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塞翁はすぐには見えない

先日、仕事の上で、某財界人の方から財務に明るい元経営幹部の方をご紹介いただいた。眼光鋭いその目は、切れ物を感じさせる。お話が決して旨い人ではないのだが、紳士で論理的な進め方は重厚で説得力がある。怖くもある。現在は一線を離れて某IT企業の顧問格のお仕事をされているそうだ。私ごとき一介の技術コンサルとはある意味格が違うし、財務の専門家ということで、M&A・企業買収・経営改革ということには一家言あるなあと私ごとき物でも分かる。
ただ、この人が前の企業で経営者をされていたときに、架空決算の財務問題がでてしまい、結果的に引責辞任となったということも聞いていた。結果的にこの会社の会計基準が短期間で損失を回収する米国的会計基準に従うしかなかったということである。(この会社はすでに資本の多くを米国の投資銀行に持たれ、筆頭株主が海外の投資銀行になっていたということもあろう)この企業は上場廃止になり、新聞・財界誌では、個人を名指ししてワンマン経営とかメタメタな扱いをされていたということも分かってきた。
けれども、財界の経営者コミニティーの中では彼をせめることはしなかったどころか、むしろ対処できない問題(それは株主の配当を上げるという米国式の資金回収手法をその前の経営陣から責任上引き継ぐはめになったための対応)であるから、いろんな人が人材を惜しみ、手を差し伸べて種々の仕事に係るようにしたということらしいが、これとて、専門誌の論調や種々の報道、そして民意では「財界のお家第一主義」という声も激しくあった。
実はこの企業の中間管理職だった人間が知人におり、この前後の社内事情も聞いている。今同業他社にいる彼は、部門ごと外資系企業に移籍したのち、部門ごと閉鎖、同業他社に専門職の一般社員として転属、そしてその会社が合併していった関係でまた、合併後の企業の中間管理職(専門職待遇)となっている。そのぐちゃぐちゃなどろどろな話を知人から聞いた後でこの人に会ったものであるから、いささか複雑な心境ではあったが、私はとまどってしまった。
反対に、別の立場でお会いした人は、元経営幹部の下で成長させてもらったと語っている。もちろん、その後会社の経営上の都合で彼も企業を離れ、流転の上、別の仕事として財界にかかわっているのだが、彼の思考にきわめて強い示唆を受けたといっていた。ところがこの人も、元経営幹部の名前はどうも出せないようである。
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新自由主義のもとでの欧米流の企業の社会的立場は営利を求めることを趣旨とし、金銭評価の短期的回収を評価指標とする。日本において企業は「会社」と「社会」が構成が同じことばであるように、社会は企業の存立に対し同一性を極めてもとめ、企業自体が社会のインフラと扱う。もし社会的な環境変化に対応できない企業に対しても、倒産企業にすることを社会的に排除する上に再起できない経営者という烙印を押していく。どちらかといえば、日本の会社は比較的人民公社やコルホーズの理想形態にちかくなるのである。コルホーズには破綻の概念はあっても(事実コルホーズ生産の非効率性は議論であり続けた)、地域によっては一部の自留地での農作物の一定の自由生産と市場での販売含みというゆるい結合になりながらも残り、公共施設と一体化しているところは似ている。この経緯もあってソビエト連邦が解体され、農業集団化が否定され、コルホーズの存在意義が問われても、旧ロシア連邦地域だけでは従来のコルホーズが形を変えながら維持されている。(東欧では消滅)

この元経営幹部の話の中に健全な中小企業を大きくするということを出されており、今はそういう職をされている(この元経営幹部に会った会議もそういう場面)のだが、アメリカなどで隆盛を見ている投資ファンドが、米国の「セレブの」倫理観に係り、一般大衆の倫理観とはなれているものの、相互にその概念を無視しあうことから始まり、日本はこれが相互にその概念を無視できないことから始まるという言い方をどこかでされていた。
なんと敵対的M&Aを否定する事で日本の企業体は日本の中での存在意義を高めるが、海外の投資家はこの企業に闘志(=欲)がないとみられ、存在意義・評価を低めるという二律相反に陥っていくのらしい。確かに阪急阪神統合やニッポン放送の経営権の事例でも、国外の評価ではむしろこの国の民意がすでに投資対象で無いという視点で語られ、株値にも影響した(すでに日本の株投資金額の60%は海外投資家によってなり立っている。)のはそのあたりであろう。
企業は何のためにあるのか経営の原点を眺めて、企業が永続し将来にわたって継続(発展とはいわない)するための5つの目的というのがある。

1.顧客満足による利益の追求
2.社員の幸せの確保
3.株主や債権者への利益の還元
4.社会への貢献
5.将来の事業資金の確保

ところがよく見ると1~5は優先順位を示すもので無く、これは見事に各項目が何らかの形でトレードオフの関係である。(いままでこれは優先順位だといわれていたが、市場経済の中で相反条件にとならぬものは、環境経営という視点を入れたところですでに消え去ったというものが妥当と私は考えている。)と、その中での優先順位を付ける中でどこを支点とするかで全く企業体に対する判断が異なってしまう。投資銀行の意向が配当の「適正」な回収にあるなら、そこと相反すべき内容は経営者としては、社会性を重んじる日本の会社の存立意義と投資回収を会社の役割とする海外の企業体では成り立たない。
そのなかで志向を海外的な視点に対応し、企業体の存立を無くす事で抵抗をはかる事例は、固定資産が固有人材などに依存する業界では「焦土作戦」という形で対抗できる。(ニッポン放送の経営権問題の時はこの手法を用いた)会社を壊すのも悪、継続するのも社会的に悪、となるとどうやら具体的に何を行っていても火焔の中にしか企業はいなかったことになる。そこを財界の有志は考えたのだろうか、重用こそしないけれども彼に対しフォローをする側面があるのは、企業経営の意味合いがそれこそ立脚する社会環境でいかにでも解釈できる、流動性の中の代物だったのだろうということを、見ていたのだろうとおもう。
そう考えると、某堀江氏のように思考基準がことなり、知性のベクトルが異なっていた財界人と相容れなかった人材は、日本財界には非常であって、排除すべきもの(事実経団連幹部には、堀江氏をメンバーに加えた事の反省というかアンチテーゼで語る発言がこの何年か非常に多い)でありがちだが、それでも尚、かれをある意味創業の一つの典型例と考えて、良くも悪くも参考にし、また意見を貰う人も多くいるのは、多様性以上に「生きる」ということの判断が一義で成り立たないことを示している。同じことは、戸水寛人(日露戦争開戦時に「七博士意見書」を提出しロシアへの武力侵攻を強硬に主張。東京帝大教授(法学)ののちほかの博士とは道を異にし、衆議院議員・弁護士・大学講師。起業家でもあったが、いまなら情報操作・コンプライアンスにひっかかりない行動もしていたようだ)にもいえる側面のようだ。
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そうなると、こういえないか。
経営者が完全に私利私欲を持って企業を食い物にした典型例の場合は、ある意味経営者が叱責されるのはしかたがなく、そういう場合は、他の経営者・財界人がてを差し伸べるよりも突き放す事でわかるが、あるいみにっちもさっちもいかないような「トラップ」にはまった場合は、意外と友達やかつての仲間、果ては競合相手だった人物(但し、世論という流動性の高いものを基準とする政治家は別であろう)が手を差し伸べてくれる。
厳しい世界の中で本当に社会に還元できる聡明な人材を得るのには、このような視点を取るといいのかもしれない。運もあるけど、困っているときの第三者の支援を見つめるとその人の価値がみえてくるのかもしれぬ。経営に成功したとかいう一元的結果のみが、永久に親しむべき人物への視点を狂わすのが分かる気がする。

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