« 人の数だけ『真実』がある(2/2) | トップページ | タイムスケジュールの創出方法(1/2) »

中野翠のエッセイ

この前、こういう記載を見つけた。

先日読んだ中野翠のエッセイに書いてあったこと。
「(他人の言葉の些細な間違いが)気になってしまうのは、たぶん、私が中途半端な国語力の持ち主だからだと思う。もっとすごく国語力のある人間だったら、『ほほう、そんな風に間違えるものか、しもじもの者は』と泰然と構えていられるのだろう。私のような半端な国語力の人間が一番騒ぐのよね。言葉とがめに走るのよね。決して人ごとと思えないものだから。」

まあ中野翠さんはハイクラスの記述力があるからこそ俯瞰して言えるだろうなと思う。なかなか、そういう域に当方が達することが出来ないのは、当然歯がゆいのである。
ただこの記載を自分のHPに書いた人は、私の目から見たらかなり細やかな目をした人のようで、ちょっとあたしにはないものをお持ちのようだが、それでもこのようなことが目に留まり、HPに記載するほど考えるのらしい。
-------------------------
ブログランキング・にほんブログ村へ
人の技術を見てまず否定から入るようではまずい。良く技術指導をする相手に対し、完全否定するところからはじめるアドバイザーがいる。そこで、指導側も、指導されるがらも、根源を知らずに指導する結果相手に合わない指導・・という愚痴はよく聞くところです。どっちもどっちというところですが、本当にこのすれ違いを良く感じる。経営コンサルでも弁舌巧みなのは多いですがいざ内容はというと、・・・と言う人もいまして、自分がそのような方向にならぬように自制するべき。

一流といえる「技術者」だからこそ、いい技術者を育てられないということは結構目にする。ゴルフのトーナメントプロがレッスンプロとして通用しないのが普通だし、野球でもそういう傾向があるとか。時代の違いがあろうが、定年ぐらいの酸いも甘いも経験した老技術者のほうが、技術の取り組みを指摘するには好都合みたい。
多分技術でもそう。ハイレベルの技術者に師事したとて、指示通りに従えば成功するという道筋を指導された結果、自分で考えない技術者になってしまう事例があります。私はその点いろんな技術者の下にいたからその差異だけはわかる。
------------------------
非常に示唆的なのは、別にこれは国語の表現だけでもないと思うからである。こう書き換えてみよう。
「他人の技術の些細な間違いが気になってしまうのは、たぶん、私が中途半端な技術力の持ち主だからだと思う。もっとすごく技術力のある人間だったら、『ほほう、そんな風に間違えるものか、しもじもの者は』と泰然と構えていられるのだろう。私のような半端な技術力の人間が一番騒ぐ。技術のとがめに走るのよね。決して人ごとと思えないものだから。」
となれば、確かに分からなくもない。
教師の経験は余りないのだが、会社内・業界内で技術指導などを生業としてると、この人ならこの話をしても大丈夫という査定をしていかないと、相手に教示した技術レベルに既に付いていけないことになりうる。それにあわせなければならないから、TELやメールだけをみて対応してると痛い目にあう。
例えば(会社の品質保証能力などや資産的価値を購買条件にする場合は別だが、)一般に会社を訪問してその規模や設備の良し悪しを議論すると余り意味がないことが多い。(仕事が継続して製品を買う・売ると言う形でないからであろうが)古い機械をちゃんと使い、直すところはちゃんと保守しているほう・・これは職員のスキルだったりの問題まで見出す・・・がまともである。時々汚れていているからペンキを塗って・・・ということを指摘する人は多く、企業の価値判断としてそれを見る経営系統のコンサルが多いからそうなるのだろうが、実はそれは表を取り繕うための本質的視点でないことが多い。これは、例えば企業が融資を受ける場合、資産査定が条件という事もあり、このようなノウハウは(特許権とかの具体的流通資産化をしなければ)評価対象にならない。そのようなスキル評価をすることが非常に危険という考え方があるからだと思う。以前、綺麗でなければならないからと言って、加工機のベッドという性能が落ちるようなところにペンキを塗ってるのを見たことがある。たとえばこのように、形は整っているような技術に関する挙動でも、本質の微妙なずれが見えることはある。そこを苦しまずに、雛形で判断する「全体が良く見える」人もいるようだ。
職員の流動性がそもそも多い事業形態が普通と言う内容もある。(日本では食品工業でも下流工程を専門に扱ってると、その傾向がある。海外企業ではもっとその傾向があるようだ。)そうなると、設備の状況で作りこみをする、人材の技能に依存してはならないというビジネスモデルなのだから、そういう事業向けの指導をしなければない。そこを技術オンリーで進めても話が合わない。どっちにせよ行って相手の立場、相手の意向、相手の現実、相手の周囲を見なければダメである。
------------------------
さて、近年、大学の先生がVBと言う形で外部に打って出る人が多いが、このように技術でのイニシアティブが取れる人材でも、外部の意見を聞くことが出来ないという人はむしろ多いという。更にそうでなければ、企業人として成り立たないということを声高に言う人もおおい。但し、いつまでも起業したときのメンバーが一緒に仕事をしてくれるのだろうか。むしろそうでない(べつにけんか別れということでなく、会社を立ち上げることを生きがいにするタイプの人もある)。どうも、この傾向は海外のVBのほうが強いという話も聞いた。
大学の先生は概して緻密な論理構成を武器に、外部とディベートしたり、意図を明確にして確実に動かせるようにし向ける(勿論論文などで言う場合でもそれなりのテクニックがある)ことが、職務の中で習熟したしきたりであるようだ。そういうタイプを堅持することを技術者のステータスとして考えてしまうと、認証業務とか現実社会の中での転用を考える業務に対する価値観が変に見えてしまうらしい。正直言うと認証基準を作る人には技術あっての現実であるという認識しか持てない人もいるので、かくて技術基準が現実面で実効性がないものになってしまうことが多い。
となると、実は、その物事の考え方という瞬時瞬時に(相反も多少ありながら)判断する能力がむしろ評価されるのだろうが、これは技術力と言うものとは違う。(判断能力を技術業務が育ててきたと言う人は沢山有るし、その経験が大事)だから、「もっとすごく技術力のある人間だったら、『ほほう、そんな風に間違えるものか、しもじもの者は』と」大所高所視点で出来ることは価値があるが、それを聞いて実務的展開が出来なければならない。大概の非常にレベルの高い技術者は、大所高所から見て、問題点が見えるところで、私の考えてることは凡人にはわからないと考えるから、具体的に「これをああすればいい」という小手先だけを指導してしまうのである。事実を教えても指導相手は応用動作が出来ないという後々の問題に気が付かない。当たり前である。当人が困ったことがないからね。
従って私は「中途半端な技術力の持ち主だから他人の技術の些細な間違いが気になってしまう。もっとすごく技術力のある人間だったら、『ほほう、そんな風に間違えるものか、しもじもの者は』と泰然と構えていられるのだろう。決して人ごとと思えないものだから、私のような半端な技術力の人間が一番騒ぐ。技術のとがめに走る。」ぐらいの技術力だからこそ、教授・指導ができるという逆説的議論が成り立つのかと思う。

|

« 人の数だけ『真実』がある(2/2) | トップページ | タイムスケジュールの創出方法(1/2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/100146/41268208

この記事へのトラックバック一覧です: 中野翠のエッセイ:

« 人の数だけ『真実』がある(2/2) | トップページ | タイムスケジュールの創出方法(1/2) »