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死刑と無期とを分けたもの

以前から気になっている被害者遺族の納得のいかない気持ち。ある意味わかるのだが死には死を持って償いを果さなければ解決しないというのは、無限ループに入りそうで、なんかひっかかっかっていた。確か浄土真宗の葬儀のときに僧侶が唱えるものに、このような事を諌めた文言が会ったという話も聞く(本当か確認しなければならないが)ところが倫理学と法学の立ち居地の違いを考えていくとまんざら判らなくもないという、説明しにくい事象がでてくる。
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自首で無期”闇サイト殺人判決の是非  - 2009.03.24 17:02  ココログニュース
3 月18日に名古屋地裁で行われた闇サイト殺人裁判の判決が波紋を呼んでいる。3被告のうち2人は死刑だったが、1人は「自首による事件解決の寄与」を理由に無期懲役と、自首したことが死刑と無期とを分けた形になったからだ。被害者の母親は、「自首すれば人を殺しても自分の命は守れるのか」と悔しさをにじませた。
ブロガーの多くも「反省のない自首で無期とは」と、納得していない。犯行の性格からしても「酌量の余地はない」「人を殺したら命で償うべき」との声が大きい。金もうけのためにインターネットの掲示板で集まった犯人たちに残虐に殺された被害者を思えば、3人とも死刑が妥当と考えるのは一般的な国民感情だろう。
だが、冷静な意見もある。被害者遺族の納得のいかない気持ちは当然だとしながらも、「刑事司法手続きが被害者による復讐の場ではないことも忘れてはならない」と言うのは『蜜柑』のブロガーだ。刑事司法の目的が何かという議論はされず、遺族の主張ばかり報道されることを憂慮し、「社会が何を学ばなければならないのかを、我々はもっと考えなければ」と語る。
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遺族の気持ちを鎮める方策は何か、と問う『CWS private』のブロガーは、被害者を救うことができない裁判制度の限界について考え、司法改革に取り組む必要性を訴えている。
裁判員制度の開始が目前に迫る今、あらためて「人を裁く」とはどういうことか、考えさせられる。(ぽこ)
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あー。そういうことかあ。
先日、技術者倫理に関するシンポジウムに行ってきた。主要な研究者の参加があって驚いたが、そのときこの分野での日本の研究者・基本文献の執筆者として名高い、杉本泰治氏が講演をされた中にこういうのがあったのだ。

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杉本泰治・高城重厚著、技術者の倫理入門、丸善、2001.4)
1. 法による制裁は人の自由を束縛(懲役、禁固など)したり、人の財産に干渉(罰金、損害賠償など)する性格のものである。したがって、人の権利を不当に侵害することがないよう、適用の条件が厳格に規定される。その結果、社会から非難されるようなことでも、法的追求を免れ、法の網から漏れるという空白部分が生じる。
2. 強力な法律を作って義務として強制しようとすればするほど、人々は、責任を他人に転嫁して逃れようとする。法を積極的に順守するよりも、法による制裁を逃れさえすればよいという消極的な対応になりがちである。そこにも法の空白部分が生じる。
3. 事故が起きてから法律によって責任を問い制裁するのは、後追いの手法である。いかに多額の損害賠償を得ても、失われた生命は戻らず、失われた健康はしばしば回復不能である。人の生命や健康にかかわることは、起きないように抑止する歯止めとなる行動が必要だが、それには法による強制はほとんど無力である。

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「法と倫理は補完関係にある」というのが、ことは、法で規定されているものと倫理で規定されているのはまったく異なるものであり、法にて正当な事が倫理で不当であるのは当然の事であるというのが氏の意見。
よく事故が起き、その責任に関して裁判になるなど問題があるが、事実、それに類した問題に対して杉本泰治氏はある事件の判決(債務関係の裁判という)を例にし、こういうことを述べている。
「技術において起きた問題は技術で解決し、法において起きた問題は法で解決し、倫理にて起きた問題は倫理で解決する。」
大陸法 (ヨーロッパ大陸諸国で広く採用され、日本も明治維新の際に採用。成文法を法の中心に置く。)の場合は私法の重要な部分が法律・法典の条文によって規定されるとする。日本(韓国・台湾・中国も)ではこのうちドイツ法を基本にしている。この場合、倫理概念のある判例・結果を蓄積したコモンロー(コモン・ロー:慣習法。イギリス法において発生した法概念。当事者主義を背景として、伝統や慣習、先例に基づき裁判をしたこと。現代では、大陸法との対概念・ローマ法の区別に用いられる。判例の蓄積によっても規定されるのが特徴)でないことが問題となるのである。
また、「常識」「モラル」は成文化できてないという意味で、意識レベルにとどまり、「法」「倫理」は規範として成文化できる。主として常識から法が、モラルから倫理が、規範として抽出されてくると言う。また、杉本氏は、また、法は国家権力等に強制される他律的な規範であり、倫理は自主的な順守が期待される自律的な規範で、その意味でも補完関係にあると言う説である。
確かに、塀の上を歩くなんていうが、法的にはきわどいところを歩いていても、倫理的には完璧に外れているということは多いし、逆の例も想定されるであろう。そうなると、モラルとして、被害者の母親の意見にあるように、「自首すれば人を殺しても自分の命は守れるのか」というのは納得がいかないのであろう。けど法的には「自首すれば人を殺しても自分の命は守れるのか」というと相対的には自首しなかった2人の死刑宣告を受けた犯人に比べ逮捕に対し助けたことから、罪一等を減ずるのは決して不合理ではない。(まあ、逆に言うと2人の死刑宣告を受けた犯人は2度死刑を受けるべき・・・という議論になるなら、自首したものが1回死刑を受けるということなら成り立つが、2度死刑ということ自体が噴飯ですな。)
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ただこれについては、班目春樹東京大学大学院工学系研究科原子力専攻教授は違う解釈をされ、このように自分の講義資料で語っている。(http://www.nuclear.jp/~madarame/rinri_note.html)(原子力の研究には、どうしても技術者の倫理概念によって良くも悪くもという方向付けが決定される側面があることから、この分野の研究は進んでいる)
では「倫理」とは何か。私の感覚では、モラルと倫理規程の間にあるもので、倫理規程も含む。広義のモラルは倫理や倫理規程など全体を含む。法と対比されるべきものは倫理ではなく倫理規程である。そして倫理は手続きを論じるものであってはならない。「人として何が大切か」という本質を常に問いつづけるものでなければならない。ただ、このような感覚がどれだけ正しいかは自信がない。

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私自身は、班目氏の「人として何が大切か」という本質を常に問いつづけるものというところは概念としてわかるが、倫理は結果的に個人の問題であっても、その概念を各々が独自のもので、合理的な範囲で普遍性を持っていないもの(もっとも「合理的な範囲」というのが非常に曖昧模糊とはしています。)は排除される。このあたりを考えると、法と対比されるべきものは倫理ではなく倫理規程であるというのは判るが、その段階での微妙なところは、至近の事例や、時に有力者の発言、宗教的発言などでラインが不定であると考えている。
このラインが不定というところであるが、基本的には大陸法の前提である成文法ではざっくりと定めるしか、規定ができないという、詳細部だけコモンローに引きずられてしまう現実があることから、法体系と慣習の関係を既存価値基準を踏襲する事で、一番なじむということだと、もともと法体系概念を倫理的視点と同一視する事で、判断の基準の一意性(判断するによって判断内容がいたずらに触れ回ることにならないようにする志向)を失う事はそちらこそ、既存の倫理的概念と相反する内部矛盾が生じると認識している。
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但し、このような判断の一意性自体を容認している法体系として、大陸法であるのにかなり慣習法志向をもつスカンディナビア法というものがある。古代ゲルマン法慣習法が多く残ることで過度に体系化されているわけでもない判例法的側面も持つ。(現実に即した柔軟な思考というか、その場の解決に重点を置いた場当たり的思考かという中庸な判定が身上。)つまりこのあたりで考え方の見方が代わってくる。

たしかに、刑事司法の目的が何かという議論はされず、遺族の主張が強く出る側面は多くある。他の事件でも議論が厳罰主義・目には目をという側面が見られるが、あくまで倫理な姿勢から出てくる。ところがこの見方が慣習法ベースで出てくると、倫理が慣習法を触る事になる結果、法律と裁判がまったく別ということになろう。これはある意味「死刑・・・ではなく私刑」を容認することになる。たとえば(そんな事はなかろうが)自首した人に対し、被害者の親族が殺傷に及んだ「お礼参り」を是とするか非とするかに係わるところまで拡張解釈できる。これを宗教的に諌めることを仏教(経典にある)・キリスト教などで謳うことも多い。連鎖的に殺傷が繰り返されるからであるがこれは別の経験的な倫理概念の導入になる。
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前提が大陸法の世界でそれがコンセンサスとして述べられている場合、基本的に法と倫理は類似であるものの、まったく同じ判断を結果的に出すとはまずいえないということを私たちは知って、その上で倫理的な現実問題を法的視点にどう取り込むかを、論理的に、きわめて感覚的思い込みを排除して、このような報道を見つめなければならない。概してそのあたりのパラダイムを整理して私たち人間は観察・発言ができないし、出来てもバイアスをかけてしまうようだ。被害者を救うことが法律や裁判所の役目であるように見えるが、実はそのような衣をまとっていても現実の裁判は既存の事例に典拠を持った結果の秩序維持が本質であり、それ以上でもそれ以下でもないと考えるべきである。
ここでは法と倫理について述べたが、法と科学、倫理と科学についても本質的にはこの関係は変わらないと私はいま感じている。
また、このあたりは実は大陸法に典拠を持つ場合の裁判員制度と慣習法に典拠を持つ裁判員制度ということで中身が異なるという側面もある。となるとだ、、、、裁判員制度や陪審制(たしかに陪審制は慣習法のエリアのほうが多いのだが、戦前の日本ではこれを採用していた時期がある。)というところは倫理と法律の混在をまねくという視点が出てくるのだろうなあと思うのだ。

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