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公衆への責任(1/2)

私たちは、よく「公衆への説明責任」という言葉を語ることがある。
こうしゅう というのは 〔public〕の訳語で
(1)社会一般の人々。
(2)社会学で、一時的に集合した群集に対して、分散的に存在し、メディアを通じて世論を担う人々。
と解する。ここでは(2)の意味である。決して口がくさい分けではない
技術者もそうだし弁理士・そして医師がそうなのだが事象とその内容を説明し、享受する公衆において判断・裁量を図る情報を提供することで、最適解を社会が求める姿に近づけるということである。専門家が「専門家ですから、ワタシニマカセテクダサイ」というだけでは成り立たないというのが趣旨である。専門家が「お前ら公衆にはわかりにくいからこそ私たちの立場がある」という姿勢をもつことは公共の福祉に反するということである。
ただし、この反対側面はかならずある。説明する側から見れば、理解するためには科学の知識、概念を理解していることを前提にしては、すでに公衆という概念から逸脱しているという見方がある。かくてそれになじむいい説明手法があればいいのだが、実際はかなり低いところから説きだすと、わからんというそしりをまねくし、わかるように「ざっくり」説明することでどこが仮定でどこが結果でというところがわからなくなる説明をすると、本当に必要な概念をみえなくすることがある。
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環境問題がうそがおおい・・・とかいわれる書籍がおおいらしい。けどそれ自身が説明するということの説明ではないのか。

書籍は、概念論でわかりやすくした公衆向け書籍に対し、その説明のためにコンパイルしたところをうそというように解釈して書いているような感触を持っている。仮定条件を設定して議論すると、どっちも「正しい」んである。ただし現実の政策では1か0を選ばなければ納得しないし、互いに成り立つ項目がほとんどないということも多い。説明することでわかるようにすることさえプロパガンダという側面さえ指摘され、立ち往生することが多い。
まあ、公衆=大衆+専門家であるが、Aの事項では専門家でもBの事項では大衆になることもあるフローティングな存在である。過去は学識経験者は知的階級とされ分断されていたので当時はフローティングという概念はなかった。これが従来の専門家の定義の限界である。ここを詳しくいいだしたらきりがないので、以降は公衆≒大衆といういいかたにしてみたい。
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その見方はこういう視点もあろう。
大衆の大半が知的訓練を受けずに、または受けていても過度の高度な知的判断が必要な社会の中で社会活動をしている状況で、相対的に要求される知的内容と極めて複雑な場合に、互いに譲り合い・合意形成ができず、政策が停滞したり、愚かな合意が得られる状況がある。また大衆がおのおののエゴイズム・自己の存在価値を追求して意思決定する状況もある。(時に生死や尊厳の問題が絡むこともある)政治の場合は衆愚政治という。
従来このような場合、知的訓練を受けない大衆が意思決定に参加することで、議論がかみあわないとか、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、誤った政策執行に至る場合などをさすことがおおかった。ところが、知的訓練を受けない大衆がいなくなっても、求められる判断内容のほうが実感を伴わないとか、あまりにも関連知識の連携があって、大衆の主観にどうしても依存する側面が肥大化した事象があると、このような判断が最適かどうかもわからないし、相反内容(ある側面では最適でも、他の側面では最適でないために、利害利得がなにを行っても偏在する)の場合はパッチを当てるごとく補助的対策をめぐらした形で処置するしかなく、結果このシステムが全然見えなくなってるために、また紛糾するということのようである。
ここに利益誘導や、地縁・血縁の心理的同調、刹那的で短絡的怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことを高度な知的訓練を持つ人材は予想する。そしてそれが、非常にバランスが悪いという認識が大衆の中にあると、前言撤回ということで、またパッチが増える。コミュニティ全体が不利益をこうむる状況をさす。
政治に関しては過去から繰り返し言われたことであって、たとえばプラトンは、民主政は衆愚政治に陥る可能性があるとして、哲人政治の妥当性を主張したが、だれを持って哲人とするか自体が明確ならこれは一つの解決であった。けどその判断に恣意が入ることは避けられないわけで、極端な話「神の手」を探すという手法の議論なのである。これは本末転倒であろう。では、民主政治はどうか。大日本帝国憲法の初期のころのように納税額で参政権を制限したのは民主政治を模倣した哲人政治との妥協という見方もできる(最も明治時代には民主主義という概念が否定されていたとも言えるが)。反対にこのように冷めた見方もある。チャーチルは独裁政の魅力・傾斜を戒めた。「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」といかにも彼らしい視点とロジックで述べた。
かくて夢を見せることが科学の存在、工業の存在・技術の存在という議論になる場合、大衆への説明責任との相反がかなり多いことは知っておいてよいと私は思う。科学の理想論としては一つのあるべき姿ではあるがそうはいかないこともますます多くなっている。
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さて、技術者倫理では上述のように説明責任という言葉を使う。医療倫理でも同じような用語を使う。(応用倫理においては用語は異なれども類似概念がある)のだが、医療倫理のほうが人間的関係にさらに複雑な側面があることを承知いただいた上で、大きな本質は変わらないと私は考えている。
特に専門分化が進む今、技術者の説明責任(アカウンタビリティ)も重くなる。しかしここで私が特に注意しなければならないのは、専門家が固定された層でなくなっていることである。
それぞれの分野の専門家が説明責任をきちんと果たしてこそ、この複雑な現代社会が正常に維持されることが理想であるが、今は相手の大衆の形態が変質しているため、時に無力感にさいなまれるのも事実である。さて元々の言葉「アカウンタビリティ」は、本来は会計学の用語で「他人の財産を受託している者がそれをいかに管理し正しく処理したかをいつも証拠を示して説明できるようにしておく義務」という意味だそうな。現在では「説明責任」という訳が定着した。
「説明責任を果たす」というのは、その事柄について理解しようとする者に対し十分な情報を提供し、理解してもらうことだ。知識の押し付けは無意味だし、望まない者に知識を押し付けることは専門家の傲慢である。ただし望まない人にも発言の権利があるし、その経緯を第三者の大衆に判別させることは困難だ。もっというと十分な情報を理解してもらう段階で取捨選別をするしかできない大量の情報量を与えることも説明責任に反する反面、取捨選択行為自体が恣意的な意見誘導になるため、やってはいけない行為とも言える以上、これは大きな相反定義である。もちろん知識レベルにはいろいろな段階がある。大衆がどのレベルの知識を望んでいるかによって、分かりやすい説明することも必要であるし、専門的説明も必要である。だから誰に対しても同じような説明をするだけでは説明責任を果たしているとはいえないのだが、現実には相手の知識に合わせて言い換えることが説明責任をすべてに対して果たしていないとされる側面があるため、額面どおり運用することは至難の業である。過去の原発事故の説明会においてはかなりこの紛糾が見えた。
往々にして意味不明な言葉を並び立てて「責任は果たしたぞ」などと強弁するのがあるが、これではなにをかいわんやである。しかし最低限の知識というもの自体が一定の担保ができずに説明することが多い場合がいまは一般である。大衆というもの自体が常にフローティングしている存在であるという現実が、どこまで説明しても議論自体が成り立たず、なにをしてもよくないという現実的対応に収れんしてしまうことが普通になりつつある。たとえば「大衆」という言葉とて、ではどの程度までの専門技術者が大衆と専門家との境界点なのだろうかという定義ひとつとっても紛糾する経験をしているが、これで説明責任の内容が変わってしまうのであるから、具体的内容までかかわる上に、最終内容まで変えるところまで連鎖的に波及する定義であることに気が付き、慄然とする経験もある。
情報化社会では様々な情報伝達手段が発達し、望むものが好きなときに様々なレベルの知識にアクセスできる手段の構築は説明責任の一つの明快な遂行形態であるが、その全容を理解するには結果的に人的能力に対しオーバーフローしていることがいまや普通になりつつある。その点、利益誘導、地縁・血縁の心理的同調、怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などの「感性依存内容」ほうが今や「知的層」にとっても納得しやすいのである。
最近まで専門家というと、かなりの範囲まで把握できる専門家であるし、専門家が専門外の項目を論議すれば、考える段取り(論理的思考手法)まで把握することができた。ところが、前提条件も莫大になっていて、知識ベースでの論理ではカバーしきれない内容を整理しなければならないし、説明することで整理手法まで否定されることは常だ。こうなると専門家が非専門家を下に見ている意識がなかった人材でも、「知識の提供」の果てなき労力と限界に戸惑い、忌避する専門家が多い。さらに分野が異なれば専門家と非専門家が入れ替わることも多いのである。このため「この人さっきまで専門家だったのに」ということで、本当の専門家らしき行動をしようとすると、否定される場合もあるらしい。したがってまがいものの専門家を演じるしかない場合さえ出ている。
公衆の安全に影響を与えるような技術分野やアクシデントにおいては、どのように安全確保の努力をしているかについて技術者みずから「技術基準」を書き表し公衆に示していくことが、「説明責任」を果たす上で必要である。問題はそれを提示すること自体がすでに公衆の理解を超えている場合がこのところとても多いのである。 そもそも危険性は限りなく0でなければならないというのと0でなければならない(つまり危険性が0でなければ安心・安全の社会が前提にならない。または0志向であるから成り立つのが社会)という志向自体はどこまで行っても相容れないものだろう。
(続く)

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