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日本型ものつくりの限界論議(2/2)

(承前)
しばらく前に読んだ本で、いろんな人から「一度は読むべき」と言われている。問題意識には私なりに振り返りをする必要があることに気がついた。
ものつくり敗戦 「匠の呪縛」が日本を衰退させる
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筆者の意見だと
第一の科学革命:ガリレオ、ニュートンらによる近代科学の確立
については、日本は独自性をもって行なったが、最終的には習得によって得てきた。そのため多少基盤にあやふやなところがある。
第二の科学革命:大量生産、大量消費を生んだ科学と技術の結びつき
ここにおいて科学を技術に転写し、援用することに世界は進んでいった。所が科学から技術への片勾配になっていた技術革新を、逆にリバースすることをするというカスタマイズをしていくことで、独自性を確保した。
第三の科学革命:人工物を対象とする科学、すなわち「システム」の登場
独自性を前段で進めてしまった結果、システムというものの重要性が見えなくなってきた。従ってこのところでどうしても進めないというか、過去の遺産をさかのぼって壊しているのが今であろう。

ただしこの前提は、第一の科学革命のスキルを不完全でももつからこそ、第二の科学革命のスキルが構築され、第一の科学革命のスキルを不完全でももち、かつ第二の科学革命のスキルを不完全でももつからこそ、第三の科学革命のスキルが構築さているという半分重層的関係であると考えている。、
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ところで、設計業務を行なっていると、システム的な志向を行うためには全員がシステム的志向を行い出すと物品が成立できなくなると言う実感を感じることがある。またある程度技術レベルが平準化された集団だと、製品構成を行なうことよりも意見調整を行なうか、意見調整を何らかの形で納得していただくという意思統一の行動のほうがじつは10倍以上時間がかかる。職分が細かくされた段階で其のシステムの意思統一が図られない。これがコンカレント性が高く、ある程度製品構成が固まったもののブラッシュアップが高いものになち他国の設計を凌駕するということを感じたことがある。ようするに私はシステム志向をする場合、プロジェクト内に階層的な志向、全部芯をとる人とそれに完全に従い隷従する人という役割を、明確にすりこまさない限り成り立たないといえると考えているが、そもそも社会階層が平坦的な場合は年功序列などのツールを使わない限り存在しないという国民性は、システム志向には向かない。あえていうと、正社員と派遣社員、親会社の社員と協力工場の社員という形を用いないと成り立たないのが、日本におけるシステム的志向のフィールドではないだろうか。

ある計測機器を扱っていて、他の会社の製品を調査することがあった。
A:米国製 エネルギ性能は一定のレベル 大きさ:小 性能管理;極めて難しい(日本国内では問題になるが海外ではOK) 機構:極めて作りにくい
B:米国製 エネルギ性能は低い 大きさ:標準的 性能管理;極めて難しい(海外でもぎりぎりOK) 機構:作りやすい
C:日本製 エネルギ性能は一定のレベル 大きさ:小 性能管理;よい 機構:作りやすい
D:日本製 エネルギ性能は一定のレベル 大きさ:標準的 性能管理;よい 機構:作りやすい

この製品のなかでAは市況のなかでは一番の販売量・累積販売量を誇るが、ある機構部が接着剤で組み立てていると言う信頼性をそこなう作り方で、唖然とした。そこで調べてみると、外部の設計技術者が1人(なんと専門の人)で計画設計しているので、メーカー側には管理技術者はいても設計技術者がいないのである。このような不都合な構造の部品はなあーんと中央アメリカの会社で大量に作り、大幅に良品選別して作っており、人件費は結果的に安いことが前提でというのである。
なるほど、これが製品をブラッシュアップせず、設計者が「私造る人」、作業者が「私造る人」という姿勢を貫いているといことで販路の大きさで商売ができるということだということかと思った。このようにシステム志向がある場合には製品を全体に考えることができるのだが、この場合、生産体制というコスト面もバランスが崩れたら、製品群の構成がまったく終始つかなくなるという、システム依存だからこそ、システム設計の前提が崩れたときに骨格の機構のレジスト性がないという場合のサポートがなくなるという、きわどい立場になると言うことは考えていい。
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これは機構の成熟性を論じてるのではない。
起業や企業買収などによる資本・労働の再編成をそもそも受け付けないのは、システム思考というものを考える必要があっても、既存の手法を部分的に手直しする最適化手法に長けていた以上、育てる必要がなかったということと考える。つまり、再構成を受け付けること自体が社会における自分の存在意義や、直面する生活を崩壊させたし、また再構成をすること自体が社会における他人の存在意義の崩壊や、他人が直面する生活を崩壊させたという倫理的規範にかかわるのである。つまり、工業なり製品製造と言う実態的製品のなかで「システム」は形を伴って(たとえばソフトなら、ソフトによる具体事例を伴う。書籍や基準書として認める)はいっていても、思考としては扱えないと言うことではなかろうか。

日本の製品構成が、既存のものの機構を置き換え、最適化し、という既存ベースの変更で動いているというのは、新製品を開発すると日本製品は機構の単純化以上に新機軸の付加を重ねることからもいえる。また、市場でもそういう開発の方針の企業が受け入れられないため、海外企業では日本向け販売を日本企業に譲るか、きっぱり日本では販売しないと割り切るか、ないしは日本で売っているというステータスだけを得るため細々とやってるというのがある。つまり合理的ということが社会の中で反作用として働き、継続的社会の維持にはそぐわない側面が極めて大きいある意味ではすでに固まった社会である以上、そrrは反社会的行為であるとみなされるわけである。(そこを反旗を思想的に翻した事例が、小泉政権での民間主導型新自由主義経済であったといえる)
西欧の産業革命以後の資本集約産業に対し人間を軸とした労働集約産業であり、労働集約型技術が「道具から機械へ」の転換を実現する資本集約型技術に対し、「機械から道具へ」回帰する道を作り出した。
旧来の「開発主義」的な方法論が限界に来ていることは指摘されている。そこでシステム志向に行くのを期待してるようだが、開発の方向性をハード的資産からソフト的資産に振り分けるしか、できないだろうと思っている。日本的な勤勉システムを見直すのは、われわれがやってこなかった事業といえるが、おおよそ天皇制が始まってきてからともいえる。容易なことではない以前に、この間の既存のインフラ、すなわち第一・第二に科学革命の蓄積や最低限の骨子さえも壊すと考える。
必要なシステムの構築が今後の社会に必須であり、属人的なものつくりにこだわる限り、今後の発展はないとも考えるのは確かにそうだろう。所が一見すると変なレトリックなのだが、属人的なものつくりのベースからシステムの構築を行なうということでしか、多くの人の頭を動かせないという制約条件があって、これをはずすと何もできない水泡となるというなら、元々社風を海外の人にあわせ、日本の社会風土から外れない限り、システムと言うかたちで生産体系を組むのは私は困難と考える。
このように、日本の電子産業が、突然だめになった理由を木村氏は、「システム科学の訓練の欠如」という教育のレベルで説明している。じつはそもそもシステムと言う仮定と感情の交差する理論構築をすること自体、日本人が従来持っていた現象観察と其の実際的反映というあるいみ「論理的構築」手法には適応しないのではと私は考えている。たぶん、「システム科学の訓練の欠如」とそれを習熟教育たる「数学をすべての大学で必修科目にしろ」というところにもってきても、システムと言う考え方を現実世界の構築ベースで明示化して考える前提で考える以上、意図には合わないと考える。
システム的思考はあるいみ論理的であるが、行なわれた現象を抽象的に解しストーリーを構築するという手法であろう。所が私たちは、論理的であるが、行なわれた現象を現実的な事象に置き換えて解しストーリーを構築するという手法という一段階違うのが在ると考える。大衆小説と言うものは海外でもあるが、今の日本では大衆小説の代替がじつは「長編の劇画」という思いっきり抽象性を排除したものに置きかえて隆盛を見ているといえないか。つまり抽象性を持つもので生産活動を突き詰めてすることが欧米は突き詰められなかったのだが、ずっと資本不足・労働過剰が続いてきた日本やアジアの国(台湾・韓国)はそこに極めて強い力を持った。
(ただし、文中にあるユーグリッド幾何学と非ユーグリッド幾何学の境界認識について論理性の考え方を育てたと言う意見は私も感じる。ユーグリッド幾何学の講義を受け、論理的思考をあるていど育てた結果、「じつはこれらはある仮定(第5公理)のみにかかわる世界だよ」とひっくるかえしを食らったのにショックを受けたことがある。氏と同じような講義を高校の時受けて、きわめて印象に残っていることはいいたい)
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日本は資産大国になる一方、賃金は中国の20倍だというのに、労働集約的な「匠」とか「すり合わせ」にこだわって負け続けていると言われる。たしかにそうだ。但し司令塔的存在を元々持つことを拒否する体制では、労働集約でない業務をすることは、即何もしないことを意味するのだろうと考えている。(中国人が怖いのは、労働集約的な「匠」とか「すり合わせ」には元々なじまないのだが、論理的な指示手法が浸透しているため、粛々と従っているように装っているところである)所が世界の多くで特にITの分野では、ムーアの法則(最小部品コストに関連する集積回路におけるトランジスタの集積密度は、18〜24か月ごとに倍になる、という経験則。)によってハードウェアの価格はタダに近づいている。古いメインフレーム技術を延命するために膨大な残業を続けて労働コストは上昇し、世界市場では使えないとさえいわれる。
但し、あくまでムーアの法則は経験則であるため、これが本当に未来永劫続き、ハードウェアの価格はタダになるかと言うと疑問と考えるともいえる。さらに、メインフレームを維持しなければならない金融システム(これは秘匿義務などの特性による)が厳然として見えるところにあると、日本人の活動特性としては、其の維持のほうが運用上企業内外のコンセンサスが取れるともいえる。
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「理論」「システム」「ソフトウェア」が、我が国の不得手な分野だと筆者は言うが、しかし、この3つこそ、今後の物つくりには不可欠であるというのはある意味よく理解する。
「理論」については、氏のいう理論というのがある意味理論科学者の特性(というか研究畑の考え方)に偏っていると私は考える。理論があって工業製品ができることは前提であるというのは当然であると考えていいのだが、じつは理論を単純に工業製品に現物化したものではじつは使えないことに設計者は気がつくし、工業化の目的である、販売において特徴をどう調整するかを考えると、海外の企業と異なる本来不可侵な領域・・・つまり性能を犠牲にしても安価に・・・とか・・・普通なら機構的に成り立たないと思われる精密な性能を、経験則を合わせこんで理論と関係なく実績で成り立たせる・・・というエリアがあることを日本では行なうしかない。しかも「現物はこうなった。新たな理論があるのでは・・・」と逆展開を研究サイドに持ってくる。これを研究者はあきれ返るのであるが、じつはこの結果新しい知見があったというのも事実である。また研究者がスピンオフをして起業をする場合、市場要求がこのように理論的とはいえない市場認識で構築されるなかで、理論を前提にした商品は評価されないということもあり、これはこれで起業の困難さが日本では際立っているという原因の一つになっている。
海外企業はが理論を絶対視するというロジック的に直結した手法を宗とし、むしろロジックが成り立たないような市場製品が企画された場合、競合する企業の実績がなければ撤収することが多く、利得と損失を見極め極めて合理的であるのだが、日本企業・そしてかなり近い思想を持つ台湾や韓国の企業の一部にその様なところをあとから攻められてしまうことは結果的にはあった。けどその市場は今はサチレートし、すでに食いつぶしているともいえるのだろう。
「システム」については、システムの考え方がモノなど現実の変更やカイゼンなど既存の現物に付帯したものという考え方が、支配的である以上、それ以外の創造的ビジネスフレームをもつには、今までの日本の一般人の思想やポリシー、アイデンデティーを廃却する前提になる、そうなると今までの既存の第二の科学革命で活用していたスキルを捨てるしかないと考えると、社会全体を壊滅させることになろう。
「ソフトウェア」は、其の成熟に対する作りこみの考え方を、ハードな製品と同じ検証手法で作っていくと言う手法で作る限りは、使える用途は限られているともいえる。ただし、ハードウエアはそれを使う環境や社会の反映であり、提案したものが納得されない社会ではいくらいいものと客観的に考えても成り立たない。既存のものを前提に文化・思想・理論・技術を構築することが前提にある文化では、ケータイのように既存の出た機能をすべて盛り込まないと、既存のノウハウが生かせないと購買層すなわち社会が考え受け取らない。iPHONEのように革新的なものが日本国内では極めて限定的な新規顧客を得られないうえに、既存のケータイを持っっていることを前提で購入する顧客が多いのは、日本の文化が他国からは理解できない頑強な世界と思われる材料になる。
ただしソフトに関しては韓国は有力である。これは意外ともとられかねないが、どうも韓国のソフトに対する作り方は日本と余り変わらない手法であるが、人件費が低いところと、日本よりは過去の経験に対して経済的視点から妥協していると言う感じもする(というのは、ソフトとかソフト的サービスに関しては、韓国製品は安価だけれどもアフターサービスが悪いと言うものが海外のうち、そのようなサービスのニーズがある地域では、問題になっているのだと聞く)
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今後であるが日本の科学技術産業が抱えている欠陥を木村氏はこう考えている。
「普遍性への感度の低さ」
「見えないものを見る感受性の低さ」
「ハード偏重、ソフト軽視」
ただし、これを提言することで社会全体や国の考えが動くとしても、パッチを当てるような対策に終始するし、根源的手法をとると既存の思考形態を崩す結果、今までの日本が持っていたからこそあった、独自性まで崩壊するのがむしろ大きかろう。つまりわかっていても既存のステータスを崩すガラガラポンになることのほうが、デメリットが大きすぎると思う。そこで提案するのは
「複数の知から新しい知を創造する”知の統合”」
「「モノ」重視から「コト」重視へのことつくり」
と言う意見。
私自身は、知の統合というのは逆に行ないやすいと思っている。ITによる知の統合が、特定の知識階級に固定していかなくなってしまったという側面は、違う側面を労働集約的で極めて知的側面でフラットな社会には、有利に働きやすいと見ている。ただしアイデンティティーが絡んでくる、「「モノ」重視から「コト」重視へのことつくり」は擬似的には実施されても根源的実施は、宗教観や社会観まで総換えする前提になるため、難しいと考えている。

木村氏は「匠の呪縛」からの脱却ということで、ものが従来のようなハードをさしているのでは先行きがないと考えて、そこでシステム・ソフトを作れる頭を形成できないのにいらだってるようだ。しかし私は、単独のシステム・ソフトを作る文化を薦めていっても、万物にすべて神を見いだす、物体を基本にすべての思考を成り立たせるものでは、ソフトというものを無体的商品とは考えず、それこそDVDに残るプログラムデータとして有体物と扱うのが関の山。アプローチを考える必要がある。

ただし、じつは第二の科学革命のうちかなりの考え方は、日本が独自の発展をしたものだから、成果があっても理解されにくい(しかし実効があることはわかっている)というものがある。
QC活動・コンカレントエンジニアリング・タグチメソッドという発想は使い風されたものとはまだおもわれていない。ロシアの技術であるTRIZもそう。(これは日本で導入時におかしな手法をした関係で、日本発にはなれないが、韓国中国の積極的援用が大きいということは、かなり使い安いところにあると解釈できる事情がある。簡単な一般顧客向けの指導手法の提案が日本発でもある。)つまり周回遅れでも十分独自性があり、他国に成り立たないものになってしまった以上、それをだましだまし使っていくほうが現実的である。
つまり私は、これらのところは今後の技術に、日本のすでに開発された技術にはずせない所がある以上、残存者利益という消極的視点を反対に武器にするのが、アイデンデティーを壊さない限界と考える。ソフトに関しては、既存社会への依存性が高く、其の文化が理解できないところで生産することは、どんなにかんばっても、最適化の限界が逃れられない。機械などの生産物にくっついた二番手に回ることでいくしか、国のステータスを保って生き延びることができないと考えている。
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この本は、そうした問題の所在をガツンと明確にし、大切な問題提起をするトリガーを与える良書であると思う。あなたも鵜呑みにせず、考えてみるために読んでみたらいかがでしょうか。

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