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「卑劣」きわまる行為なんだそうな(4/4)

(続く)
それはともかく、
○社会的に大学と言うものがどうあるべきと考えるか
○芸術が社会に対しどういうスタンスを保つべきものか
○そもそも倫理に反すると言うことはどういうことなのか
を分離して考えなければならない。問題の分離不足とと混在が理解を妨げているのではと考える。
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(2)芸術が社会に対しどういうスタンスを保つべきものか

学生らは大学側の調査に、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何かしらの表現ができると思った」と話しているという。これについて、同大の関係者は次のように語る。
 「学生たちが所属しているシステムデザイン学部のある教官は、ツイッターなどで《嫌われることをする人を僕は信頼している。嫌われることをするのは芸術家の役割》《倫理性とか道徳性とか世の中一般の尺度と照合してダメとされるもの。ARTはそれを「美なるもの」としてすくい上げる》と公言しています。そうした風潮が学部内にあり、学生たちは自らの行為をアートと勘違いしたのはないでしょうか」

この学生が何かを問題提起するのかという発言がある。
ところが、じつはこの表現手法が実はないわけでない。「折田先生像」を調べてみるとこれを、「芸術テロ」と言う定義で「考える、学ぶ、究める、問う、疑う、という行為」、そして社会に対し問題点提示する場合があるという。
一般的に受け入れられない方法、時に非合法手段に頼る事もあるで、芸術家が自らの作品を発表する事。これは意図的なもので発見が得られない一か八かというところがあるが、当れば社会を変えることもあるようだ。玉石混交といえ多くは稚拙という(この事例も批判の対象になっただけと言うならが、稚拙だったのだろう)中には「芸術的」と言って良い物も存在する。日本でも意図してこの世界に足を踏み入れる世界はあるし、かつて前衛的な現代音楽の一派には、音楽は音を鳴らすものという常識を覆す、「無音の」音楽を行った、ジョン・ケージの「4分33秒」とか、楽器を分解することを音楽として演奏会で「演奏」したと言うものもある。更には不協和音だけを集めて演奏会をしたと言うのまであり、演奏家が失神したと言うのも合った。
先に述べた大学の先生のせりふに
 「たしかに芸術は常識を超えるもので、自分と他者との境界を侵犯する行為です。しかし、それは異質な他者を深く理解するために領域や感性を広げることが目的。彼らの行為にはそうした理想が皆無で、芸術の存在価値も否定しています。芸術教育全般の未熟さが、こうした問題を引き起こしたといえます」
というところがあるが、下線の記載はその意識があると思う。
問題は、これの場合芸術至上主義に陥っている可能性があるとなれば、たしかに問題である。つまりこれは確信犯であるということになると、人の信念が他人の利害(ただし心情的な損傷であって、物損被害ではない)を侵害したところが、「社会が」容認できるかという視点になる。それをもし考えずやっていたとなれば困ったものである。
こまったことにこれを、意図や内容を説明した段階で、目的とする「芸術」はまったく意味を失う。ヘタをすると、みんなでリンチをするのに近い行動さえ現象面では生じる。「芸術」が「第三者にとって楽しい」という意味を持つ人と「新たな可能性を探す行為」という思想・定義が異なる側面があるのだ。悪意を持って撮影したとなればこれは倫理的に問題行為であろう。ただし法規的にではなく倫理的訴追は「黄金律」が前提であればある意味成り立つだろう。しかし黄金律の解釈は受身と積極的であるだけでまったく行動原則がひっくり返ると言うのも事実。
更に、「芸術」に対する概念は個々設定されるので、同じ芸術でも異なる。
わたしの親族に書道の教授を生業にしている者がいるが、そのお知り合いなどに聞いてみると、書道は既存の基準を固めて、その上の少しの付加価値の是非を議論するので、同じことを新進の作家が行うと既存の社会に反発したと言う見方になり、大家が行うと新たな世界をつくたっということになる「第二芸術」的素地があるという。日本画などでもあるテリトリーではその傾向から逃れられない。この中での工夫、つまり既存ラインからの類推がある程度できる程度に抑えておく改善範囲に収めると言うところが求められる。
芸術やアートには不道徳な面や反社会的な面が含まれることがあり、反対に不道徳な事物や反社会的な事物に常に芸術やアートが含まれるという疑念はある。芸術やアートには悪ふざけが重要な要素になるものもあり、悪ふざけに常に芸術やアートが含まれるかという疑念はある。
だが、不道徳な事物や反社会的な事物の概念が常に変動したり、国によって異なったりするということを想定すると議論ができない。極端な場合A国の芸術がB国の非難、C宗教の芸術がD宗教の非難されるものになっている。9.11にせよそういう誤解は付きまとう。
60年前、退廃芸術という概念があった。ドイツ第三帝国が近代美術を査定し、道徳的・人種的に堕落しドイツの社会や民族感情を害するものであるとして禁止するために打ち出した芸術観である。その前提は民族賛美・民族のモラルの確立である。芸術家が、都市生活の悪影響による病気のため古典的な美の規範から逸脱し、ありのままの自然や事実をゆがめたものを近代芸術とし、そこに民族差別を絡めたのである。今から見ると、公認された芸術は、人間観・社会観・描写スタイルが「健康」な芸術とされたが、結果誰の目にもなじみやすい、新規性が少ない因習的な絵画・彫刻の焼き直しになてしまった。その後、彼らは、その倫理概念が一定の偏差を持つ前提では「テロも殺人も、芸術的価値も含めたもの」になっている認識を持ち、それが倫理を支配していった。プロパガンダなのだがそう感じないと言うことに関しては、ナチスドイツは巧妙であった。
いや現代でもこのようなトレンドはある。不倫とて結婚概念がない文化ではそれなりの「美意識」で語られてしまうし(不倫が文化というのではなく、国によっては北欧・フランスなどそもそこ家族と言う概念を放棄した国が出始めている)一般の人を笑い者にして公開することさえ公開処刑という形で倫理的に問題ない地域では行われている(それは進歩的か否かとは無関係である)
かくのごとく、「確立された信念や理念や美意識」がそれなりにあれば、「芸術」になるのかというと、倫理との相克がなければ、スルーされるものと考えるのである。(ただし彼らにそこまでの覚悟があったかというと・・・)
もし、覚悟を持ってこの画像が作品になるかと言うと、実は全然可能性がないとは思わない。ブスという「提案」自体は一般的倫理を別にするとありうる。不快たる反応自体も芸術に対する正当な反応でもあろう。しかしそのためには頑強な発言、大学自主退学しても進む確信と、人生を掛ける覚悟がないと出せないと思う。また、全然賞賛の声がない時点で、すでに「芸術」とみなされていないのである。その覚悟があったのかと言うと、すぐ忠節を曲げたところでどうもそこまではないようなのだ。作品自体を、確立できる可能性のない倫理や社会常識で規定していいものか。もしかして、倫理や社会常識を金科玉条にすることのほうが本当は無理なことで、考えることを忘れた人間として危険な行為ではないか。「芸術の存在価値も否定」するのは考えることをできるだけしない手法の「芸術」の概念、学校の教科書を使って雛形を「受け入れさせる」考えが芸術の唯一の手法を採っていると見ていると感じる。

(3)そもそも倫理に反すると言うことはどういうことなのか
先にいったように芸術やアートには不道徳な面や反社会的な面が含まれることがある。不道徳な事物や反社会的な事物に常に芸術やアートが含まれるかというのはなさそうだが、定義でいくらでも解釈できる余地が実際にあるわけで、きわめて確定できない。そもそも北朝鮮にせよ政治的に芸術を定義すると、これが終始つかなくなることになる。つまるところ「感性」という定義できないものがパラメータに入ってくるともいえよう。
黄金律とて実例として累積されていることで、相反事例がないから用いるのに有効と言うことは言えるのかなとおもう。ただしそれは「慣習法」的な着地法であるのだが、他がまったく安定していないのだからどうしょうもない。
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ただし、この場合個人情報の晒し上げで、一部のサイトでは写真どころか住所、電話番号、家族の情報までもあがってたという。ではこれが大衆的であることで「人民裁判」と同じことがある。
革命直後の民衆による政権では、結果が過剰な処刑活動などに転じる例がある。また、革命の前段階でもあり独裁政権の首謀者を殺し、メディアを通じ発信する残虐行為も正当と認められる。これが倫理にもとるかというと、その段階では「もとらない」のである。反対に吊し上げによる冤罪の発生も起こる。しかも冤罪発生後に時間がかかって回復することもあるのだが、公知になっているため冤罪事実が周知されるかは確定できない。最近は聞かないが、冤罪を受けること自体がそもそも社会的な信用を失う行為が多かったから生じた誘引があると言うことで結果的にレッテルはりによる、同類の追い落とし・粛清を行うツールとなることも、時に見られる。
つまり確かに、もちろん学生は倫理的な配慮をしていなかったことは、(一般論ならば)訴追されるべきである。そして、写された人たちは(まあ、感情的な側面での対価保障になるので、直接的被害金額が計上される場合はその金額(医療費や営業補償になろう)が加算されるが)が請求可能であろうし、一「芸術の一側面」と解したり、「前途ある若者がバカやってるんだから」と思う場合もあろう。
高木ブーはその芸風と体型から、無能の代名詞として扱われる事も多くあった。そこで、大槻ケンヂは自分のバンド「筋肉少女帯」から自分の無能さを高木に喩えたシングル『元祖高木ブー伝説』をリリースした。当初原作の曲はインディーズ発売だったが本人や所属事務所から無許可だったので発売をとめたらしい。リメイク版も事務所側や他のメンバーからは反発を受けたが、高木は「若い奴が馬鹿やってるんだから許してあげよう」と鷹揚な態度を見せ和解し発売した。これなんぞは完璧に人権的問題を内包している(ただ訴訟になるのとは別)のだが。
こうなると、多数決主義において少数派を糾弾するのにでは名前をさらすのが「天誅」とか言われても、これとて犯罪だともいえなくもない。(報道被害ではない)
もともと、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何らかの表現ができると思った」と言う言い方であるがこれとて、必死な弁明をしている逃げの姿勢と聞くか、既存の芸術の枠組みを打ち壊すという明確な意図を持って純粋に行動したと主張しているのかというと、各自バイアスが罹ることは避けられない。
つまり、倫理と独自性をどういう風に設計するかで、聞き手まで論旨が変わってしまうような怖さを持っている。
-------------------------------引用
「ドブス」動画問題、指導の准教授を諭旨解雇  (2010年7月6日18時51分 読売新聞)
 首都大学東京(本部・東京都八王子市)の男子学生2人(退学処分)が「ドブスを守る会」と称して街頭で女性を無断撮影し、インターネットの動画サイト「ユーチューブ」に投稿していた問題で、同大は6日、指導教員でシステムデザイン学部の男性准教授(43)を諭旨解雇処分にしたと発表した。
 同大によると、准教授は先月、2人が撮影した映像をゼミの時間に視聴した際、「動画ではなく、写真などで表現できるのではないか」などと、学生の活動を容認するような助言をした。さらに、問題発覚後の大学側の調査に対し「映像を事前には見ていなかった」などと虚偽の説明をした。
 また、学生が作成した別の動画に絡み、ネットの掲示板に不適切な書き込みをしたとして、同学部の別の男性准教授(46)を訓告。さらに学部長ら2人を、准教授2人に対する監督責任で、厳重注意にした。
--------------------------------終了
問題の拡大ということに対しては、「経営と言う前提では」仕方がない。また、このような批判を与えてもまだ甘いとか、抹殺するべしという意見はあろう。常識と対決と言う概念が凝り固まっている現実があろう。
もし、それを芸術だと思っているなら、大学を辞めさせられても他の大学にいっても(じつは教員養成系でないなら問題はなかろうし、OKを出す可能性はあろう。刑事罰ではないので)続ければいい。しかも、自分自身・自分より立場が上な人間まで標的にして初めて成立する。
「やっていい事と悪い事の違いを前提として、やった後のリスクをも思いつかなかった」学生のレベルを把握しなかったと言うのは指導者として問題になるのかもしれない。ただし、「首都大学東京は、准教授と学生が所属していたシステムデザイン学部の教育内容を早急に検証し、改善策を講じるとしている。」というなら、そもそも大学当局が想定するデザインと言う概念自体が、矮小化した美術を目的にしたものであって、改善策を講じる以前に芸術を教える学科自体を設置する意味がないと思っている。

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