« 例え方が大事 | トップページ | 認知症もあると思います »

人生に疲れた

――――――――――――引用
http://news.cocolog-nifty.com/cs/catalog/cocolog-news_article/catalog_world-200811142040_1.htm?s=app
「人生に疲れた」死にたい老人たち - 2008.11.15 11:02(山名 美穂)
スイスは「自殺幇助(ほうじょ)」に非常な寛容な国。自殺幇助を目的とする団体も複数存在する。これらの団体を利用して自殺した人々についての調査結果が、 swissinfoで発表された。それによると機関利用者の多くが85歳以上の女性で、ほとんどが末期がんなどの重病を抱えていた。しかし命に関わらない病気でも自殺幇助を望む老人が増えているという。歳をとり健康を害して「生きることに疲れた」人々が、自殺願望を募らせるようだ。
日本では自殺の援助は犯罪だ。もちろん幇助団体など存在しない。しかし国内の自殺者は年間3万人を超える。内、高齢者の自殺は全体の33% (2007年)。性別は女性が多く、病気を理由にする人が半数以上。自殺者の傾向はスイスと似ている。
どんな理由であれ、自ら命を絶つべきではない。だからといって病気を抱え、自分らしさを失った生活が幸せだとは言い難い。老年期はいわば人生の集大成。その時期に自殺を考えながら生きる人々がいる現実を、我われはどう受け止めるべきか。またやってくる自分の老いとどう向き合うのか。考えずにはいられない。
――――――――――――終了
ブログランキング・にほんブログ村へ
スイスでは、病気にかかった人などが自殺を希望すれば、それなりの条件査定などを必要とすることは前提であるが、幇助が他国より非常に簡単にできる。スイスで自殺幇助を行なう「ディグニタス(Dignitas)」と「エグジット(Exit)」の2つの団体に助けを求める人の実態調査を行い、病気が理由ではなく、人生に疲れたという人が自殺幇助を望むケースが多いことが判明したという。

この調査では女性は男性の約2倍にも上った。エグジットは当時から、そのサービスを病人に限らず生きることに疲れた高齢者にも提供しようとしていたという。自殺希望者の4分の3は、胃がん、腸がん、肺がん、乳がん、神経系統の病気、多発性硬化症など病んでいる人という。生きることに疲れた・健康を害した・のが重要な自殺の理由になっているようだ。緩和ケアの限界でもあるのだろう。ただし、自殺幇助団体によっては自殺のためにスイスに来る自殺旅行者が多いばあいもあるようだ。政府は自殺幇助の多発を抑える方向で、「自殺旅行者を受け入れる国といった悪いイメージがスイスに定着することを懸念し」新法設定の準備が進んでいる。
 もちろんこの場合自殺幇助は単純な手法でなく、相当の時間をとって希望者との長いやり取りの中で行われるシステムでもある。医療などで回復の見込みのない患者に対し、それ以上の延命措置を打ち切る尊厳死もそうであるが、日本の現行法では殺人罪に問われる。(海外でもそのほうが多数)例外的に、オランダ・スイスではガイドラインに厳密に従うことによってなされており、アメリカの一部の州では医師の診断によるきわめて限定的な幇助ができるだけのようである。
――――――――――――
形式論を語ると、自殺がそもそも法的に違法かという議論自体も確立されていないようである。

(1)自殺は違法な行為であるが、刑法の責任主義の観点から、責任が阻却されるのため処罰されない。自殺という違法な行為に関与した者をその共犯として捉え、処罰できるのであると説明する。
(2)自殺は違法ではない、違法性が阻却されるため処罰されない。本人には自己の生命を処理する自由があり、生命のあり方を決める事ができるのは本人だけだと考える。

そこでほう助という概念が出てくるが、自殺教唆罪(自殺の決意を抱かせる事によって人を自殺させた場合)と自殺幇助罪(自殺を決心している人に、自殺を容易にする援助を行う)という形がある。また、殺人には変わりがないが減刑対象にされるものに同意殺人(被害者が自己の死に対して真摯な同意を与えている場合の殺人)がある。さらに、近年拡大自殺という、直接自分自身で手を下すはずの自殺ではなく、他人又は国家などの力を借りて自己を自滅的に追い込む広意義的な自殺の一種も考えなければならなという見方もあるらしい。

ただし既存の倫理概念を尊重することから気軽に言うことでもなく、またそれを持って安易に発言することがはばかれることではあるが、注意しなければならないことも隠れている。
経済、政治的にその混乱と困窮がひどい地域では自殺はあまり見られない。生きること自体にまず最大の関心が向けられているからで、またその気になればすぐ自殺以外で死ぬ選択肢が多いからである。経済的に拡大途上にあり、様々なチャンスの多い国でも少ないという。また「情報が遮断され、進歩的でないことをよしとする文化や風習が普及ししている地域」でも少ないという意見もある。これは、「経済、政治的にその混乱と困窮がひどい地域」とかなり重なるという意見もあるようだが。
最近の傾向では若年者の自殺が多いのは、元は経済的に豊かだが失業や就職難が深刻になったなど他人の幸福があるのに、自分だけ手を伸ばせない状況がある状態である。バブル崩壊後の日本にもあったし、ハンガリーなど元東側諸国の国々など価値基準の崩壊した地域が例として挙げられる。絶対的幸福よりも相対的幸福を感じられない人々が自殺しやすい状況にあるという見方もある。生きてるだけましだと考える人はまだいいが、生きていても意味が見いだせないという判断は他人の指示によってどうこうという事項では本当はないとおもうのだが。

日本では自殺の援助は医師(もちろん職務的行為としての医師)がかかわっても犯罪と解される。遺族からの要望による消極的な自殺援助とて嘱託殺人ということになりかかったこともある。(消去的対応の場合はふつうはそうならないのだろうが、逆に遺族から積極的治療がされないという、本人の意思以外の所からそれとおなじ判断をされることがあるわけ)しかし国内の自殺者は上記のバブル崩壊後から増加し、今や年間3万人を超え、下手に海外の革命・内乱で発生する量に圧倒的に多いのである。内、高齢者の自殺は全体の33%というから1万人が高齢者の自殺ということらしい。したがって個人の意思により違法行為をして、かつ阻却される事項ということだから口を出せないともいえる。さらに最近は某入浴剤(製造中止になりましたなorz)とトイレ洗浄剤を用いた自殺が困った事例として話題になるが、この場合でも第三者への波及問題は極めて高く取り上げられるのは当然としても、当人の志向などを取り上げることはできず、むしろその薬剤の発売制限などでクリアするしか手法がない(それとて、疾病治療に問題がでるなどかなり問題である)。
非常にセンシティブな議論であるが、あくまで、自殺という行為が問題となるのは基本的倫理概念による後発的位置付けである(自殺がある条件下では推奨される社会は、かつての日本もそうであった)。もちろんそれを知った上で、どんな理由であれ、自ら命を絶つべきではない。という表現は既存倫理概念を踏襲することが社会的混乱をおこさない前提での議論だよということを前提で考えたほうがいいと思う。したがって、三菱銀行人質事件の犯人Uがいみじくも言い放った、「おれは、精神異常やない。ただ、善悪と道徳をわきまえとらんだけや」という発言と拡大自殺(他人又は国家などの力を借りて自己を自滅的に追い込む広意義的自殺)をこの事件の結果と考えると、実は非常に示唆を与える内容とも言えるのである。
--------------------------
たしかに、昔、朝の通勤時私の目の前で老女が入ってくる電車の前に身を投げたのを面前でみたこともあるし、「マグロ」で大騒ぎになっているのを、駅員と警察官が止まった電車の下から引っ張り出すとか、いうのは経験している。こちらはその姿を見るのが嫌悪感を感じるところから、直結する感情が支配するようであろうな。
反対に、即身仏となった仏教の僧侶.。実はこれも自殺といえなくもない。合法的な自殺という側面が特攻隊の中に本のすこしはいっているかもしれないし、9.11ではないがイスラムの人たちの中にもあるのかもしれない。積極的に生きる価値を見出しての採取的結論なら、非常に語るに難しい事象である。
自決。これは道義的に現代社会で許容される余地を見出せる存在なのかを問う必要があるかもしれない。本当は。

|

« 例え方が大事 | トップページ | 認知症もあると思います »

コメント

以前、私も自分のブログでこうした問題について書いたことがあるのですが本質的には近いことを書かれていて驚きました。いや、もちろん私の書いたものよりこちらの方がとても理路整然としていて知的な文章なのですが(汗

 自殺をどう捉えるのかという部分は死についてのその人の考え方そのもので、その人の考え方というのは社会的なパラダイムや情勢のようなものに大抵取り込まれてしまっている部分も大きいと思っています。

 現代社会的な法の観念や、民主、資本主義に則って考えるなら、人間の旧来の死生観とは真逆に自殺も受け入れるというか肯定して枠組みを作り上げていくべきではないかと思います。

 それができないのであれば、今現在支持されているパラダイムは根底から覆されるべきではないかとも思ったりします。

 しかし現実にはデータとして、年間3万人の自殺者が出ていることは、規模としてはあれほど非難されたイラク戦争の総犠牲者数を考えてもそれに匹敵する数です。

 では何故自殺が社会問題として非難され、それをきっかけに法制化が進まないのか。不思議です。ありとあらゆることが法律で制限されたり禁止されたりしているのに、自殺については放置されている。日本は先進国の中でも自殺率が高いとも言われています。

 自殺と言われると死に急ぐようなイメージが先行しますが、それだけではないと思います。自分で引き際を決めるということが許されないというのであれば、企業や事業も際限なく続けられるべきです。しかしそこには淘汰の論理が適用され、最も自然界に生きるものとして当然の死が待ち受けている人間が、この現代社会においてその選択を許されないということの意味がよく理解できません。

 恐れることなくスイスのように自殺を許容する社会制度を作ればいいのではないでしょうか。

 どんな理由であれ、自ら命を絶つべきではないという原理はどこから生まれているのか。何故そのような前提が成り立つのか。それが現代社会で受け入れられている常識だから、平和、人権思想が根底にあるからとしか思えません。

 それで、本当に平和な世界が実現できるのならかまいませんが現実は日本で年間3万人が自殺を選んでいる。どう向き合うかなどと悠長なことを言っている場合ではなく、消極的にでも受け入れるべき段階なのではないかと私は考えます。

 受け入れてから、それより酷くなる(自殺者が更に増える)のならまたその時に然るべく対策を考えればいいのではないか。何もしないで自殺だけがいけないと言われるのはとても不思議です。

 全く、この点に関しては受け皿もできていないどころか、議論としても受け入れられていないように思えます。尊厳死や安楽死という概念についてもそうです。それならば臓器移植や人工授精の方が、自然の概念からすれば非人間的なことだと思います。

 結局、自分たちの都合しか考えられない社会というのが蔓延してしまっている。そのことが何より悲しいですね。

http://fuckinsquid.jugem.jp/?eid=213

投稿: りっきぃ | 2008年12月16日 (火曜日) 20時09分

>恐れることなくスイスのように自殺を許容する社会制度を作ればいいのではないでしょうか
なるほど。
上記に示したように、各国から自殺・・といっても熟慮をした人間・・・がスイスに集まり出すため、逆にスイスは他国から非難を浴びており、国際秩序上撤回する可能性がでてるらしいのでこのような検討をした側面もあるようです。つまりスイスでこのような調査をした側面には
>受け入れてから、それより酷くなる(自殺者が更に増える)のならまたその時に然るべく対策を考えればいいのではないか。
という事象に由来するのかもしれません。

ひとついえるのは欧州は国が細かく設定され移動の自由もあることから、各国で適応しない心情の人は移住してもらって結構という、ある意味厳しい自己責任の存在が前提になっているといいます。大麻が一部の国で限定的にせよ許可されるなら、その国に行けばいいだけですよとか(これは別の側面もあるのです。限定的に阿片窟を許可制にしたした偽満州国はこの思考でした。)
>結局、自分たちの都合しか考えられない社会
本質はそこにありますが、前例・経験・継続性を重視する社会があくまで今の世界の前提である以上それを壊すことは自己矛盾になりうるんです。そうなると本当に理想的な変革は『革命』でしかなしえないという、またいつか来た道になるんですねえ・・・

投稿: デハボ1000 | 2008年12月16日 (火曜日) 23時51分

>前例・経験・継続性を重視する社会があくまで今の世界の前提である以上それを壊すことは自己矛盾になりうるんです。そうなると本当に理想的な変革は『革命』でしかなしえないという、またいつか来た道になるんですねえ・・・

 私もそれは実は同意見です。そうなって欲しくはないし、少なくとも今の日本人にはそこまで踏み切るほどの奮起はないと思っています。ただ、国民性が国民性なので、小泉首相があれほど人気が出たように、今後何らかのカリスマ的人物の煽動を受ければ、左翼や日教組など撥ね退けて国粋主義一辺倒に傾いてしまうのかもしれませんが。

 前例と継続性はわかるのですが、今の社会はそれほど「経験」というものを重視しているのでしょうか?それは少し疑問です。といっても範囲の広い話なのでいろいろな部分や側面があるのでしょうけれど。

 昔から思っていたことですが、例えば日本は欧米社会からずっと遅れているという批判が存在しました。政治政策や、金融システムなど枚挙に暇なく。しかし、欧米が先を走っているのなら、その経験に習って同じ失敗を繰り返さなくてもよさそうなものですが、同じように失敗している部分もあったりしますよね。逆に、今は中国がかつての日本のように高度成長していますが、その現状はかつての日本を見ているはずなのに、環境汚染や公害にまみれています。経験則が重視されているなら、それらは回避されてもよいのではないかと思うのですが。あくまで、素人の個人的な意見ですけど。

 革命だって、何もかつてのように血を流し合う必要はないと思います。というか、既に自殺問題で言えば、相当量の血は流れているわけですから。

 スイスを含めた欧州の現状が、そのまま日本に当てはまるというものでもないのでしょうが、スイスで行われている試みが、その経験則が日本の自殺論議に役立つ部分は大いにあるとは思います。

 しかし、秩序を乱すからと排除されるのでは、そういった法制を整備した意味は薄まるのではないかと思います。積極的な議論が活発化しない限り、民主制度化では世論すら形成されない。だからこその法制化という流れが必要なのか、とは思います。人の生き死には自然なことです。それを自然法から人間の尊厳を奪って資本が法を制するような現状では、少子高齢化になり人口が減少するのも不思議なことではないように見えます。

 何かが間違っていると思うのですが、根本的なものは見えても、そこに至るプロセスというか、問題を解決する細かな糸口が見えにくいようにも思えてなりません。自己矛盾を恐れて、現実世界が自然に崩壊していくのをただ眺めているのが得策とも思えないし。

 公平公正という原理に照らすなら、自殺は安易な理由で認められるべきではなくとも、熟考された末の結論として倫理的なコンセンサスを得られるようなものであれば認められてもおかしくはないと思います。内定切りや派遣切りが労働者の権利を侵害していると主張されることが認められるなら、よほどそうした自殺の方が認められるべき権利のようにも思えます。自殺という言葉をもう少し、言い分ける必要があるのかもしれませんね。自決、自死、まぁ、結局自殺は自殺でしかないとも思いますけど。

 僧侶が修行の果てに即身仏となるプロセスを出発点として、人間が死に至る、それを自らの意思において選択するという過程が、もう少しおおっぴらに語られてもいいのではないかと思うこの頃です。

投稿: りっきぃ | 2008年12月17日 (水曜日) 01時13分

>前例と継続性はわかるのですが、今の社会はそれほど「経験」というものを重視しているのでしょうか?それは少し疑問です。
歴史的に見るといしてないとは思いません。ただしこの経験というもの、時代がかわって環境が変わっているため事象が異なって現れるところが類推できないとか、わかっていて猛進する「確信犯」もあろうと思うのです。経験と言うものの場面が異なる気もします。
本当は、スイスのような考えについて、医療倫理学などで扱うべきとは思いますが、社会のコンセンサスに依存するのでなじまないとの見方がほとんどです。いつまでもタブーのままなのも限界と思うんですが。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月17日 (水曜日) 20時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/43123636

この記事へのトラックバック一覧です: 人生に疲れた:

« 例え方が大事 | トップページ | 認知症もあると思います »