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アカハラとパワハラ(2/2)

(承前)
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「アカハラで自殺」と東北大提訴 岡山地裁、院生の両親  2010/06/18 11:58 【共同通信】
 2008年8月、東北大大学院理学研究科に在籍していた男子大学院生=当時(29)=が自殺したのは、指導教員だった元准教授(53)のアカデミックハラスメントがあったためとして、岡山県に住む両親が18日、東北大と元准教授の男性に計約1億円の損害賠償を求めて岡山地裁に提訴した。(後略)
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一方学校特有といえる問題もある。その成果物が、学校の果たす目的が社会の一般的なものとその最終目的が異なることから、他者には特有なものに見えてくるのではと思う。
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*研究指導をしない。ないしは過剰に感じるまで干渉する。
(指導をしないのは、業務の指示の放棄に等しい。ただし、大学の研究は自主的な思考を前提にしているという手法で教育活動を推進する場合、指示をしないということが指示になっているというきわめてメタな手法もある。)
*相手の個性を認めない。(たとえば指導教官の考えるロジックとまったく反する視点で議論を展開していく場合、この手は結構起こりうる。個性を持つことが指導という原則から逸脱するということである。また、大学院進学をモラトリアムとして考える人もやっぱりいるわけで、そういう人に対しどうするかということを悩むあるいみ「おせっかいな」しかし「まじめな」先生もいるようである)
*正当な理由を説明することなく、論文などを受理しない(論文を受理しない理由は、適性が乏しいから論文を受理しない(=学位を授与しない)という判断・・・もちろんこの段階では主観的視点が排除しきれるかというと疑問・・・もないわけではない。説明するという行為が受け取り方では説明として納得できるものではなくと考えられ、説明行為をしても説明と解釈されていない場合もある。そもそも指導者にとってその学生が学位取得の目的を達成するのは、当人か自分かいずれかが不利になり、結果あきらめさせたいことを示唆している場合もある。ではあきらめたらどうするかを示唆するのはさて指導者の職務かというと、あいまいではある)
*就職活動において不利な扱いをする(理由無く推薦を拒否する。就職などに必要な書くべき書類を書かないというのは、学校の存在価値で異なる側面がある。「低い」資質の生徒を社会に出すことが、自分たちの大学としての社会的責任の低下につながると考えるが、法規的な問題の逸脱はないので学業をあきらめさせることができないという事例と、逆に自分の下でなんらかの関係を保つ(性的な問題もあろうが、一方自分の後継者にしたいという場合もある)ために書類を書かないという形が考えられる。後者は再度大学が生徒を呼ぶという事例もあるが、その行為が企業にとっては指導教官への利害対立になるばあいもあるので・・・と聞く)

最後の例はともかく、複数の大学の間で指導者選択の相互流通を博士後期に対しては行うべきとも思っている。(個々には学問の自由、独自性がないことで阻害された社会の発達という過去の事例もあるのだが)指導者という師匠(ティーチャー)は必ずしも、また永遠には生活の師匠(メンター)という形にならないはずだが、社会ではそのやりくりに汲々としているのも事実である以上、理解されずドロップアウトしたと思われるのが通例である。

意外なことであるが、指導教官の下で教わっていた学生がその研究内容の問題を意識して、その学説の問題点を提唱したために、学位取得が不可能になってしまい単位取得退学となり、結果的に 論文を見た他大学の先生の下に呼ばれていって、学位を得たという事例は古今東西ちょくちょくある。(大臣もつとめた某経済学者も、このところで苦労したという話しを聞いたことがある)
ただしその間生活費が得られないこともあり、それができるまで資力が続かず、ふるい落とされる事例は多いようである。これは生活費や学費捻出手法が難しい、東アジアの大学の生徒では深刻である。一方このような場合、取得できる人には企業在籍のまま学校にいっていたパターンもまた多い。
こうなると、博士号取得に関する「投資」ということが確実には回収できないということは、そう珍しいことではない。運が左右するパラメータが大きすぎるのである。いやどのみち大学でてもこの手の志向の不安定さはついて回るのだが。

これらは相互に干渉・相反された関係である。ただ上記のように自殺までいたるというのはその間の手助けが不十分で、考える道を与えなかった社会(学校ではない)の責任という気もする。学校は一方の当事者であり、公平な視点を持つことは難しい。企業とておなじだし、官公庁とておなじ。要するに手助けをする機関は篤志家ぐらいになるため、この間にもまためぐりあわせのよい悪いという不安定さは回ってくる。
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けど経済的な意味を見ると、これらをカバーするような社会の構築をすることは、力配分として全体最適化に成り立つのであろうかと思うのではある。極端なことをいうと、落っこちたもの負けという社会通念になる社会では、それこそ構内で教育環境に不満をもって銃を乱射しようと、経済的損失をそこでだそうと、それを切り捨てたらよく、切り捨てても残余の人間が十分にあるという「弱肉強食」の社会を作るのが、少ない人員で経済効率をたかめる市場要求に合致しているのではということも言える。人材の絶対数が多いと認識され短期的には代替が聞く社会というのなら。

パワハラの概念とて広いが、たとえば社会のタブーにかかわるよって社会から追われた人は数多くいる。敗戦時の政治体制変更にしかり、ソ連崩壊後の変化についてこれないなどにしかり、共産主義者の各国での弾圧にしかり。そうなると塞翁が馬と高みを決め込むことができないか、時代の変化に鈍感な特性を持つか、きわめて敏感に立ち回るかという極端な性格以外は、残らないという諦めを前提に、物事を進めるのが一番中庸かもしれない。つまり、社会の変わり方がどこかのスタンダードの準拠という視点で語られる限り、価値観の相違はさらに鋭敏化し利害は相克することを考えると、言ってはいけないことながら、(他殺や巻き添えを考えない限り)自殺というのもまた尊厳あるひとつの人間に与えられた選択肢かもしれない。けど「尊厳あるひとつの人間に与えられた選択肢の仕組みを納得する」というのもまた、周辺の人にとっては相当の覚悟が必要である。
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アカハラの事例は、私も個々に聞くこともあり、深刻な話にも結構聞いている。アカハラにパワハラが混ざる事例、アカハラにセクハラが混ざる事例(ちなみに男性に対するセクハラもある)といえる。そこで相談相手を見つけて自分のなかでそこスキルを身につけるのが必要である。大体その後の人生で、それ以上にあこぎな行動に遭遇することのほうが多く、そこで再起不能になるのも多い。経験があれば対処はいくらかはできる。
先に一度でも経験したほうがまだなんとかなる可能性が高い。生きることに価値を見出す人ならば。

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