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「卑劣」きわまる行為なんだそうな(2/4)

(承前)
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卑劣な「ドブスを守る会」衝撃動画…一般女性続々被害   2010.6.18 20:09
 首都大学東京の男子学生2人が、「ドブスを守る会」と称し、面識のない一般女性の姿を無断で動画投稿サイトにアップしていたことが分かった。学生らは道行く女性に「雑誌の撮影」などと声をかけて写真を撮った後、会の名称を名乗り、それを聞いた女性たちの反応まで収めた動画を公開していた。若気の至りでは許されない、卑劣きわまりない行為だ。(夕刊フジ)(後略)
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この後にこういう議論が出てきた
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お騒がせ首都大「ドブスを守る会」に別ターゲットも存在   2010.6.23 21:06 夕刊フジ
 首都大学東京システムデザイン学部4年の男子学生2人が、「ドブスを守る会」と称して撮影した一般女性の動画を動画投稿サイトに公開していた問題で、学生らが身体障害者の女性や高齢者も笑いのターゲットにしていたことが新たに分かった。同大は学長名の謝罪文をホームページに掲載したが、学生らは一連の活動を「アート」と“曲解”していたフシもあり、そうだとすれば問題の根は深い。(中略)
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身体障害者の女性と健常者の女性の反応を比較することまで計画していた。 学生らは経営難にあえぐ70代の男性洋品店主に対し、インタビューと称して「今日の昼ご飯は?」「趣味は?」など無意味な質問を繰り返したあげく、「ここ絶対つぶれますね」と吐き捨てる動画も撮影していた。
 一体なぜ、彼らはこんな撮影を行ったのか。学生らは大学側の調査に、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何かしらの表現ができると思った」と話しているという。これについて、同大の関係者は次のように語る。
 「学生たちが所属しているシステムデザイン学部のある教官は、ツイッターなどで《嫌われることをする人を僕は信頼している。嫌われることをするのは芸術家の役割》《倫理性とか道徳性とか世の中一般の尺度と照合してダメとされるもの。ARTはそれを「美なるもの」としてすくい上げる》と公言しています。そうした風潮が学部内にあり、学生たちは自らの行為をアートと勘違いしたのはないでしょうか」
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あら、これは違う問題を出してきましたねえ。もともと学校教育がなにを目的としているかによって違うのではないでしょうか。学生たちがこれが自分の人生や社会の前提条件を覆し、新しいものを創作すると言う覚悟があるのかはちょっと疑わしいし、アートとは別物とはいえなくもないのですが、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何かしらの表現ができると思った」というのは「表現」を最終目的とするならば、ロジックはそこまでおかしくはない。
そこでこの議論の限界は「表現」で終わっているところにある。表現が2次的にあまりにも多様な感情に影響を与える2次的行為については、生徒たちは読もうとしていなし、読むこともできない。だから未熟なところで収めたと言うことになるわけである。更に上のような彼らが実験としてしたことが、かなり重たいものとしても「命を奪ったと言う次元ではない」となると、倫理における社会性との境界線設定の難しさに収斂してしまう。だから、新聞記事を書いた記者の意見は私の見方とは異なる。あくまで社会の中は逸脱行為であることは前提で責めを負うのは当然としても、あくまで若気の至りで、社会性をぎりぎりまで突き詰める段階での一つの「社会実験」を確信犯(良心に照らし合わせて正しく、周囲の対応が間違っている)と信じてとしてやっちまったと言う解釈で行くべきと私は考えている。そう考えると、社会は問題は問題として謝罪と正当な対価支払い(実在の損失利益の補完、医療がかかわった場合の医療費など)は彼らに求めることはありうるかもしれないが、慰謝料請求は困難ではなかろうかと思っている。
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ところで、教授の発言自体を批判する人がいるようです。これが私はきわめて面白くない。

「嫌われることをする人を僕は信頼している。嫌われることをするのは芸術家の役割」
「倫理性とか道徳性とか世の中一般の尺度と照合してダメとされるもの。ARTはそれを「美なるもの」としてすくい上げる」

これは革命家の視点である。基本的に芸術家と言う場合既存の技術を充実にトレースし、それを成熟化させていくことを志向しているする場合を是とする場合とこのように既存の新規な視点を創出する技術を研鑽するわけである。当然アグレッシブである後者は、社会的な抹殺を覚悟しなければならないという難しさをもつわけである。つまりこれは一般教養を積み上げて行き社会にその意図を還元する。だから還元するためには,初等中等教育にかかわるなどの姿勢が社会への還元という形になるのがいい例であるため、教員養成系の学校・学部は欧米的な視点ではリベラル・アーツの系統になる。ただしその活動をGHQはしたようだが、日本社会でのリベラル・アーツ系教育は、職業スキルとくっつかないために大学への進学、高等教育への付加を人材への先行投資と考える日本人(これは東アジア全体がそうである。1300年続いた科挙の影響は大きいであろう)収入に結びつかないということになって、教員養成課程はリベラル・アーツ的視点よりやや専門教育・職業教育に戻ってしまった。そして、芸術大学で教える芸術は、「アグレッシブな可能性を見出すための抽出と提案行為に対する技能の経験」という手段を教える高等職業の専門資質を与える場合と、「実際の技法を踏まえ、少しずつ社会への折り合いをつけるリベラル・アーツ的視点を主に考えるのとでは、まったくアプローチが違うどころか、芸術に関する教育方針として大学同士で方針を認め合わないことにもなっている。
実際、工芸と言う場合でも前衛的視点で作ったものが、伝統工芸の世界では排他の対象になる。東京の主要芸術大学と、関西+北陸の主要芸術大学ではこのあたりの話が相容れないようで、芸術と第二芸術という泥沼の議論になりやすい。(東京芸大はどっちのコースもあり、内部でも意図して統制をとらないようである)
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 だが、日本美術教育学会会員のO S大教授(美術教育)は「彼らは芸術をはき違えている」と厳しく指摘する。
 「たしかに芸術は常識を超えるもので、自分と他者との境界を侵犯する行為です。しかし、それは異質な他者を深く理解するために領域や感性を広げることが目的。彼らの行為にはそうした理想が皆無で、芸術の存在価値も否定しています。芸術教育全般の未熟さが、こうした問題を引き起こしたといえます」
 首都大東京は、「すみやかに事実関係を確認し、学部のあり方も含めた今後の対応を決める」(広報)としている。
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芸術は常識を超えるものというのも、きわどいもので常識と芸術はその認識拡大によって鶏と卵の関係であろうと思う。ただこれを肯定して、自分と他者との境界を侵犯する行為と言うところはある程度私も分かる。
異質な他者を深く理解するために領域や感性を広げることが目的かという意見は、目的意識が発言者の伝統知見ベースの意図からの考えである。異質な他者との落差を顕在化させ、新たな視点を作って理解できるかどうかを提案することを芸術を創るものの職分とするなら、芸術の存在価値を結果の共有化とするか、既存意識の破壊によるゼロからの価値の創出とするかである。芸術教育全般の未熟というその共通概念が未来永劫存在すると言うことに、既存知識の社会への還元という前提条件に縛られている限界を感じるし、逆に、感性の変化を求めることはきわめて反社会的であることを前提で行わなければならない思想性の構築をを、首都大学東京の教官が指摘してしなかったと言うことなら、そちらも課題である。
これは、気になっているのであるが、首都大学東京システムデザイン学部(旧:東京都立科学技術大学である)は大学が、社会への知識還元のみを前提に教育方針を決めているなら、この教員の採用自体がミスと考える。(東京都立大学から首都大学東京に改組になったときに、専門教育的志向を持った教員が大量に離脱した経緯があり、先端的な意見を持つ研究者は実現性を持たないという考え方が出ていた経緯がある。知識の社会への還元を志向し、あくまで社会に対し反省をする新規の提案をすることを放棄した大学経営と言える)
もともと大学のなかで新たな知の挑戦を行う基板が喪失されている場合、それを前提に学生もある程度集まるということはやはりある。そのためそこでアグレッシブな活動を黙認し、させるのは学生の行動まで責任を持つというならその第三者の制御を伴うはずで、すでに、嫌われることをする芸術家 倫理性・道徳性でダメとされるものを取り上げる行為自体をする教育は許されないと言うことになる。(それは逆に言うと多摩地区のほとんどの芸術系単科大学の中では異端として排除されるべきものでもある)
でも、教育方針自体は恣意的な考え方でいくらでも変わる。TOPが君子であればある程すぐ変わる。したがって、学生の行動を否定するまではまあしかたがない側面が多く、指導責任を問うまではあろうが、そこで学問の存立意義を問うような言動をする次元で発言を吟味する行動をするならば、そもそもこの学部の存在価値自体が大学でなく技術の雛形を習熟する講習を行う専門学校でしか意味でないという見方をしている。学部のあり方も含めた今後の対応を決めるというなら、芸術に関する姿勢を明確にしないとならない。できるだろうか。
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南海50000系電車(関西国際空港アクセス用有料特急の「ラピート」用)が出たとき、内外装デザインは著名な建築家による奇抜なデザインであるのだが、賛否両論がいまだにある。性能(周辺への視認など)と意匠は500系新幹線のように相克があってしかるべきである。これを見てたぶん多くの工業デザイナーのうち古典的視点の踏襲をしたり、鉄道車両のデザインをした人間なら、運転性や運用の利便、保守代の懸念、はては風きり音の騒音まで見てほとんどがNGを出しただろうとは思う。(実は取り組みは理解するが、個人的には先頭形状に関してはポストモダンと言うより、えせモダンとまで思うし、増結対応など副次的運用に弊害さえ出る懸念は10数年たった今でも私の否定的視点変わらない。内装はまだ容認できる範囲である)けど、これを反社会行為かとは絶対にいえないのである。感性を評価し、こころをいじくる芸術の世界はこのせめぎあいは逃げることもできるし、ぶち当たることもできるが、両方並立は成り立ちにくいのである。自らの行為をアートと勘違いしたのは全否定はしないが、もともと皮一枚の差でしかないとも思う。

いや、別に芸術だけでない。先端研究を行う工学部の先生と、社会に展開できる指導を行う工学部の先生、複雑に予算もからむのだが、その使い分けでかなりの工学部が中途半端なところでしか動けなくなっているのと奇妙ににていると見えた。(続く)

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