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「イタリアのものづくりに学ぶ(2/2)

(承前)
――引用
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL/20081029/160410/
大量生産モデルからの脱却には「アート」が必要---森永卓郎氏の講演から  2008/10/29 19:13 近岡 裕=日経ものづくり
 (前略)  いずれも,機能やスペックといったもので評価すると,他の製品よりも高額に思える商品だ。しかし,“センス”がまるで異なる。その証拠に他と全く競合しない。分かりやすく例えると,「ヴェルサーチのスーツと1万円を切るスーツは,全く競合しない」(森永氏)。衣服としては同じものでも,両スーツでは購入者の層が全然違うからだ。先のアレッシィの恐竜の形をしたライターは,実は,着火源は単なる100円ライターだ。だが,「100円ライターでタバコに火を付けるのと,恐竜で火を付けるのと,どちらが素敵なライフスタイルか」と森永氏は問いかける。他と競合せず,ワクワク,ドキドキといった喜びをオーナーに提供する高額な商品をイタリア企業は提供し,成功してきたのだという。
 ただし,そのためには日本企業に「構造改革が必要だ」(同氏)。イタリアにあって日本にない,決定的なものの一つが,「権限委譲」(同氏)だそうだ。先のセンスの優れるイタリア製品を生み出すには,「アート」が不可欠だと森永氏は言う。アートには二つの意味があり,一つは技術,そしてもう一つは芸術だ。これら二つが融合して,センスの良い製品が生まれるのだという。
 日本企業は総じて技術は申し分ないようだ。だが,芸術の領域になると,さすがにちょっと課題があるのではないかと個人的には感じる。それをどのように鍛えたらよいかも分からない。ここで森永氏は一つの提案をした。「現場からしかアートは出てこない。年配者の感性で若い人の芽をつぶしてはいけない」(同氏)。
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(中略) 大量生産でコストダウンして価格競争に挑むビジネスモデルが,今後の日本で通用しないとは思わない。センスに優れる高額な商品だけで,現在の企業規模が維持できるかについても疑問だ。だが,大量生産で安く造るビジネスモデルを続ける限り,今後も苦しい価格競争を続けなければならないという覚悟が必要だろうとも思う。日本企業のコスト削減の努力には頭が下がる思いだが,例えば,生産現場の改善だけで,新興国の通貨に対する円高の影響を埋めるのは非常に難しいというのも事実だ。行き着くところは,従業員の給料の大幅な圧縮か,さもなくば事業からの撤退か…ということにもなりかねない。少しずつでも「アート」に挑戦する意味があるのではないか,そう思わせる森永氏の講演だった。
――終了
ただ、この見方は非常に面白い示唆を与えてくれます。技術を技術で対抗するのはまっとうな正攻法ではありますが、それが上限で極められると、そこからは後ろ向きの技術開発(安く作る、人件費の低いところで作る、ほかの製品との部品共用化を図る)がどうしても頭をもたげてきます。消耗戦ということでしょうね。これを他の視点で作ることが作り手に求められるということだろうと思います。

ただし、ここに少しわれわれの意識の差がでてくると思います。 

「トヨタのセルシオは完璧なクルマ。小指でもピタッとドアが閉まる。価格は700万円。ところが,イタリア製のフェラーリは1億5000万円。これほど高いのに,雨の日は乗れず,エンジンがいつもかかるかどうか分からない。でも,かかるかどうか分からないからこそ,かかったときにオーナーはうれしく感じる」(同氏)
ということでも、考え方は分かれます。雨の日こそ車が必要なのに、そんなときに動かせない自動車は単なる飾りもの、それころ「飛ばない豚はただの豚」(おい)ではないのー。というように。かくてフェラーリを買う人はすでに複数自動車を持っていて、その中にセルシオと並んでフェラーリがあったり、ハイヤーを常日頃使っていたりすると考えるのです。
もちろんイタリアではありませんが、面白いトイカメラでへー・・・こんな風に面白く写るんだと楽しむのがあり、これは非常に楽しい(伴う技量が私にあるかは大いに疑問)のですが、こういう楽しみができるのは、そこそこちゃんとしたカメラが持っていたりする人が楽しむことなんですよね。これも似てる気もします。
 100円ライターでタバコに火を付けるのと,アレッシィの恐竜の形をしたライターで火を付けるのと,どちらが素敵なライフスタイルかというという話を森永氏は問いかけています。これも示唆的な話といえます。個人的差異を前提にしていうと、私自身は恐竜型高級ライターを使うことでライフスタイルが向上したという「夢」は、単なる夢を購入したということになり、飯のタネにならず、また紛失損傷を恐れてびくびくして使うという精神的圧迫を感じます。「夢」を買う宝くじとて販売額が激減しているように、夢よりも明日の飯のほうが大切になるトレンドがどこでも大きくなる考えも強くなっているとも聞きます。また他と競合せず,ワクワク,ドキドキといった喜びがオーナーにとって負担になる商品というものが、日本や東洋諸国では実は強くあるんではないか、そして日本人のいくらかの人はそういう差別化はかたちだけで中身が伴っていないともみなすひとが依然多いのではないか思います。もちろんそういう人ばかりではありませんが、その認識を民族がどのように認識しているかを、企業だけでなく・・というか企業は二次的な認識で・・・民族のコンセンサスがどちらを指向しているかが支配することではないでしょうか。個性を個性として認識することを習慣付けられている世界と、個性が社会と敵対する概念が大きい世界とではおのずから違うでしょうね。その意味で、わくわく、どきどきするラテン系魅力のある製品は、日本や韓国にとってみれば、安心・安全・安定の心持ちに置き換えられるポリシーではないですか・・・という視点にたどりついたのです。
逆に言うとこういう世界で品質の問題がブランドとくっつくと、いきなり素敵なライフスタイルとは違う世界で製品が膾炙することはあります。グッチとか有名ブランドの品質のいい鞄が女性に人気で、海外の人は「なんであんなに華美なものを」と日本人に対しまゆをひそめる意見があるようですが、あれは独自性ということにブランドを見出したのではなく品質保証の意味でブランドが普及したものでありブランドを買ってるわけでなく品質を買っていると私は見ています。だからイタリアの事例とは必ずしも軌を一にしません。そうなると、機能やスペックといったもので評価すると,他の製品よりも高額に思える商品でも「センス」がまるで異なることが商品価値になっているといえるが、この「センス」が市場の各位の認識がどうなっているかで変わると思う。センスという言葉を私はあまり使わないが、センスの有無は各人の個性の範囲内であり、一意的に定義されることをすること自体がセンスの定義自体を逸脱すると思うから。
ヴェルサーチのスーツと1万円を切るスーツは,全く競合しないと森永氏はいう。衣服としては同じものでも,両スーツでは購入者の層が全然違う。ところが、いつもヴェルサーチのスーツを買う層は1万円を切るスーツを買うことに阻害される問題が(既存の虚勢意識に勝てば)ないが、いつも1万円を切るスーツを買う層はヴェルサーチのスーツを買うことは(清水の舞台から飛び降りるぐらい)かなり障壁があるし、うっかり鉤裂きもできないとびくびくする。他と競合せず,ワクワク,ドキドキといった喜びをオーナーに提供する高額な商品をイタリア企業は提供し,成功してきたのだが、喜びを得ることに価値観を見出さないオーナーが経済概念の変化で増加するといきなりこのバランスシートが崩れるという、「アイスランド的崩壊」がありえなくもないのが怖い。同じことが、安心・安全を放棄した製品群を期待する移行をするのもありうるだけに日本モデルも同様に怖いが。
―――
さて、
アートには二つの意味があり,一つは技術,そしてもう一つは芸術だ。これら二つが融合して,センスの良い製品が生まれる。

という表現は非常に鋭いと思う。デザインも設計と意匠検討の側面があるが、この使い分けがなかなか分離できないのが日本語ですね。(最もセンスという言葉は使わず、製品全般に言えると思うが)
そして基盤の製品技術が確立化したもの(コモディティ化、所定の製品カテゴリー中において、製造元企業ごとの差・違いが不明瞭化した製品群)が生産基地としてBRiCSに移動していくと、それをすでに取得している製品群をどう国民性が成立させるかを課題にする。日本やドイツ・(韓国もそうかも)が技術に比重を置くのに対し、イタリアやフランスは芸術に比重を置いていると判断していいのでは。そうなると、購買層のとらまえ方や保守性の変革など付帯する問題は多いのだが、もう少し思考の複線化をする必要が日本には必要ということ、すなわち記者のいう「少しずつでも「アート」に挑戦する意味があるのではないか」ということは両立が難しいことではあることを知った上でぜひ考えるべきである。
最も芸術といっても、対極的でないものイノネーティブ視点の「創造的芸術」とパッシブ的、ニーズ指向による視点の「民芸」と持ち込み方は別れる。私は、今の日本人の非常に強固な保守的姿勢を見るに、意外と民芸的視点が面白いかなと考える。意識を急激に変えられないなら、その方向性はあるんではないだろうか。
―――
さらに、設計者が製品の設計を行い製造まで指導することは、意外と小説・論文を作るのに似ているところがある。技術の素質・過去の知見を下敷きにし、それを言語とコンセンサスとして、図面や製品、販売計画を作るというのは、推理小説・歴史小説とあまり変わらない側面があることに気がついた人はいるだろうか。
描く言語が変わるとこの小説はメインは変わらなくてもその周りの付随技術・付帯環境は格段に変わる。
そして、イタリア=ローマ 日本はともに小説などの執筆では世界の中でも古くから普及し、しかもその歴史がいまだに途絶えないという意味では似ている。もっとも作風はその手段の細部は各々の言語が違うように異なるから技術積み上げ指向と芸術蓄積手法というように変わるのだろうが、実は本質はさほど変わらないものだろうと私は信じている。発露や表現手法が異なるだけなのだが、それが大きな差異に移るだけと思っている。意外とこの辺りまで認識して言ってるとしたら、エグゼクティブの育ち(親が大学の先生だったとか)である森永卓郎氏らしい意見であるが、商品企画という意味と研究開発の本質という意味の絶妙のバランス配分において非常に面白い示唆と感じたのです。

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