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出家とその弟子(1/2)

師弟制度がなくなったものが多い。漫才では師弟関係がなくなっており(養成所出身が多くなっているから、業界団体として強くなったと見える)、伝統的なものではない近代的工業での師弟関係は、一部の工程(板金プレス、造船の鉄板曲げやハンドワーク、溶接のうち特殊なものに見られる)で残っている(溶接などは専門の学校を出てからも、熟練工の育成に10年は必要ということはある)が、おおむね薄くなっているようだ。比較的感性に左右されるものには師匠・弟子と明確に言わなくても、結果的に師弟関係に近いものも多いとも言える。
ただし、技能的なものではなく精神的というところの場合もある。この言い方をする場合「心の師匠」といういいかたや私淑という言い方が近い場合もある。それと、メンターと呼ばれる指導者とであった結果、主に対話による気づきと助言で、被育成者(メンティー)本人の自発的・自律的な発達を促す場合は近かろう。
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たとえば、アイドルのウエンツ瑛士にとっては「お笑い芸人」とは尊敬の対象である。そのため、かれが子役のころ仕事で懇意にしたお笑い芸人の山崎邦正と師弟関係にある。多大な影響を受けその当時からずっと慕い続けている。しかし、直接技術的に教えを請うのは今田耕司、宮迫博之、品川祐などで「お笑いの先生」という。一方、山崎邦正は近年月亭八方の弟子(正式名入門ではない)で、本格的古典落語に精力的に取り組んでいる。意外なのだが、月亭八方自体は徐々に本格派という評判が高くなってきた(余芸のほうが注目されてからともいえる)。そういうわけで落語を演じる時は「月亭方正」(正式の弟子に準じた名前にもなっている)月1回程度演じるとか、大学の心理学の院生であるとか複雑な話もある。
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つまり師匠と弟子の関係は「技能的なもの」と「心理的なもの」がありこの「混合比率」と「全体の濃度」で形態が決まるのではないか。マトリックスが組めるともいえる。
師弟関係をどう考えるかは、その社会の構成の考えで異なってくるようだ。元々は経験によって培った「実務的な」知識・技能などを伝授する関係だ。経験から年長者が師匠となる事が多いが、「経験が浅い」という尺度から必ずしも年齢で判断できない例も結構ある。ソクラテス・プラトン・アリストテレスの師弟関係が著名であり、孔子もそうであろうがこれは、学問とか指導という世界の「技能」というところと、精神的なものの混在があるようだ。そこが、じつは過去の漫才における師匠と弟子の関係で問題になったことがある。厳しいのみならず理不尽なまでに弟子を追い詰めることをするため、師匠としては十分な技能があっても弟子を見かねて他の師匠が引き取るなどの行為も合ったようで、これが漫才においては養成所による育成に移行していった経緯でもあるという。
この傾向は、落語界には今も多少残っていて、技能伝承とメンター、教育システムまでが統合的に形成される場合もある。
落語界では師匠は弟子について一切の生殺与奪権を持っている。弟子が真打になる前に師匠を欠いた場合(死んだ場合など)には、本人に責はなくとも即、廃業となるし、師匠の一存で弟子を破門することができる。(なお、その瞬間から弟子は落語界・芸能界全体から追放されることがある。(例:笑福亭笑光⇒嘉門達夫)逆に言うとそうでない破門もある)。前座時代の弟子は、寄席で下働きを行うほかに、毎日、朝早く師匠の家に行き掃除など家事全般を行わい、家事も落語修行という形である。この形はかつての歌手でもあったし演歌の場合はこれを守る場合もある。ただし、落語では上下関係は一門を越えて共通で、師匠は「落語界全体にとっての師匠」、弟子は「落語界全体にとっての弟子」という一面もあるため、別の一門の落語家に落語を指導してもらうこともある。なお、この生活一切が修行という側面は職能訓練的側面もあったらしい。

例:師匠「おそい。早く飛んでくるようにこい」
  弟子「はーい。(といって、荷物を背負い、両腕を広げ、飛ぶような格好をして、)飛んできました。」

このように「おきていることはすべて正しい」という認識を知り、そこからどのように派生させるかを考えること自体が思考形態としての落語というのである。(この事例は、落語家の2代目笑福亭松之助と落語家時代の明石家さんまの話である)
困ったことに、いわゆるヤクザの世界(これも役座という書き方にすると同業者組合のニュアンスがある)の、破門というのも、、師匠の一存で弟子を破門することができ、その瞬間から弟子は任侠界から追放される。しかし逆に言うとそうでない破門とか、戻ってこれるクラスの破門もある。離縁のまわし状の字の印刷色で判別できるとか聞く。
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ただこのように、師匠と弟子の関係がウエットなのかドライなのかということで判別することが、その業界の指導形態の関係があるようだ。たとえば「出家とその弟子」という本で語られる親鸞(もっともこれは親鸞の伝記ではない)はまさにメンター活動のような精神的支援であるが、それとともにお寺をあづかる側面では、技能集団という側面も否定できない。ただし指導者が、対話による気づきと助言による被育成者たるメンティー本人の自発的・自律的な発達を促す行動は宗教という場面ではあるようだ。

ある同業者の長老にあってお話をしていたのだが、こういう話になった。

長老:「某くんのところで、一緒に指導者の発掘にがんばってると聞いているよ」
デハボ:「ありがとうございます」
長老:「ただなあ、実は私自身は指導者を大手企業の経営者OBの篤志者から招くというのは、俺は、ちょっと気に障る。というのは、優れた師匠は弟子が見いだすということだからだ。自分から指導者・メンターになりたいというのにろくなのはおらんだろう。」
デハボ:「私はそこは違うとおもっています。経営における思考過程で、師匠というものが必要な人が、それにきがつかないとか存在を知らないということは多いですからね。とはいえ、じつは指導者に対するスクリーニングは大切で、そのご意見ももっともと考えています。」
長老:「そうだろ」
デハボ:「ですが、実際指導者・メンターになる人は、他の指導者・メンターさんから、人格優秀という形で推奨される例が非常に多く、いまはそのような縁故のある方がメインです。」
長老:「ふむ。そうか。ただな、ある意味指導者・メンターというのは、孔子もそうなら、麻原彰晃もメンターだぞ。」
デハボ:「まあそうですねえ」

麻原彰晃ネタは私、その話をする前に技術者倫理の講義をした時に話してる話題でもあり、長老はそれをひっかけていたようだ。ただしじつは、私は麻原 彰晃は外見的にはヨガ道場を結成し、「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称する、空中浮遊などのショー的なアピールで徐々に信者を獲得していく過程では、技能伝承(ヨガ)に関する師匠としての素質があったのだろうと想像する。ところが、人格的な師匠としては、麻原彰晃にはその素質は皆無だったのだが、そのあたりの指導者・師匠という持分をたくさんの人が混在させたという可能性がある。(注:仏教・ヒンズー教では、グル(guru ,गुरु)はサンスクリットで「指導者」「教師」「尊敬すべき人物」などを意味するため、メンターと同義である。「導師」「尊師」などとも訳されるのだが、欧米でニューエイジ系カルト団体指導者もグルを名乗り、また、某宗教団体が事件を起こしたことから、訳語の「尊師」と共に否定的に受け取られることが多くなってしまった。)逆に言うと、人を指導する仕事においては、それとなく相手に自分が、「技術の師匠」か「心の師匠」かという選択をさせる必要があるのではないか。
(続く)

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コメント

こんばんは。
僕はブログを通して多くの「技術の師匠」・「心の師匠」を見つけました。ただし乞うて教わるのでなく、自分に都合のいいところをもっぱら盗むだけなのですが。一方的な押しかけ徒弟がつくことは「師匠」たるものの必然かも知れないと思います。

投稿: niwatadumi | 2009年7月26日 (日曜日) 22時06分

英語におけるこのような指導者はメンターと言います。但しこの場合、メンターに指導を受けるものにとっても、合わない場合はすぐ解除できる(正式契約があるならば)という考え方があるのですね。したがって、近代的な弟子と師匠の関係は「自分に都合のいいところをもっぱら盗む」というので取捨選択を行なうのが必然だと思います。
そして私もブログを通し多くの「技術の師匠」・「心の師匠」を得たと考える一人です。

投稿: デハボ1000 | 2009年7月26日 (日曜日) 22時25分

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