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こんなに「自己啓発」「心身改造」に躍起になる(1/3)

技術者に対して社会が求めていることに「説明責任(Accountability)の履行」ということがある。
社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、直接的関係をもつ者だけでなく、消費者、取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつ人・組織のすべてに対して、活動などの内容、結果等の報告をすることを求める考えである。

公共機関が「税金の出資者、かつ主権者である国民」に公金の使用を説明することを求めた考えで、その後会社が出資者たる株主に対し資産の使途について説明することにも用いた。これが拡張していったものである。
説明責任という要件が欠落すると、相手の理解と納得を得られないことになる。そうすると双方向性のコミュニケーションは成立しないであろうし、倫理観に欠けた行為からは、相手の理解と納得を到底得ることはできない。
一般の社会でも、行動、製品、意思決定、政策に対する責任を理解し、当事者意識を持ち、成果を達成するために、 主体的に責任を持って行動することを指す。
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ところが、最近はこの説明責任というのが重視される反面、説明責任に対して理解と納得をしない限り、キャスティングボードを持つという前提が理解されることもあって、説明に対し意識的に理解しない、ないしは反例をあげて、抑止の材料に使うということがたびたび行われている。このため何もしないのがいいこと・・・という概念や、責任を負った技術者が納得することができずつぶれていくということが出だした。公的施設などではこの「説明責任」に関与する業務者は多いのだが、最近は製造メーカーでも開発者・開発指揮者より、これらの「説明責任」に関与する業務者が多くなってしまうため、新規のプロジェクトを起こしにくくなっている。
業務仕分けを行っている中でこまった事例には、このような説明責任というものを求める人が、追求するプロであるのに対し、公共企業体においては、説明側が業務の遂行者であることがある。ところが、こと日本ではこのような業務遂行者が説明責任者であるかというと、実際はきわめて分化したところがあり、さらに説明責任者と業務遂行者が同じ人であるほうが、むしろ第三者の視点が働かず問題という認識であったりする。後者は日本の過去の歴史に絡むが、「大本営発表」というのが今でも 比喩表現としてあるように、政府や有力な組織・団体や有名人の発言は、一方的に利するものとしてあらかじめ「公式発表」等を揶揄して必ず疑ってかかるというのが、すべてに関してある。(同じように信頼できない公的情報を「題名と日付しか合わない」(人民日報)とか果ては「日付以外は全て誤報」(東京スポーツ・・・しかも、新聞は翌日付で発行するため翌日の日付である)とかいうのがあるが、これはソース伝達の信頼性の議論で議論が異なる。
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ところで、こういうのがあった。なかなか面白いのだが・・・。
なぜ日本人はこんなに「自己啓発」「心身改造」に躍起になるのか  (SAPIO) 2009年12月21日(月)配信 斎藤環(精神科医)
我々はいつから「空気を読む」という言葉を耳にするようになったのだろうか。
あらためて説明するまでもないが、この場合の「空気」とは、コミュニケーション空間で醸成される雰囲気や気配のことだ。曖昧でありながらも個人の判断に大きな影響をもたらす特殊な空間である。
1977年に出版された山本七平の名著『「空気」の研究』によれば、「空気」という表現は明治以前にまで遡ることができる。日本人の判断基準には「論理的判断」と「空気的判断」があり、人は少なからず後者に従い「空気が許さない」という判断で行動する、という。(中略)
「小さな空気」の時代はかくも生きづらいものなのだ。
コミュニケーション偏重の大人社会を端的に象徴するのは「勝間和代」ブームだろう。彼女の主張の根底には、「すべては情報であり、情報の新陳代謝を活発化することこそ幸福の鍵である」という観念がある。この幻想を実現するための手段として、コミュニケーション・スキルを高めて効率よく情報収集することを勧めている。彼女の読者であろう「じぶん探し」系の若者は、一般にコミュニケーション志向が強いため、彼女のメッセージに飛びつくのは当然である。
さらに彼女はワーキングマザーの支援をはじめとした活発な政治的発言を展開している。しかし、「自己啓発」と「社会変革」はふつう両立しない。哲学や理念、思想性が希薄だと感じてしまうのだ。
同様のことは政治の世界にも言える。先の総選挙での政権交代もその流れのひとつだ。勝間氏と民主党政権誕生は、理念の希薄さという共通点を持つ。政権交代が起きたのは、イデオロギー選択ではなく、単にわかりやすい政治を志向した結果ではないか。(中略)
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ここでは、「自己啓発」と「社会変革」というのが両立することを否定している。ただしこれは、倫理に関する考え方の差であろう。「社会変革」を「自己認識に従った社会の仕切り直し」と書いた段階でこれはつながる。
彼女が経済系の研究者であることを思い出すと、「お金を稼ぐことが前提で、そこからすべての倫理がスタートしている」ということなら、哲学や理念・思想性は経済の下にある従属項目なのである。
「金銭が幸福を導き出す側面が大きい、金銭を導き出す大きな要素に情報があり、情報の新陳代謝を活発化することこそ金銭の充足感を得ることができ、その結果が導き出しうるものの1つが幸福である」
となる。
そして残念ながら、社会企業家といわれる人たちの社会的企業事業にも、この問題はかかわるようである。
起業家は、典型的には儲けと自分にどの程度報酬があったかで、その実績を計る。社会起業家は、社会にどれだけの強い効果を与えたかを成功したかどうかの尺度にする。NPOや市民グループの場合、専従者は篤志家だったり資産家であるものだが、この尺度が極めてあいまいになるという場合に、効果が計られず実績として低く評価される場合がある。また、ある程度成功した場合に、これを継承した次代の経営者が収益回収に図るということは多くある。日本の場合は個人資産家が現在いない状況になっている(これは、社会の近代化=成熟化が目指す、ハンデ(欠点)を持った個人がハンデのない個人と同等に生きていける平等な社会というのが拡大化された結果、長所があって資産がある個人が持っている資産を社会に「あらかじめ」分配させることになるともいえる。)以上、回収に走るのはある意味ほかの手法がないからとも言える。
グラミン銀行でさえそのような議論が出るんだとも聞く。また、営利団体としておこなうことを前提にするはなしもあるらしい。
つまり倫理が金銭創出を基点とするか、倫理概念を起点にするかでこの結論はまったくことなる。後者にいたっては「霞を食う」ことを前提に社会や政府が業務を求めるということを見ると、いいことをしても食を得ることもできないということを想定するのである。
このようなことを考えると、説明責任というものを完璧に履行することを社会が求めるのは、無効な利得を得る人材を排除することなのだが、ないものねだりをして行くことにしか収斂しないという現実はどうもあるようである。
(続く)

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