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専門教育についていけない(2/3)

注:20日まで夏休みを頂きます。
(承前)

では専門教育を平準化してさせるということが、本当に対外的に有効なのか。
では、米ではどうかんがえるかというと、日本人にとってはちょっと容認しがたい考えに至ってるようだ。

ギフテッド (Gifted)
人口の約2%を占める高知能で高い潜在能力を持つ先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人材。世間的な成功を収めることではなく、学び方の素質や生まれつきの学習能力を持つこと。

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日本では「英才児を産む」「英才児になるように育てる」表現が多い。ギフテッド (gifted)は、贈り物を意味するギフト (gift) が語源である。神あるいは天から与えられた資質、つまり生まれつきの神経系素質である。精神的に特異であるという点では、ギフテッドも特別支援教育の範疇にある。
ギフテッド教育が進んでいる欧米諸国にも、現地でギフテッド教育を受けている日本人が多数いる。その中にはギフテッドを誇りに思っているが、「違う」「独特」「変わっている」などと表現されることを非常に嫌がる親もいる。一般平均と異なるレベルにあるのがギフテッドなのだから、多少異なっているのは当然である。ギフテッドを誇りに思っているが、「違う」「独特」「変わっている」などと表現されることを非常に嫌がる親もいる。学業成績は維持したまま一般大衆に同化せよというプレッシャーは、ギフテッドの子供にとって非常に辛い。
日本国内においてこの手の定義が浸透しないどころか、そのようなものを選別して生かすということ自体にかなり問題があるという主張がなされる。とはいえ以下の事例はある。(理工学に限るが)

特別科学学級
第二次世界大戦末期、日本を支える優秀な科学者や技術者の育成を目的として設けられた英才学級。特別科学学級または特別科学教育学級と呼ぶ。
1944年12月、文部省は、東京高師、広島高師、金沢高師)、東京女子高師に特別科学教育班を設置。全国各地の国民学校の4~6年生および旧制中学校の1~3年生の中から物理学・化学・生物学・数学に秀でた生徒を選抜し、上記各校の附属学校で1945年1月から授業を開始した。同年4月から、京都帝大にも特別科学教育班が設置された。(京都帝大に附属校は存在しなかったので、府立第一中と京都師範附属に設置された。)
戦後「差別的で民主主義に反する」との批判を受け、1947年3月を以て終了した。

スーパーサイエンスハイスクール
文部科学省が科学技術や理科・数学教育を重点的に行う高校を指定する制度。
「高等学校及び中高一貫教育校における理科・数学に重点を置いたカリキュラムの開発、大学や研究機関等との効果的な連携方策についての研究を推進し、将来有為な科学技術系人材の育成に資する」
* 学習指導要領によらない教育課程を編成・実施し、理科・数学に重点を置いたカリキュラムを開発。
* 大学や研究機関等と連携し、関係機関等との連携方策を研究。
* 論理的思考力、創造性や独創性等を高めるための指導方法等を研究。
* 科学クラブ活動を充実。
* トップクラスの研究者や技術者等との交流、先端技術との出会い。
但し次のような批判意見もある。
* 「理数エリート養成校」自体の存在
* 教育の階層化、差別化

前者は、大義名分として戦争の遂行という絶対的目標があったわけで、それ以外の問題意識を国民が持ち得なかったことがあるかもしれない(当時のGHQの政策では科学の分野に関する振興を極めて押さえていた事もあるためと言う意見もある)。反対に後者は教育の機会均等と言うこと以上に全体の予算の「傾斜配分」自体を問題にしている事例も目立つ。そのようなのは同じ平等と言うことに関しての観念が違うという解釈がある。
欧米の機会平等主義に対して日本が能力平等主義であること。が要因にあると言われている。
アメリカは貧富に関係なく必要とする者すべてに特別な教育サービスを与えるべきであることが、各自の機会均等であり、平等だと考えているようだ。
欧米では人間の成長・発達というものは一人ひとり違っているのが前提で、習熟度別指導が導入された。しかし、日本では“努力すれば,勤勉であれば,人間は皆同じペースで成長・発達すると考える。
すこし方向性がちがうが、日本の教育の言葉にこういうのがあった。
【芋の子教育】洗いおけの中でサトイモを洗うように、自分の子供を普通の学校に進ませ、泣かされたり、いじめられたり されるうちに、ひ弱な所を無くさせる教育方針。
これを、基本的に義務教育段階で特殊な選別教育を行わないと定義し、「選良教育は一般的社会の通念からかけ離れてしまし、社会的になじめない」というニュアンスで語られたことが何度もある。「芋の子教育」という言葉は別に上流階級というわけでないようだが。但し、高等学校への進学を全入クラスまで勧めるが大学への進学に障壁を生じたことに関しては、問題であるという解釈。集団でのキャッチアップが社会的貢献度が高いということがまだコンセンサスとしてあったかもしれない。
学力差の原因は「努力」の違いや、家族の態度、教育環境の良し悪しなど、要因が種々あるが、「生まれつきの能力差は存在しないか、たとえ存在しても努力や環境などの後天的なものにくらべれば問題にならない」という考えが日本人は強く、「能力平等観」と言うらしい。アメリカでは、生来の能力差の肯定傾向があることは、幾度も指摘された。更に「ギフテッドの存在」自体、日本社会で、遺伝子論争や優生思想・差別意識に絡むため、たとえ100人に2人程度しかいない人に対して配慮するのは全体最適化という進み方をする。日本にいるギフテッドの子供達の支援も考えることは人権的には当然必要なのだが、社会的にはその概念自体が容認されないということだと思う。
確かにまず米国はわかった。韓国・中国は勿論日本とかなり似た心理環境のところがあるが、逆に海外からの侵略の経緯もあるため、むしろ戦略的に経済の仮想敵国に当るためにギフテッド教育を行ってるようである。即ち対外的な政策が「特別科学学級」を作っているようだ。(勿論日本ととにた状況でもあり、韓国・中国とも「秀才を選別した教育」の傾向が強い。)
では欧州ではどうだろうか。じつはこれについての資料がない。完全な階級制度が構築されている地域では、そもそもギフテッドという資質は学問的にはあろうが、明確化したコンセンサスが国民にあるかというと疑問だろう。但し機会均等という概念があるとは思うのだが、ある意味別に科学的な才能が高くなくても、「生きるため」には仕事の選択肢は一杯あることから、特にこだわらないような気もする。もしかしたらキリスト教的志向と関係あるとも言える。このあたりは調べてみたいものである。
最近アメリカ教育省は、ギフテッド教育はギフテッドの子供自身だけでなく国家のためにも必要であるという見解を示した。教育方針書に「国際競争力をつけ、経済的に大きく成長するために、アメリカ国家は最高レベルの学生達に頼らなければならない。この多くの学生達は数学、科学、文筆、政治、舞踏、美術、ビジネス、歴史、心と体の健康、その他の分野においても、将来リーダーシップを取る人材となるからである。」とあるらしい。
こうなるとこのような比較もできる。かつての日本は政治的指針はトップダウン形をしていた。選良を私たちが選ぶとしても世襲・・・というより政治の経験を積んできたひと(古くは武士・貴族に由来する)に政治に寄託するとしていた。その代わり一般の学問・科学・経済はトップダウン的サポートはあっても、基本はボトムアップ(トップアップの逆として)の側面があり、下からの要求の集成と考えうると思う。
反対に欧州では、勿論革命という形があっても、基本的に政治はボトムアップで進まれた。そして、学問・科学・経済はボトムアップ的サポートはあっても、基本はトップダウンで判定されたといえないか。(二分論で議論すること自体が無茶ではあるが)ギブテッドのシステムはトップの判断・信奉する学問・戦略志向で配分されるものである。反対に、日本・韓国のように多数の凡人が技術を積み重ねてベクトルを合わせいいものを作るのは、創造できない上に結果的に工学的成果を出しているから「テクニック」として導入されたものは数々あれどもその根源を判ることはむずかしそうである。反対に米国からみたら、トップの優秀な技術をなぜ一般の人が導入しないんだという設計者とマネージメンターがクリエーターとして尊敬され(自動車・飛行機などシステマチック理論が出来ている分野以外は専門家が入るが)かつ設計者とマネージメンターが同じで図面などに落とし込んでからは完全に分担作業であるともいえる仕事が標準で、最適設計を現場から上げるなどということは越権行為である。
なお、ギフテッドも「賢い子で良かった」と手放しで喜ベない側面がある。選ばれたことや精神的葛藤や苦悩、心理面や行動面の問題がある。それでも、その多様性が社会に有効な利用ができる環境があるから、欧米では特殊支援をすることになる。東洋では、多様性が認められた段階で全体の生産性が阻害されると考えるから支援をすること自体が認めにくい。(・・・勿論、仙台四郎に対する扱いなど、生来技能が劣ると思われる人にも存在価値を見出すのもわが東洋ではある・・・)
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 『HEROES』というアメリカのテレビドラマは、突如特殊能力に目覚めた人々が地球の危機を救う、超能力アクションドラマである。日本における集団で現れ苦悩しながら悪人を倒す『戦隊もの』とはトップダウン的志向とボトムアップ的志向の差がある。
 まあ、皆が考える難題を、フラッと現れては鮮やかに解き明かす「天才」は、格好良いが、それは虚像で、知能指数の高さと、良い将来を迎えられる事はイコールでは無い。日本人は「努力」を尊ぶ人種だが、その目標は「人並み」で止まっていないだろうか。確かに劣っている状態(マイナス)から平均の状態(±0の)までの努力は凄まじいモノがあるが、更に特化して学んでいくという過程に到りにくいし、人並みのレベルをすべて確保して、その上で底上げを図る人材でないと、共同作業以前に他人がついていかない。じつはギフテッドにはOD(多動性障害)、過剰な感情変化などの非社会的な側面があるらしく、その思考過程や強い探究心から、いわゆる平均的な子供からすると突飛ともいえる行動を取ることがある。これは日本ではすでに社会的価値が無いに等しと言う判断にされている。しかもそれを基にしたものが成功体験でもあるが、これは経験則であることが判りにくいこともいえよう。
 飛び級を認める日本の大学は6校ある。戦前では教育システムの移入で外国のシステム由来で機構としては多くあった飛び級は、戦後国民全体の意思としてやはり反発があったらしい。今の制度を利用した人数もまだ僅かだが、では戦前はどうかというと試験で1年ずれることはあっても、学生には「勉強だけの融通の利かない人物になる」と余りほめた評価ではなかったとも聞くし、意外と該当者が少ない。要するに
機会平等主義と能力平等主義は、中庸を政策的にとる以外に両立できない。

といえると思う。
(続く)

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コメント

> じつはギフテッドにはOD(多動性障害)、過剰な感情変化などの非社会的な側面(中略)日本ではすでに社会的価値が無いに等しと言う判断
そうだったのか!自分の人生やっと腑に落ちました(嘘)

投稿: TX650 | 2008年8月17日 (日曜日) 00時39分

>日本ではすでに社会的価値が無いに等しと言う判断
ではアメリカでそのような教育を受ける機会がすぐ与えられるか、というとこれまたそうはいかないのだと思います。

投稿: デハボ1000 | 2008年8月17日 (日曜日) 11時45分

こんにちは。「特別科学学級」とは初耳でした。SSHはすでに100校以上が指定さえているので、「理数エリート養成校」とはいえない状態です。

左の「即戦力」の本と読みました。現場経験が豊富でないと書けない内容で参考になりました。

投稿: KADOTA | 2008年8月17日 (日曜日) 20時34分

>SSHはすでに100校以上が指定さえているので、「理数エリート養成校」とはいえない状態です。
エリートという定義がどの位置付けということにはなるでしょうね。指定校が増えたからこそ「特別科学学級」とおなじとか言う不毛な議論が影を潜めたという側面もあると思います。
「特別科学学級」は母親の知人が師範学校勤務時代に関わっており、私自体は朧がながら聞いていました。
>現場経験が豊富でないと書けない
実践主義の現場で困ってから勉強するタイプの人にはかなりいいと思います。

投稿: デハボ1000 | 2008年8月17日 (日曜日) 22時56分

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