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スキルが上げられない

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少し,気が重い一億総付加価値時代 2008/06/10 20:00 木崎 健太郎=日経ものづくり
 産業用ロボットの取材などに行きますと,単純な,繰り返し回数の多い作業はもう人間の出る幕ではないような気がしてきます。ロボットは故障はしてもミスはしないし,決まった時間内に決まった繰り返し回数の作業ができる。作業者はその分,ロボットの管理や計画,監視,生産方法の改善,あるいはごく少数しか生産しないものの加工組み立て,といった高度な業務に就くことになります。そういった流れは自然なことなのでしょうが,最近少し気が重くなってきています。
 つまり人間は,人間でなければできない仕事をしなければならない。ただ,本当に人間でなければできない仕事が高度になりすぎているような気がしています。ちょっとやそっとの加工作業,組立作業はロボットの方が優れている,という時代になってきています。
 そうなると,人間は高度な仕事をするまでのスキルを最初から身につけなければならない。言い方は良くないかもしれませんが,誰にでもできる仕事(製造現場で言えば多分,ロボットにでもできる仕事)をしているのではもう給料は十分にもらえなくなる。そうなると自分にしかできない付加価値を個人個人が求めなければならなくなります。いえ,自分なりの付加価値を追求することを否定するつもりはありません。しかし日本人一億人全員がそうならなければならないのでしょうか?
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 誰にでもできる仕事は,労働の中でも最も基本的なところだと思うのです。そこはもういいから付加価値の高いところだけをみなさんやらなきゃいけないなんて,簡単に言ってはいけない気がします。まずは誰にでもできる仕事を黙々とこなして,そのうちに工夫をしてスキルを上げていく,というものではないんでしょうか。
 ところが現代の日本では,基本的な労働に携わる人は,いつまでもそこから抜け出せないという構造になってしまっているようなのです。文芸春秋2008年6月号の「ルポ 世界同時貧困」にありましたが,日本のワーキングプア層はスキルも高くなく,職業訓練も受けられない。「10年働いたのに時給が10円しか上がらなかったといった仕事を続けるしかない」(同記事から)という人も増えているようです。
 日雇いを長年続けている人(といっても30歳代)の立場では「この生活から脱出する方法はもうないんだと気付くときがあります。そのときの絶望感は,多分,普通の人には分からないでしょうね。70歳まで生きたとして,この生活があと30年以上も続くのかと思うと,死んだ方がマシかなって思いますよ」(同記事から)。私の親は「まじめにこつこつとやっていれば,お天道様はだれのところにもめぐってくるもんだ」と言ってくれました。ところが私は自分の子どもに,同じことをはっきり言える自信がありません。
 そんなことを考えると,最近ちょっと気が重いのです。
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というわけで付加価値ということだと、誰でも作業出来るトレーニングラインと言うものが、一般組立作業にの会社ではおかれていることがおおいです。この基本を持っていないと作業を行って問題点を抽出できないし、安全か否かを判断できないしと言うことになります。それは管理側にも必要ですし、製造技能向上という意味でも必要です。
技術習得には勤務者に研修機関に生かせて学習させる(溶接とかプレスはその専門学校があります。自動車については専門の学校があると同時に、企業内学校を持つところもあります)のが多いですし、それでは不十分とか専門教育が出来ないという所が社内に研修用ラインを持っているようです。技能五輪の養成ということもその一つですね。このシステムは直接作業をする職員ということでは、単品設計の内ルーチン的内容のものに関しては同じ手法をとるようです。
ごくたまに、若い学卒者を試作工・実験工という部門に採用して、何年か基礎となる業務を経験させてから製造ラインに配置する事例も見たことがあります。知っている会社では、家庭の事情で大学の工学部を退学した人を組立作業者に雇うことになり、潜在能力があることを見出した人が、若いうちに現場の取り纏め工(班長)に極めて若く取り立てたのですが、その人の養成は実験工としての業務から実験解析と簡易報告書作成で育ったということでした。
この仕様は、
(1)まずは誰にでもできる仕事を黙々とこなす習慣を身につける。
(2)工夫をしてスキルを上げていく能力がある人を選び出す
(3)その人を育てて対価が高い人材になったらその人たちに対して対価を上げていく

というものです。
ところで、基本的な労働に携わる人は,いつまでもそこから抜け出せないという構造は今は確かに現象としてあるようです。今までは経験というものが作業の根幹を握っていたから経験時間が自動的にスキルの蓄積に繋がりましたが、そのメカニズムが複雑になってしまった以上、中級以上の職業訓練も受ける前に選別されるということになるんですね。
また、育成社員の選別基準が非常に厳しいものになってることもありますが、これはもう一つは、誰にでもできる仕事を黙々とこなすことのできる人材が不足しているため、そこを「クリア」出来る人材が必要としても、必然的にハードルを高くしないと人員配置が出来ないということもいえましょうね。
要するに労働者に要求されていることが「物作りにまじめに取り組む」ということをトコトン突き詰めることから、昇進・技能の進歩になっていたのですが、いまは「モノつくりをどう独創的にするかという仕組みをまじめに考える」ことこそが価値になっていると考えるべきだといえましょう。物つくりは機械に任せることが出来る可能性がある。しかしそれを問題なく任せるということが人間のするべき仕事と考え出していることに有るようです。

物を作るときこの工程では何分掛かるのかという評価をする作業工程計画をプロジェクト業務として担当したことがあって、この時生産技術の技術者とこのあたりの議論をしたことがあります。
有る製品を機械加工すると、どうしてもバリやかえりが出来ます。これを手作業で全品研磨作業をする時に、技術者は作業にかかる工数は機械がするものと計算して、それを人間がしたときに生じたものを損失と計算していました。理由を聞いたところ、彼はこのような手作業による所要時間は作業者は「手は動いているが頭は遊んでいる」という見方をするというのです。実際はこの時間を全部損失とは考えず、10%程度を特殊技術の投入(加工機で出来ないことであえて作業者を配置しているから) 10%を工程中の検査作業(この作業で製品異常を見つける作業も込みとする)としていました。この段階で作業の求める意味が、人間ベースから機械ベースになっていることが判ります。
勿論同じ労働を契約者によって異なる・・正社員と派遣社員との賃金差という概念はいままで書いた事情の中にすでにあるのです。要するに、作業者に
誰にでもできる仕事を黙々とこなす
人を派遣作業員に求めているだけだから、基本的な労働に携わる人は,いつまでもそこから抜け出せないということになり。同じ職場でも
誰にでもできる仕事を黙々とこなす習慣があり、かつ工夫をしてスキルを上げていく能力がある
ひとが正社員であるという「影の仕事」があるという使い分けをしている場合もある。とにかく同じ仕事をさせているのに賃金が違うという一物二値という視点があるのですが、この意味合いで隠密業務が正社員が担っていることもあるからという視点が出てくる。特に欧州では一物二値的な賃金体制が禁止になっているんですが、これは正社員の業務に対する位置付けが欧州ではそのような隠密的内容がなく、「使われるプロ」「使うプロ」というのが明確に固まっていることにもあります。むしろこのあたりの不明確化は日本(東アジア)特有ともいえます。
そういうわけで会社によっては、派遣社員でも、工夫をしてスキルを上げていく能力がある人を正社員に積極的に採用する(但しこの見出しには1年以上かかるため、紹介予定派遣には出来ない)ことにし、極端な場合新卒以外全てそのルートにしている会社さえあるようです。

注:紹介予定派遣:派遣先企業で従業員として雇用することを前提として、まず派遣労働者として使用した上、その間の派遣労働者の働きぶりから能力・適性を見極め、派遣先で雇い入れようと思う場合については、派遣元から職業紹介を受け、従業員として雇い入れる制度。派遣期間は最長6ヶ月。派遣先が雇い入れたいと申し入れた場合でも、派遣労働者が派遣先の労働条件や職場環境など、自分の意に沿わない場合には雇い入れを断ることができる。派遣会社が紹介予定派遣労働者としてスタッフを雇用する際には、その旨を明示が義務付けられる。派遣会社が紹介予定派遣を行なうには、派遣業の許可・届け出と有料職業紹介の許可・届け出の両方の条件をクリアしている必要がある。

私の親も「まじめにこつこつとやっていれば,お天道様はだれのところにもめぐってくるもんだ」と言っていましたが、何に対してまじめにこつこつするか・・・という前置条件自体が20年前と全然変わっているということに気が付く必要があるんでしょう。日本人一億人の中でも環境に対応できないとお互いに潰し合いが始まるんです。このような選別をする必要性は付加価値を高める作業と言うことから、その裾野に誰にでもできる仕事を黙々とこなすひとが沢山いることを前提で進んでいます。しかもこの価値創造は、海外からの利潤をかすめとらないと食べ物さえも供給できない日本にとっては「利にかなった」手法だというのですからね。
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…と簡単に書きましたが、そもそもこういう労働対価の値付けの変化というのは、環境や技術の難易以上に、思想の差異・文化の差異、金銭的環境の差異もあるんです。さらに一般的に世界では認められない一物二値の取引ですが、中国圏の取引業務を(日本起源である)価値工学的見地で分析すると、一物二値ならぬ一物三値がまかり通ります。(中国のことわざに3つの商社を比較して1つの値段と為すというのがあるそうです)
勿論、国際通商の場では建値の違いで一物二値がおこることはありますし、保証条件やロット、品質補償範囲という付帯条件での見かけ上の一物二値はありえますが、中国圏の取引業務を価値工学的見地で分析すると危険手当て的な無体物概念を倍率で掛けた一物三値があるようです。この考え方が、人材をコストで考える場合課題になり易いことを考えなければならんでしょうね。日本では労働集約性の高く伝承内容が低くしかなりえない産業が賃金の下落に走っているしか生き残れないのもその一つでしょう。
このように語っている私とて非常に矛盾しているなあと悩んでしまうんです。このようなボトムアップ的な視点が製造行為を駆逐する視点になるということは、創造というものの定義を酷く曖昧とする、クリエイターに存立を足元から揺るがすことにもなってるんですから。

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コメント

はじめまして
派遣労働者の切実な窮状を歌にして
叉葉賢(またはけん)と言う人が youtube に発表しています。

http://jp.youtube.com/watch?v=v0siyuT_0as

泣けてきます。

投稿: ロックマン | 2008年10月17日 (金曜日) 11時23分

自分の勤める会社を検索していてこのブログにたどり着きました。はじめまして。過去エントリへのコメントで恐縮です。

 私も現在、派遣社員として某工場に勤務しているのですが、賃金格差の問題というのは非常に疑問に思っています。

 私自身はまだ勤めて8ヶ月ですが、既に正社員登用の話を頂き、派遣会社との折り合いもあり1年の勤務期間を過ぎてから正社員昇格という話になりました。

 でも、今の工場では正社員になりたくてもなれない人というのは大勢います。採用されない理由は、ひとつは年齢的なものと、やはり仕事の能力というものが大きいようです。

 私は他の人と比べるとかなり早く正社員への道が開かれてしまったので、上司は他の派遣社員や準社員のことを配慮して、秘密裏に私を社員にしてしまおうと言うのですが、派遣の仕事と社員の仕事は「誰にでもできる仕事を黙々と」と仰られるように全く異なるものであり、遅かれ早かれ私の仕事形態が変化すれば誰もが気づくことです。

 正社員と派遣社員、そして準社員というのが全く異なる賃金形態で、言い方を悪くすれば能力のない、スキルの上がらない社員から見れば、それは非常に不公平な現象に見えるのだろうとは思います。

 一面として、付加価値を高める努力や実行力を欠かさずに勤務する社員がそれを認められて対価を与えられていくのは当たり前のことではあると思うのですが、とはいえ、「10年働いても10円しかあがらない」賃金体系というのも当たり前なのかと言われると、反論として「それはあなたが努力しなかったから」とは言え、切ないものを感じざるを得ないこともまた事実ですね。

 人件費はコストとして考えるなら非常に企業にとっては厄介な経費だと思います。私は個人的にはそれが各個人の認識差の問題と捕らえていて、企業から支払われる賃金と自分の仕事内容をどのように比較対比し、労働者的目線と経営者的目線で均衡させながら受け入れていくかということに尽きると思うのですが、そういう風に考えられる人は自然と能力やスキルも必要に応じて身に着けようと努力するのだと思います。

 だから問題は、各個人の意識そのものにまず依拠していて、その上で社会的な枠組みというものが成立しており、それらがその都度情勢に応じて変化していくべきなのだと信じます。とはいえ、その問題が一番難しいのかもしれませんが。

 自分の体験として、少なくとも今の工場では、ライン生産の効率化や適正バランスを視野に努力を続ける限り、係長や課長級の上司のみならず社長からの評価も頂けるということは理解できたので、不均衡とは思えません。

 ただ、今の工場で疑問なのは「教育」が疎かにされているのではないか、ということであり、正社員とて同様に、機会はそれなりに与えられてはいても、そこに積極的に参加し努力していくための教育というか、効率化や安全保持、またそのための法令順守、規格への理解などの様々な生産性を保つための物の見方や対応の仕方と言った教育がさほど実践されていないように思います。ですから同じように、賃金格差の問題においてひとつのネックとなっているのは、あまりに労働者の自由意志が尊重されすぎているのではないかという部分。真面目に働くのも遊んで暮らすのもあなたの自由だけれど、その分賃金は差がつきますと、そういう前提があって、それはいいのですがいわゆる「出来の悪い社員」というものをどういう風に扱っていくかという点では、その対象者に対しての教育も然ることながら、彼らを実際に管理する正社員への教育も不十分ではないかと思えてなりません。

 そのような意味では「いつまでも基本労働から抜け出せない」という構造的な部分を感じることも確かにありますね。

 もうひとつ感じるのは、これは仕方のないことなのかもしれませんが、管理職というものに魅力がない、というのもひとつの問題かなと若い立場では思ったりもします。現実、うちの工場に勤めている製造ラインの管理職は、ほとんど休みが無い状態のように思えます。毎日社長に小言を言われ、胃薬を飲みながら、日々起きるトラブルの度に工場内を走り回る、そういう毎日を否応なく強制されているように見える立場に、誰が進んでなりたいと思うでしょうか。

 結局、借金であったり、家庭を持っていて簡単に転職や退職を考えられない人だけが、地道にこつこつと働いて、いつしかエスカレーター式に管理職へと上げられていく。積極的にスキルを上げてきたわけではないから、そういう人は管理職になっても仕事は雑なまま。

 日本の多くの製造業でそういう感じなのかなと思えてなりません。

 こちらのブログの記事を読ませて頂き、沢山勉強になりました。また、このような考え方をしている人が日本にいるということを知り非常に嬉しく思いました。これからも興味深い記事を書き続けて下さることを期待しています。

 長文失礼しました。
 

投稿: りっきぃ | 2008年12月14日 (日曜日) 14時14分

こんにちは
>私自身はまだ勤めて8ヶ月ですが、(中略)今の工場では正社員になりたくてもなれない人というのは大勢います。採用されない理由は、ひとつは年齢的なものと、やはり仕事の能力というものが大きいようです。
確かに、わたしも管理職経験も少しあるのですが、準社員契約からも正社員への登用はいくつかの業界では頻繁に用いられますが、決して枠が広いものではないです。しかも企業側の意図で見た、「仕事の量をこなす人」から「仕事の質を維持する人」(かなり勝手な視点なのだが)への姿勢が問われます。ところが、この視点とて採用側の意図によっては、こまめにはたらいて「見所がある」という抽象的理由での採用だあったりします。時に、かえって不幸になりうる事例も見ます。
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>正社員とて同様に、機会はそれなりに与えられてはいても、そこに積極的に参加し努力していくための教育というか、効率化や安全保持、またそのための法令順守、規格への理解などの様々な生産性を保つための物の見方や対応の仕方と言った教育がさほど実践されていないように思います。
従来の会社勤務では、個人スキルが直接的に反映されやすい傾向がありました。ところが日々の繁忙に埋没されている人たちには、個人のスキルアップ(それは業務内の必須技術取得もあれば、それ以外の工場管理業務能力など)が見えなくなっており、そのような状態の人が業務が優秀で幹部登用となったときに、教育という側面を生かせなくなり実は業務はやっているがその根底の力(問題分析力・交渉力)がスポイルされていることは、実はよく見られることです。
技術コンサルタントという仕事を通じて指導をするときに、そのあたりの業務に対する目的意識が企業ごとに違うことは多いですが、まったくないという企業が増えてることを身をもって感じております。
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>いわゆる「出来の悪い社員」というものをどういう風に扱っていくかという点では、その対象者に対しての教育も然ることながら、彼らを実際に管理する正社員への教育も不十分ではないか
全部まるーくというある意味完璧な人間というのは実はないと思っています。いわゆる「人物」といわれる人でも欠けはやっぱりあるようです(量の大小はあるんでしょうが)ある場所で使えないと指摘された人に対し、「おお、彼にはこういう仕事のモチベーション・スキルにしたがっって指示をしたり、現場に出会わせたりしたらいい」ということを実施して、見事すごい人材になったのも実はいくつかあります。寄席芸人のなかではこういうのを「化ける」とおいいますが、化ける人材を見出すことは企業の利得になるんです。けどその余裕もないし、そのような視点で同僚・部下を見ないで、新人採用の見返りとしてざっくりと人を切るほうが、経営陣にとって見れば近視眼的に成果がみえることから、どうしても埋もれがちですし、評価が悪いというのも実は結構あるんです。人情の管理は経営指標の味方や近視眼的視点では見えないですからなおさら埋もれがちです。このあたりを如何に考えていくか。なかなか具体案がつくれないのがもどかしいです。
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いいご指摘いただき感謝いたします。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月14日 (日曜日) 19時05分

 お返事頂きありがとうございます。

 私個人は派遣だろうが、正社員だろうが、準社員だろうが、それぞれの職に役割があり、それぞれに機能しないと全体としての生産性や品質に影響が波及していくわけですから、基本的にその役割を果たすという点で責任も労働価値もそれなりに均等にあると思っています。

 黙々と同じ作業をこなすのも、体力や集中力を要求されて簡単にできることではありませんし、様々な管理業務に携わることも苦労の多いことだと思います。

 ただ、そこには大きな賃金格差があって、会社内でもヒエラルキーのように構築されてしまう。その構造的なものが、若輩の社員や未熟な社員にとって、スキルアップのためのモチベーションにつながるものであればいいのだと思いますが、現実にはそうではないようにも見えるし、もしくはそういう部分すら理解しない、自分のことしか考えていない、考えられない人というのが管理側の正社員にも労働力としての派遣、準社員側にも増えたのだなと思いました。

 でもそれはある意味当然のことであり、現代的な思想背景を考えるなら仕方のないことだとも言えるような気がします。

 完璧な人間というのはいないと思っていますし、いたとしてもそれらの人がいくら努力しようと現実には完璧な管理や維持、向上というのはあり得ないと思います。だからこそ日々あらゆる技術的構築や規則、倫理構築が大切なのだろうとは思っていて、その部分が自分の勤める会社、また業界でどのようになされているのだろうと思いネットで検索していたらこちらのサイトを目にしたというわけです。

 いろいろな事例からあらゆる側面を説明してくださり大変理解しやすかったです。

 もっと枠からはみ出した見方をすれば、今起きている派遣の首切り問題など、言わばこうした問題の延長にある出来事なのだろうとも思います。結局、派遣という職業が確立されて、その可能性と相対する可能性の無さ、基本的な仕事から抜け出せないもどかしさというのはわかるけれど、その代わりに派遣という立場が持っている自由さや可能性を、もう少し賃金的に保証された形で維持されていけないものかと考えます。

 悪い事例が起きると派遣という構造がいけないのだという議論が必ず起きますが、私はそれだけが悪いのだとは思えません。

 捨てる神あれば拾う神あり、ということではないのでしょうか。その相互補完のような体制、構造もできていないし、そこに働く人の意識レベルも低いと。そういう風に今は身をもって感じています。

 うちの工場では、新人は最も簡単な作業ラインから始めて、能力の進歩に応じて他の作業ライン工程に順次ローテーションしていくような形になっています。それで適材適所、というふうになっている場合もあれば、適する所なく辞めていく人もいます。基本的に長く勤めている人の間では、それが旧来のものであれ、ある程度の目的意識の共有のようなものが見えますが、新しく入ってくる人たちにはそれが見えにくく、別の形で情報だけが共有され、作業効率の向上や品質維持へと繋がりにくい部分もあったりします。もしくは逆に、使えないような社員で、古くからいる人が、新しい社員に間違った観念を植え付けてしまうような部分も見えます。

 結局は、企業として製品に対してどのような思いを持っているか、というのが理念という形ではある程度紙に書かれた状態で工場内に掲げられてはいても、それが全社員には伝わっていないし共有されてもいない、のはあるかなと思います。能力のある正社員はそれを自らどこかで取り入れようと能動的に動きますが、ほとんどの社員はそうではありません。

 でも、それが強制的に朝礼などで連呼される会社もまた、いいようには思えないのですが。目的意識の共有、共通のビジョンの構築、というのは本当に難しいのですね。

投稿: りっきぃ | 2008年12月14日 (日曜日) 22時18分

>目的意識の共有、共通のビジョンの構築、というのは本当に難しい
この話は実は相当根深いところがあり、これだけで論文が数報かけます。(笑)
企業に対し、社会的共同体構成員としての資質を多くとる日本や東南アジア・そしてコルホーズなどのシステムと、欧米的な利得の回収機能を重視している場合とは志向が異なるのですが、欧米的視点の労働概念(派遣業務にはその側面がある)を日本的システムに組み合わせようとし、それ以上に日本の企業の多くが外資による投資対象になるためにその指針に従うことを余儀なくされているところを論旨に求めることもできます。もちろんそれだけではまったくないんですが。
要するに派遣業務というシステムがどうこうということではないのですが、旧来企業や社会通念に対してマッチングやすりあわせが不十分なままここにきてしまったのではとは思っています。特に社会という側面はかなり既存価値維持の面から保守的になるのは致し方なく代替わり(つまり40年)が掛からないと無理という意見さえあります。そのあたりまで本当は報道が出せればいいのですが、自己規制をかけるのが現実で、それも世代間の意識差に求める議論が多いようです。
企業理念をどう普及させるかは、どこでも苦労しています。強制的に朝礼などで連呼するように共同体の責務を強く押す考え方もあれば、宗教にその根源を求める形、創業者理念の暗唱などに腐心している例。どこでもその仕組みに難渋しています。本当はそこ以上の事象を社員が「自らどこかで取り入れようと能動的に動」くべきなのですが、それ以前の段階でつかっかるようですね。なかなか大同小異で意思を企業体の概念にあわせにくいということになるのでしょうね。
数年この手の研究をし、また指導現場に立ってみますと忸怩たるところがやはりあります。
ご意見ありがとうございました。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月15日 (月曜日) 01時06分

今はその代替わりの時期なのでしょうか?私はもうすぐそういう時期に入るのではないかと思っているのですが。

投稿: りっきぃ | 2008年12月16日 (火曜日) 20時27分

>私はもうすぐそういう時期に入る
うーむ。私は意外と時間が掛かると思っています。そのぶん平均寿命は長くなっているし、参政権はなくなるまであるのですからね。
ITの発達で新聞がなくなると思われていたが、日本の新聞が相変わらずの隆盛をしていることにこのような事例をあげる人はいます。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月16日 (火曜日) 23時04分

 なるほど。確かにそう言えますね。うちの母親も読んでいるのかいないのか新聞を購読しています。しかし新聞には再販制度の問題もありますね。

 私は基本的に直感でまず結論ありきで考えてそこから現状に摺り合わせようとするので極端な考え方をしてしまいます。デハボさんのように冷静な分析をされている意見を見るととても参考になります。

 私が何故代替わりの時期がもうそろそろなのかという見方をするのかは、歴史がまた同じ道を辿ろうとしている危険性を少し状況的に高めているのではないか(世界規模での経済規模縮小)ということがひとつと、非現実的な可能性かもしれませんが大規模自然災害や新型インフルエンザのパンデミックのようなことが起きれば、否応無く現状の世界は変化に対応せざるを得ないだろうというある種オカルトな危機感にあります。

 パンデミックでなくとも、イスラム勢力のテロが今後、衰退する石油産出国の支援を受けてもっと大規模なものになれば、その可能性は非現実的とは笑えない気もします。

 このまま先進国だけが栄え続けるわけでも、途上国、新興国がその流れに乗って同じように栄えていくとも思えません。現状がこれほど乖離している以上は、まだまだそういう破滅のシナリオは何度も繰り返されるのが自然なのではないかなと思うのです。

 そうなって欲しいわけではありませんが。今の世の中は平和や幸福ということを必要以上に追求しすぎて逆に不公平や不平等を産出しているように見えるのです。そこまで追求しなくてもいいのではないか、という気持ちが、今の20代全般の考え方の根本のような気もします。どこか、あきらめているようにも見えます。

投稿: りっきぃ | 2008年12月17日 (水曜日) 00時40分

>今の世の中は平和や幸福ということを必要以上に追求しすぎて逆に不公平や不平等を産出しているように見えるのです。そこまで追求しなくてもいいのではないか、という気持ちが、今の20代全般の考え方の根本のような気もします。どこか、あきらめているようにも見えます。
ほー。『今の・・・に見えるのです。』のところは御意ですね。その後の項目は・・・うーん、そういう見方もあるという印象でした。彼らはあきらめか目をそらしているのか、現状把握に終始してその段階で疲れてしまい見る気力がない。信念のある目のそらしかたというのではなさそうですし・・・

投稿: デハボ1000 | 2008年12月17日 (水曜日) 01時16分

 バブルに踊った、踊らされた大人を沢山子供の頃から身内やテレビの世界で見せられて育って、そういうものをある意味軽蔑して幼少期を過ごしてきたものの、自分が実際大人になる頃には、そういう華やかな生活が用意されているわけでもなく、むしろ転落する可能性の方が大きく展開されている、その部分で失敗したくないという気持ちが貯蓄や節約に価値を見出しているのか、そもそもがバブルに踊った大人たちのダブルスタンダード的な教育のせいで、何も考えない、考えられない人間に育ってしまったのか。

 どうしていいのかわからない感はあると思います。そしてそこに親の援助があって、働かなくて良い環境が用意されているのなら、もうそれでいいや、ってなる。そういう人はまだいいけれど、そうもできない人は地道に働くしかないものの、個人主義が「なんで俺だけこんな目に」という感情を抱かせると。

 アンバランス過ぎると思います。いや、でもそもそもアンバランスなものだと思うのですが。情報が先行し過ぎて、そういう現実に向き合う力、耐えられる力が初めから削がれてしまっているのでしょうか。そういう風にも思えたりします。

 私は失敗ばかりしているのである種の不条理も不公平も許容できますが、周りの友達はほとんどそうではありません。皆、ささいなことに苛立ち、脱力感を持っています。それがまた視野を狭窄させ、やがては見ることすらやめてしまう。

 健全な状態とは思えません。なんでもいいから熱中してみて失敗してみたらと勧めても自分が恥をかいたり、そもそも何かに対して頑張ったりすること自体が馬鹿らしく思えてしまうようです。それで本人が満足していて、楽しいのならいいと思うのですが、そういう風にも見えません。

 今はもう既に、そういう状況が長く続いて、それに慣れてしまっているのかもしれません。変わる気も、変える気もない。家でゲームして、漫画読んでテレビ見て、寝る。それだけあれば十分なのでしょう。それだけで既に幸せなのかもしれません。

投稿: りっきぃ | 2008年12月17日 (水曜日) 06時44分

うーむ。
若い人に話をすると、気力が高い人でも失敗を恐れている以上に、成功しても引きつりおろされるというのもあるのかみしれませんね。
ある経営学の先生と話をしていたら、最近の学生には堅実に過ぎるぐらい過ぎる回帰の傾向があるが、少しの失敗を針小棒大にされてつぶされるという認識が強くあるだといいます。で大概その中で出てくるのは『ホリエモン』なんですって。
すべてこれに収斂させるのは無理っぽいですが、閉塞感が漂うなかでは身をちぢこませればいいという「消極的なところに積極的になる」ことかもしれません。もう少し私なりに調べてみます。

投稿: デハボ1000 | 2008年12月17日 (水曜日) 15時43分

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