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企業には性善説を、労働者には自己責任を

きわめてセンシティブな話題である。この記事は半年前のものであるが、12月現在、まさに湯浅氏の意見そのものになっているのは事実である。この意見は、いわゆる神の手に導かれる自由主義(自由主義経済)を志向するか、共産主義を志向するか、全体主義的志向によるかでまったく志向が異なる。日本がどこに志向を見出しているかでまったく答えが変わるという、非常に悩ましい中身である。
知人などと話しても、どこに私たちは行くか、そして人間の意志と現実ということから見ても答えが出にくい話で、結構話題になって、そして決まって意見の差異が埋まらない話題である。そのことを前提に話を展開してみたい。
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日本にもスラム街が生まれる 2008年07月04日10時00分  日刊ゲンダイ
「このままだと日本でもスラム街が生まれる」――。「反貧困」(岩波新書)などの著書がある湯浅誠氏(39)がこう言っている。東京・秋葉原の無差別殺傷事件から間もなく1カ月。事件は若者の格差を浮かび上がらせたが、コトは想像以上に深刻だ。東大大学院時代からホームレス支援などに携わっている湯浅氏の警告はゾッとする。
 自立支援の相談を続けて感じるのは、自暴自棄の人が目立つようになったことです。例えば、27歳の男性は「私の生きる意味が全く分からない」と言い、新宿で野宿している。ケガで派遣会社をクビになった男性は「夢は自爆テロ」と言いました。
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 秋葉原事件の犯人、某(25)は、携帯サイトに「どうせ何をやっても努力不足と言われる」と書き込んでいました。彼らに共通するのは、「こんな世の中なのになぜ、オレがきちんと働くという“義理”を果たさなきゃいけないのか」という社会不信です。現実とのギャップに苦しむのは、夢や希望がある人です。それがなくなり、社会との折り合いがつけられなくなると、最悪の場合、自殺に走ったり、今回の某のように他害に向かう恐れがあるのです。


 若者の相談で「生活保護を受けたい」と平気で言う人も現れ始めました。貧困に苦しみ、「肩身が狭い」「自力で何とかしたい」と思う世代が大部分だった時代には考えられなかったことです。
「働いても、努力しても何も変わらない」という社会不信が広がり、社会への帰属意識が希薄化すればスラムが生まれる。格差に苦しむ若者の親世代がいなくなれば、一気に貧困が進み社会は変わってしまうと思います。
 早い段階で対応策が必要ですが、自民党や財界には期待できません。彼らは派遣の制度が悪いのではなく、コンプライアンスの問題だと言うからです。派遣会社の中には、労働者の給与から手数料や寮費などで3.4割を抜いてしまうところもある。
 企業には性善説を取り、労働者には自己責任を求めるのはおかしなことです。派遣法の改正など、小手先の規制強化では問題解決にはなりません。
【2008年7月1日掲載】
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そもそも、「このままだと日本でもスラム街が生まれる」というのですが、そういう発言自体がちょっと気になる経緯もあります。
大正時代、東京神田に東京市立の「公営の簡易食堂」が出現した。(なお大阪でも同じものがあった)これは米騒動とか関東大震災などで貧困層が増えてしまい公的補助の側面からの創立であった。公衆食堂は主に、生活困窮者のためのもので、簡易宿泊所に寝泊まりしているひとたちへの「救済事業」が目的である。このため「簡易食堂」という呼び方は、「簡易宿泊所」との関連であろう。しかも、東京が富を吸い上げれば田舎に貧乏が残る上に飢饉もあったこともあろう。東京なと都市に人々は集まり、大正末から昭和の初めには、貧乏な都市生活者がどこでも膨張する。この時期、「大衆」という言葉が流行語になるほど、大衆現象があった。その後民間の食堂(いわゆる大衆食堂)の普及で、より低廉な経営ができる民間の食堂が主体となる。
ではその前の東京での貧困層の食事はどうかというと、公的補助以前に、料亭の残飯を再販売ルートに乗せていたといいます。このシステムは公的には消滅した形になっていますが、昭和40年代には一部にはまだあったようです。
実は、以前にも書きましたが、都市部には明らかなスラム街がすでにあり、明治時代から考えてみても一向に消えていないと私は考えるのです。そのようなところを歩いても、現象はあまり変わっていないし、極端にいうと確かにドヤがテントに変わった結果面的に分散し希釈しているだけと認識しています。もちろん、地域の移動などはあるし、その組成は変わっているとも言えるので、地域を固定することはできないとは思うのですが絶対数はあまり変わらないのかと考えています。
ただし、その段階でケータイ電話がツールとして必須になり、一見して貧困層とは見えなくなっただけだろうと思うのです。だからといってケータイがないということは逆に言うとさらに金銭的に困る(要するに収入を得る手段がなくなる)ことと等しいのですから。人足寄場をインターネットで構築しているという言い方になるんでしょうね。

また「貧困」という言葉の定義とて、様々な項目の様々な貧困の定義があるともいえます。「経済的貧困」、「精神的貧困」、「教育的貧困」など様々な項目の貧困があるとしておこう。
「経済的貧困」:日本人は日本社会が貧困な社会と考えないが、「膨大な生産が膨大な富を生み出し、豊かな生活ができ」るが、「膨大な消費がなければ、新たな生産ができない」のが資本主義。親の世代の成功による社会財産の中で生まれてくる子の世代は、膨大な親の世代の種々の財産を前提にした行動をする。子の世代は過去の貧しい社会を知らないために、検討をしにくい事情もある。ただし、「貧困」には発展途上国の貧困も先進国の貧困もある。貧しい社会は所得も少ないけれども貧しい社会なりの共助システムが存在し、貧しいなりに国民生活は存在しているようだが、問題は国によって経済策崩壊のためこれが成り立つことさえ危ない地域もあるようだ。
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要するに感じることは、どのようなルートをとっても客観的見地でなく主観的見地で「貧困層」というものはあるのだということで、それがこのような形態で露呈したから、問題となっているとも言えようと思うのだと考える。したがって、貧困層の救済ということは、形態や表層的側面が変化したからそれに対応することで表面的に変わることがあっても、存在自体が生じるのは決して変わらないのではないかと考えるのです。
ただし、ここで、注意しなければならないのは、この筆者は、自暴自棄の人が目立つという指摘である。「こんな世の中なのになぜ、オレがきちんと働くという“義理”を果たさなきゃいけないのか」という社会不信。現実とのギャップに苦しむのは夢や希望がある証拠だというなら、社会との折り合いがつけられなくなると、最悪の場合、自殺・他害に向かう。貧困に苦しみ、「肩身が狭い」「自力で何とかしたい」と思うこと自体もまだ夢や希望がある証拠で、そこから、「働いても、努力しても何も変わらない」という社会不信がそもそもあるとおもう。
このような人によく見られる表現に「社会が悪いから」という表現があり、時々話題にもなる。新しい仕事を自分たちで見出すための資力もない上に、知力もない(しかも要求される知力は識者の概算によると、25年前の10倍とも100倍ともいわれるそうだ。ぼちぼち一人の力では制御できない容量に来ている)ことになると、社会への帰属意識が希薄化すればスラムに移行するとおもう。そこを精神的貧困に結びつける知見もあるようだがそこはあまり深追いしないでおこう。
ここまで言ってみるとわかるが、資本主義の本質的内容を考えれば、貧困層ができることを前提として動いているのであるわけで、自暴自棄の人たちを生じさせるのを抑えるためには、社会主義的思考でなければならなくなるのだが、ではそのデメリットもあるのだと思う。さらに社会的な「大衆」の志向は反対に自由「放任」経済により傾いていかざるを得ない。
当事者なりの苦労をこの筆者はしていると思うし、その見解としての内容は理解できるのだが、私は企業に性善説を与えているという概念自体が、すでに資本主義自体では成り立ちえない概念だと思っている。(むしろ、企業によってはコンプライアンスとか危機管理という際限のない対策内容に利益の半分以上を費やすことを余儀なくされている企業がどうも多くなってきており、そのためにあえて業務を縮小している場合さえでだしたからだ)すなわち社会資本的救済をすることで資本主義運営のサポートをするという従前の理論が、企業活動の巨大化により社会資本的運営の視点では抑えがきかないということだろうと思う。

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コメント

 現在起きている世界的な経済規模縮小が、「見えざる手」による資本主義的に自然な調整のプロセスの一部なのか、それとも増大した資本家、投資家たちの過ちなのか、個々の自己責任が忌避されてきた結果なのか、それぞれに考えさせられる部分はありますよね。

 貧困街という部分だけを考えれば確かに昔から変わらずにあるわけで、関西圏が近いのであいりん地区なんかにも行ったことがありますし、「日本にもスラム街ができる」という表現が危機を煽るのに適切なのかと言われると首をかしげざるを得ません。私の住んでいる街でも、先日ホームレスが公園で自殺しました。地方ニュースでも取り上げられませんでしたが、近隣住民の間では話題になりましたね。

 資本主義は淘汰社会だと思います。ある意味では、自然の摂理に叶っている。しかし、平和思想、人権思想とは真っ向から対立するものであり、共産、社会主義はどうか、というのも微妙な感じです。彼らには思想はあっても具体的な政策というものが提示できていないように見えます。失業者に政府が金を出すというのは、これからもっと不況が深刻になるのであれば、それこそ社会主義的な政策です。でも、パイそのものが縮小している以上、政府にも出せる金には限界というものがあると思います。

 アメリカの大統領選候補であったロン・ポール議員はリバタリアンですが、所得税の廃止やFRBの解体という大胆な政策を掲げネットで話題になりました。彼は「国民がこれからも国家におんぶにだっこという形が望まれるのであれば、この政策は実現できない」と前提条件を出しています。

 企業には性善説、労働者には自己責任、という言葉は、言い換えれば「企業ばかり守られて個人の尊厳は軽視されている」という労働者に都合のいい内容だと私は感じます。企業再編が加速して大企業同士が提携し、戦前の財閥のような体制ができつつある今、その企業を守らなければ、雇用も税収も減少するわけで、それは結局個人をも救済できないということになるのだと思うのですが。企業再編だってそもそもはそういう努力の過程にあるものだと思いますし、以前は護送船団方針などと非難されていましたが、自社株を守るために行われてきた様々な対策が、大不況となった今となっては、海外への資本流出を防ぎ日本社会へ与える世界的な不況の影響をある部分では食い止めた結果にもなっている。

 社会の中で、必然的に出てくるそういう貧困層の人たちの割合の問題で、その規模が大きくなりすぎると社会共産主義が支持され、一億総中流と言われたような、国民が潤っている状態では、更に高みを求めて、自由主義経済に代表されるような政策が要求される。「見えざる手」は結局、個人主義によって正しく機能しなくなったのではないかと思うのです。

 ニートになることを選んだ若者も、それを許した親たちも、その親たちに莫大な給与を与えている企業も、そうした経済体制を許容している政府にも、結局はそれを求めた社会にも問題はあると思います。ですから、「企業には体力維持のためあらゆる政策を、労働者には自己責任と内省を求め、政府による金銭的、保護的な救済ではなく、地域コミュニティによる求人紹介、職業訓練のような支援的対策を」という感じが適切なのではないかと考えたりします。

 うちの会社でも近々、派遣切りが行われる予定らしいですし、本当に他人事ではなく深刻な問題だと思いますが、首を切られそうな派遣社員は皆、そんなこと知らないという風情で今日もダラダラと適当に仕事をしているわけで。それで首を切られても文句を言えないと私は思います。で、そういう人に限って「社会が悪い」と言い出す。

 自己責任という言葉が様々な責任転嫁の意味で使われている昨今、本来の意味をしっかり考えた方がいいような気がしますね。政府が労働者救済のためにただ金を出す、というのはそのまま、ニートにその親が金を出すのとまるで変わらない怠惰な構図だと思えてなりません。自助努力こそ、自己責任として国民個人が目指すべき所であり、そこに政府がサポートする形で、企業が成立する形で社会が構築されていくのが望ましいのではないかと考えます。でも、現在社会ではそれが難しいのですね。その意味ではとても将来が不安です。

投稿: りっきぃ | 2008年12月20日 (土曜日) 07時10分

非常に長い考察ですね。けど実りあるご意見ありがとうございます。
>「見えざる手」は結局、個人主義によって正しく機能しなくなった
知人と話していたら、「見えざる手」というのは野放図と同じであって、結果的に策がないということをもっともらしく言っているのではないのかとおもいますね。
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湯浅氏は活動家として現場にも出ている人ですからあるいみわかって言っているのでしょうがこういう発言があります
>なぜか。「自己責任で片づけるのがいちばん簡単だから。それ以上、かかわりたくない。考える余裕もない。社会全体に溜めが失われている」。だが、社会分析は問題を解決しない。最近、言い方を変えた。「自己責任で転落した人なら死んでもいいんですか。それは動物の社会でしょう」。
基本的に、人間の社会とはいえ金銭的にも心境的には「貧すれば」動物の社会と本質はかわらんと思っています。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月20日 (土曜日) 12時36分

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