質問以外のところは対応できるのだが、細かい心がけなどや習慣付けのところが、個々対応が必要である。
そこで2回目の講義のとき、内容よりもその取り組み方や心がけに対し意識をも持ったほうが、今後の技術者人生のためになると思った私は、講義の際に配るレジュメを最初は配らず、概略を説明したのち・・・
では各自書いてくださいといって紙を回した

(1)あなたが自分の専門業務に関連した(専門外とは少し違った)知識を得る必要がある場合
 聞ける上司や同僚・他部署の人の名を書いてみよう
 聞ける人を紹介してもらえそうな同僚・他部署の人の名前を書いてみよう
 聞けたり聞ける人を紹介できる社外の人(関連会社のシンクタンクの人)の名前を書いてみよう
 聞けたり聞ける人を紹介できる社外の人(学校の恩師や、学会の人)の名前を書いてみよう

(2)あなたが自分の専門業務に関連した(専門外とは少し違った)知識を得る必要がある場合
 調べることができる本やサイトが身近にあるか列挙してみよう
 調べることができる場所(図書館・研究施設)などに出入りしているか書いてみよう
 調べるためにどこに今までいったことがあるか書いてみよう
 調べるためにどのような事前準備をする必要があるか、思いつくところを書いてみよう

(3)あなたが調べたことを社内にて人に伝えて同意する人を得る場合
 どういう手法をとったことがあるか書いてみよう
 そのためにどういう工夫をしたことが過去にあったかをあげてみよう


実は、こういうことを考えず漫然と仕事をすることに環境が慣れている場合があるのでそこを見直すことが、実は学習効果の向上につながるということなののですが・・・・・「大量の文献を読ませる」「アウトプットの教育」というスキルに対し自分でどう考えてるかを指摘したのである。
けど、受講者は大学の卒業者が大半であるにもかかわらず、これを30分間で少しでもかけたのは、10%ぐらいしかいなかった。ようするにこういう意識付けを大学で得ない限り、OJTでの指導や、大学院での個別指導となるのが日本のカリキュラムの中での基礎文献からの遡及志向の蓄積実態であろう。
(ただし参加者中勤続20年という人も少しいて、この人たちはそれなりの回答をみな持っていたのである)これでは、若年者のモチベーションがあがらないという嘆きはわからなくもない。しかし、そのコツを一緒に考えるということで、スキルをあげる必要があり、そしてその問題にぶち当たるのはどちらかというと実務にぶち当たってからというのは、ひとつの便法ではある。

基礎知識を蓄積する場所として学校が機能するのは寺子屋のころから「読書百遍、意おのずから通ず」という、基礎文献の格納から実態に照らし合わせることで習熟を図る形できている日本の手法からして、そう簡単に変わるものではない。またこの時代の場合でも基礎文献はある程度学習を重ねたものが遡及して読むものであり、寺子屋の教育は「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始まり、さらに地理・人名・書簡の作成法など、実生活に必要とされる知識教育であったからでもある。そして教科書がたくさんあったということでも教育に対する着眼点が実用から来たものである以上、ラテン語という非日常の文献をよむという社会的な上層部からの教育が原点となる欧州基準のトップダウンの知識普及と、ボトムアップ形の知識遡及要求(これは韓国も似た傾向がある。ただし漢字の読み書きという形で分断される。中国では言語の乱立で一率にはいえない側面もあるがこれも共通言語要素として漢字がある)ことなるとも思っている。
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文章の意味内容を理解し、十分な背景知識を持っていなければ、個々の文献の理解もあやふやにならざるを得ないような文献が、これらの古典的文献には多い。そしてそのスキルが研究の中身に直結していた。背景知識まで含めた精緻な解釈をそもそも、大学入試の際でさえも求めざるを得なかった。私の学生時代の1990年代までは基礎的な文献の引用や取得がIT技術の普及前であり、個人的に蓄えた教養の商品価値が高いこともあった。そこで、知的好奇心を満たしたく、かつ教養指向の強い学生が多かったという説もある。つまり、IT技術を使うにおいて何を捨て、何をのこ下かという戦略の違いが、もとからある技能である「大量の文献を読ませる」「アウトプットの教育の欠如」という教育指針の差をより際立たせたというのかもしれない。

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コメント

 つまようじブリッジコンテストをやっていたころ、米国の高校生から問い合わせが来てそれに答えたことがありました。後に礼状(メール)が来て、「強度コンテストでの成績は上位ではなかったけれど、"外部の専門家に問い合わせて有益な情報を得る"という評価項目で高い評価を得られました」とのことでした。へー、私が「外部の専門家」なのかとは思いましたが、そういう指導をしていることに認識を新たにしました。
他方、日本の大学生思われる人からの「来週授業の課題で、ブリッジコンテストがあります。どんなかたちが強いのですか」と使う材料を含むレギュレーションも自分の所属や名前連絡先も書かずにメールが来ることがあります。この能力の低さ深刻だなと思います。もちろんちゃんとした問い合わせのメールも来ますが、経験的には総数の1/3以下。

投稿: SUBAL | 2010年9月18日 (土曜日) 12時13分

なるほど。
アメリカの場合、高校生も大学生も全体的には資質のトップ-ボトム間の幅が相当大きいのではとは思いますが、人に問合わせるのは、そのために相当事前準備を必要としますしね。
もともと、問い合わせ行為を「自分の力で取得する」手段という姿勢もなく、目的に達する「最短経路」という視点に社会が立つのはともかく、教育指導でそういう「目的意識のすれ違い」が多くなってる気もします。

投稿: デハボ1000 | 2010年9月18日 (土曜日) 18時04分

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