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使われるためのツール

温厚な知り合いがあるときえらく憤っていた。
『「金融学という時代、金融は人々の暮らしに密着し、生活の便利のために役立つものとして使われていた。金融工学と言われて、技術に特化していった結果、理念から離れていき、使われるためのツールになってしまった。」ていうことを書いてるものがこのところたくさん出てきた。てことはだ、工学というものは人々の理念を堕落させるものかよ・・』
金融工学自体は、今までの金融市場の挙動を整理・解析し、経済学・会計学・工学・数学など様々な学問領域と接点を持ちながら裏打ちし、発達していたものである。そこで確かに理論は実務と密接に結びついていることから工学という概念、つまり実務から理論を導出していることから、工学としての形は多少あるとはいえる。(というか経済学・経営学自体もその側面があるし大きく分けると実学という範囲である)
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さて、経営工学というのはあるいみ工学技術として確立されているといえるだろう。工場経営に代表される諸問題には工学的見地で解決されるからだ。また融資問題などは計算工学や計算機工学・情報工学の中に入るともいえる。分類が難しいものではあるが金融工学は経営工学のなかに入る分類もある(たとえば技術士試験)のだが、これが技術者にはすこぶる評判がよろしくない。もちろん資格の実践には金融工学がなじまないという現実もあるのだが、現象が工学的な一意なまとめにならないのである。

このような意見がでるのは、金融学というものは理念を中心にしていたから、ハンドリングするものはそれなりのリテラシーを持っていたという判断があったのだろう。小手先の技術が入った「金融工学」になるとリテラシーの低い人までが扱えることになったからこそ、堕落したといいたいらしい。金融工学理論から得られた算式はプライシング・リスク管理・会計の実務でも広く用いられ、金融工学の発展は、金融実務への適用が大きく、これに伴うことをIT技術が支援していた側面はある。それを、米国のサブプライムローン金融危機の元凶は、金融工学による過剰な信用付け証券化商品の破綻によるものと疑わうのは、学問と技術、実学と理論、論理性と感情依存を見事に混在させていると認識する。だからこういうのは工学者にとっては、運営する側の倫理なりスキルの問題でしょうといたく憤慨するのは私は当然であると考える。ただしその研究材料を支援したのがITなり計算工学なりといわれると、責任分担を議論すること自体枝葉末節とはおもう。これは近年職業倫理ということで議論されるもの

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に商業倫理学や経済倫理学が必要になってきたということであるな。すべての実学には倫理学がついてくるということであろう。それが追認されたに過ぎない。

ただこの下に引用した記事は、ゼニがもうかること=特権階級への昇進という視点から見たものである。これ自体はたびたび見聞きする問題であるが、自分たちが机上の計算に特化したシステムを社会に導入して知的な誘導をはかり、社会が追認したということから進化したものだろう。
しかし工学というものにもある、極めて独善的視点がたまに経済性とか現実性いう物に隠れる、やむをえない問題が後に大きい課題になることがあるが、もしかしたらある意味似ているという視点はあるかもしれない。
---------------------引用
金融危機の真犯人を育んだMBAの罪
 およそ300年前、大阪の近くにある堂島取引市場(注:実際は大阪キタのどまんなかですが)に集まった米商人たちが、現代の金融派生商品産業を生み出した。彼らは古典的な経済上の問題に直面していた。米の売価が、生産コストよりも大きな振れ幅で変動するため、経済的に極めて不安定な生活になっていたのだ。 そこで彼らは将来の決められた日付に、あらかじめ定まった価格で米を届けることを記す証書を書き始めた。市場が進化するに連れ、実際に米を一切保有せずとも、証書だけを取引することが可能になった。
コメ商人の実需から生まれたデリバティブ取引
著者による『ハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場』(日経BP社)が発売された。原題は、Ahead of the Curve: Two Years at Harvard Business School。
 この歴史的事実は、2つの点において特筆すべきだ。まず、デリバティブ取引が、事業の不安定を取り除きたいという、コメ商人の実需から生まれたことだ。
 そして、これらの取引を編み出したのがコメ商人であり、何年もの高等教育を受け、洗練されたコンピューターの収支予測モデルを持つ金融家ではなかったことである。彼らの金融イノベーションはコメの生産という、現実に価値を生み出す経済活動に根ざしていた。いつの間にかグローバル経済の大半を支配し、それ自身が自己目的化した金融エンジニアリングの類ではなかった。
 現在のデリバティブトレーダーのうち、いったいどれだけの人が、自分が取引している商品のことを理解しているだろうか? ある企業から債券を買い入れ、それを商品先物や為替相場の変動に対してヘッジしようとする時、彼らはその取引の原資産となっている有形の資産について考えることがあるのだろうか? トレーディングを始めるよりも前に、原油を触ったり、実際に商品をタイバーツで支払ったり、あるいはサブプライムローンを借り入れたりしたことがある人はどれほどいるのだろうか?
 同様に、実際のビジネス上の課題に取り組むよりも先に、エクセルで収支予測を作ったり、パワーポイントで戦略プレゼンテーションを作ったりすることに没頭している経営幹部やコンサルタントがどれほどいることか。
 ここにビジネス教育の根本的な問題がある。いつの間にか、ビジネススクールが教えることが現実のビジネスから懸け離れたものになってしまったのだ。
社会との間に溝を作った“犯人”となってしまった
 ビジネススクールは、経営やビジネスについて知的な思考をするための活気にあふれる場であり、重要な役割を果たす教育機関である。また、経済と社会生活が交差する場所でもある。しかし、ビジネススクールは、自らが教育するエリートと、奉仕すべき社会との間に大きな溝を生む“犯人”となってしまった。ビジネススクールは普通の人には全く縁もゆかりもない、独自の言語と行動規範を作り上げたのである。これは極めて深刻な問題だ。ビジネススクールは、自分たちがやっていることは何か、そもそもビジネススクールは必要なのかについて、改めて問い直す必要がある。
 私が2004年から2006年に通ったハーバードビジネススクールを含むいくつかのビジネススクールは、すでにこの問題に取り組み始めた。しかし、実際に多くのビジネススクールがこの問題に向き合うようになったきかっけは、金融危機と、すでに広まっているビジネスリーダーに対する世間一般からの怒りだった。
(中略)
 MBAを批判する者は、ヘッジファンドやプライベートエクイティ・ファームにも非難の矛先を向けている。実体経済の基礎である、キャッシュフローを生み出す製造業やサービス業を、まるでギャンブルのチップのように扱うようになったからだ。また、経済的な報酬が社会の上の方にばかり流れ、少数の人間だけに集中していることも憤慨している。
 少し前までは、何か特別なことをしなければ億万長者にはなれなかった。世界中のすべての机の上にパソコンを置くとか、油を掘り当てるとか、あるいは国際海運を独占するとかいったことだ。
 それがこの10年ほどで、金融とトレーディングによって、個人が億万長者に匹敵する資産を手に入れられるようになった。それも、何十億ドルの価値を生み出すことによってではなく、他人から奪うことによって――。
-----------------中断
この議論は極論すると差別化のためにMBAで技術や技術による解析手法を学習したものが、結果的に同じ「利得の最適化」というところで進み、おおむね同じ土俵で切磋琢磨した結果、オーバーフローをしたという感じが見える。MBAというシステムを筆者は批判し、問題点を提示しているが、このメカニズムは「天の配剤」「神の見えざる力」に対しても自動調整が聞かなくなっているほど存在のでかい金融機構自体の問題と、現実追従という実学の限界かつ元々の存在として当然ある存在意義を把握しにくいということだろう。なにあろう、このようなことは環境技術における希釈という概念など似た問題は実は多いともいえるのだ。
そう考えると、別にこのような問題は「実学」の中で生きている人にとっては対岸の火事とは言いにくいところがあるのだ。感情の問題はかなりのところまで合理的解釈で回避できるかもしれないが、ほとんどのところは触れによったり、ばらつきによったりする所がすべての問題の根源になってるもののようである。
----------------再開
金融危機の最中、なす術を知らなかった
 世界中の優れたビジネススクールの中でも特にハーバードは、かつては重要な産業界の事業経営者を教育していることを誇りにしていた。
 それが、私がビジネススクールで学んだ2年間で最も人気が高かった職業は、巨額の投資資金を運用するものだった。資産運用は伝統的な業種を経営するよりも、手を汚さずして、簡単に高い収益が上げられる職業と考えられていたのである。
金融界という宇宙を支配する者たちは、自らのイノベーションや資本の効率的な配分が、多くの人々の経済的な取り分を拡大していると主張した。しかし製造業や政府、教育などの専門職に対する報酬と学生たちの関心が先細りしてしまったのは、金融家たちが自身の利益になるように、彼らの取り分を侵食していったためだ。
 ビジネススクールにとっての悲劇は、バブルが悲惨なまでに拡大している間、経済システム全体の再構築をすべきという批判の声を上げなかったことだ。グローバル経済に関する彼らの専門的で独立した思考が求められていたまさにその時、彼らは声を失っていたのである。
 彼らはビジネス界の知的リーダーとして活躍するのではなく、従属者のように語り、行動した。経営学者はビジネスの理性や良心を体現することもなく、目の前に広がる不穏な出来事について批判する意志もなく、哲学的に思考する力にも驚くほど欠けていることを露呈した。
 私自身は、MBA課程を楽しく学んだ。高額ではあったが、挑戦的で刺激的な体験だった。素晴らしい人に何人も出会った。無意味に感じた内容もあったが、ほとんどは興味深いものだった。私はここで経営で使われる言語や実践方法を学んだ。
 ただ、私が好きになれなかったのは、その特権意識である。ハーバードにいるだけで、どこか特別で多くの見返りを得られるという発想だ。私はMBAにいるだけで経営が上手になるという考えには全く賛同できない。
 ビジネススクールは、ここからの卒業生は偉業を成し遂げると主張する。これはある面で真実ではある。しかし、世の中の多くの人が、経済生活を支配する特権的な人たちから不当な扱いを受け、疎外されたと腹を立てている。ビジネスリーダーに対するこのような世間一般の感情に反論することはできないだろう。(後略)
-----------------終了
これとて、ツールをいかようにして使うのかということになろう。
有機リン化合物というものは、神経系・呼吸器系に対する毒性がある化合物が多いから、殺虫剤として農薬に使われている一方、人に対する神経毒性が高い化合物も多いため、戦時には神経ガスとしてサリンなどが開発された。化学兵器原料となることから各種の法規制を受ける。
このように金融危機の中でだれが生活として(金銭的とは別の意味で)得をしたか、損をしたかは、職業倫理のなかで議論するのも便法ではある。
もう一つは、ツールは誰にあるかということであって、使うものが確固たるストーリーを持っており、それが自己の考え方にしたがって「他人に対してしてもらってはならないことは自分でもしてはならない」という考え方である。これを、黄金律という。技術者倫理では、原則の触れ、原則からの換骨奪胎の気づきを課題とする。

多くの宗教、道徳や哲学で見出されることであって具体例としてはこのようになる。
イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」 」(マタイによる福音書)
孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語 )
ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ラビ・ヒルレル)
ヒンドゥー教「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(マハーバーラタ)
イスラム教「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマド)
ここには仏教がないようだが、「自分自身が苦痛を感じることを、他人にしてはならない。」「世界中のあらゆるものに愛を与え、他の人々の利益のために徳を行う。このようなひとだけが幸せである。」「汝の隣人を裁くな。」という言葉もあるらしい。そしてこの黄金律を典拠として「裁判員制度」に良心として従わないというのも事実ある。

ただし、この黄金律が肯定されたとしても、その判断ベースになる思考過程は各自別々である。というのは、例えば、その目的意識が「相手を成仏させることが最高かつ崇高な行為」という前提条件を持つ(・・・これは、オウム真理教の事例だが、時にこの様な先鋒的思考の宗教は存在する・・・)と既に仮定がなりたたない。そして、この様な場合には、己の欲することが実は名誉ある崇高な死であることさえあるのだ。 これを世のなかでは殉教者というし犬死にともいう。

となると、経済を率いていくことが世界の人たちを良くするということを、黄金律としていた、きわめて使命感を感じた経済学者・経営者・社会資本家たちにとっては、それに相容れない思想を持つ利己主義の人を判別しても排除できないという前提に資本主義経済がたっていたこと自体に問題がある気もするわけである。ただし、そこでエリート意識という特権階級のステータスが絶対であると考える思考過程しか持ち得なかった(・・ただし、この思考は社会主義でも、共産主義でも、そして指導者というものが存在する限り生じる。原始共産制でも免れないようだ)というのが、ツールを使ってツールの本質を知らずということになる。
学者に対して「論語読みの論語知らず」とか、鉄道マニアに対して「時刻表読みの時刻表知らず」(orz)とののしってるのと、実はまったく変わらないとおもってるのだ。
つまり、
だれも最低の現象を想定して物事を作りはしないが、最高になる項目がある以上、最低になる項目もある。」
ということだろう。作用に対する反作用、光あるところの影、そこを見るように勤めることをするしか消極的だがすべはないだうと考えている。
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こうはなすと「温厚な知り合い」は悩んでしまった。確かに金融工学ということで悪者にするのは問題だが、そうなると、兵法・戦略学・軍事技術にかんする学問や工学は・・・・と自己矛盾にはいってしまったのである。

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コメント

この分野で東工大から中大でご活躍の先生がいて、最近精力的に執筆もされています。

http://www.indsys.chuo-u.ac.jp/~konnolab/index.html

一時、工学部から銀行などの金融機関に就職する学生が多いときには、まわりの先生方の見方が厳しかったそうです。

投稿: KADOTA | 2009年7月 2日 (木曜日) 13時28分

>一時、工学部から銀行などの金融機関に就職する学生が多いときには、まわりの先生方の見方が厳しかったそうです。
実は私の卒業時期には、求人に銀行・証券がかなりありました。もちろん、SEなら数学的論理思考の面があるからともかくですが、当時の工学部の教官は金融システムで工学が役に立つとは思えんし・・・と就職指導の教官がリクルーターを追い返したというのも見ています。
銀行とか証券、保険と言ったビジネスにおける商品設計、資産運用の分野に、理系エンジニアが参入するというのはSEか数学専攻(金融数学という利子計算などの理論構築があり、この研究は理学部に専門の先生が居た)という認識が強かったです。

投稿: デハボ1000 | 2009年7月 2日 (木曜日) 19時06分

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