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どこかに寄託しなければ

<羽越線転覆事故>局所的な突風が原因…事故調の報告書推定 2008年4月2日(水)12時7分配信 毎日新聞
 山形県庄内町のJR羽越線で05年12月、特急「いなほ14号」が脱線転覆し、5人が死亡、33人が重軽傷を負った事故で、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会は2日、局所的な突風が事故原因と推定する調査報告書を公表した。現場近くの小屋が倒壊した状況などから、突風は瞬間風速40メートル程度と分析した。竜巻か、強い下降気流が地面に衝突して吹き上がるダウンバーストで、事故予見は難しかったと結論付けた。(中略)
 ◇夫亡くした心の傷、変わらない
 事故で会社員の夫学さん(当時42歳)を亡くした秋田県にかほ市の畠山友子さん(45)は「私たちの心の傷に変わりはない。一つの区切りにはなるが、夫が戻るわけではない」と話した。事故後、幼い子供3人を1人で育てている。事故調の見解には「運転士にとっさの判断で列車を止めてほしかった」と改めて悔しさをのぞかせた。
 業務上過失致死傷容疑で捜査している山形県警は「事故調と県警の捜査は切り離して考えている」と捜査への影響を建前では否定。だが、ある幹部は「自然災害と思っていたが、報告書によって改めて立件の難しさを突き付けられた感じだ」と声を落とした。【釣田祐喜、林奈緒美】
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たしかに不幸な結果である。けど人為的要因を全て潰したとて state of arts の上では、どうも厳しいなという感じがする。一般に、最近の損害賠償請求に対して、なんとなく割り切れない思想を持つ人はいるだろう。
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http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php
被害者の呪い
毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。
こんな話。
 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。
 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。
 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。
 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「厭な感じ」が議論の内容ではなく、論を差し出す仕方のうちに感知されているからである。語られている政治的言説の当否は私にとっては副次的なことにすぎない。
 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
 そんなの当たり前じゃないか、と言われるかも知れない。権利を主張するということは「被害者」の立場を先取することなのだから、と。
 まことに、その通りである。「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」というのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの「正しさ」にうんざりし始めているのである。
 近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よりする「本来私に帰属するはずの権利の奪還」として営まれてきた。 私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。
  争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。
 私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。
------------------中断
私はそれ以前に常識ということ自体を疑っているから、仕方がないのだが、この発言自体もないものねだりの要因が少し見え隠れする。ただそれ以上にガツンと感じたのはこちら。
------------------再開
「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

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うーん。たしかに個々の問題は見られるのだが、全部は否定できない論理だな。全部の人々がこのような理知的世界にいるかというと疑問だし、それを前提にした議論は書生論だともいえるが。
自らを被害者と規定し、加害者に対して賠償を求める賠償モデル(一種のビジネスモデル)が機能するためには、以下の条件が満たされる必要があるという。(内田樹氏の記載を基にした)
●加害者を特定できること
●加害者が加害者であることを認めさせること
●加害者に賠償能力があること
乱暴にいうとこれが成り立つのは、力のある加害者と、それ以上に力がある調停者の存在が欠かせない。加害者は金持ちであれば金持ちであるほどよいし、調停者の権力は強ければ強いほどよい。誤解をおそれず、ざっくり言ってしまうと、弱者が最強者を使って強者からむしり取るというのがこのモデル。
「だから泣き寝入りしろ」とか「だから諦めろ」ということにはつなげてはならないが、近年のように賠償額が膨大で、調停者が弱くなってきた(市場に任せる。小さい政府を語る)場合ではほころぶ。加害者が持っている資産・債権(保険など)以上のものを得ることはできない。被害者の勝利は、加害者がどれだけ持っていて、どれだけ簡単に加害を認めるかで決まう。唯一あるとするとお金を持っている加害者を見出す、創る、持ち上げるということもいえようか。結局のところ最後は他力本願なのだ。そこで、もう少し考えると、こういう仮説が出来る。
●加害者を特定できなくても、「未必的故意」を設定することで政府なり「被害者」がいた場所の管理者なりを加害者と認定することは不可能ではない。
●加害者が加害者であることを認めさせることは難しい。加害者がすんなり「罪」を認めるケースというのは、被害も大したことない場合が多いか、被害の大きさを認識できない事例、ないしは倫理的な圧力で事態を認識しにくい場合と考えたほうがよさそうだ。被害が深刻であるほど、加害者が逃亡したり開き直ったりという問題も事実あるから、加害者よりずっと強大な「調停者」を必要とする場合が多い。加害者をねじ伏せる力となると、取り付くところ政府に依存することが多いだろう。逆に加害者が政府の場合、ここで止まる事も多い。
●加害者に賠償能力があればともかく、普通は少ないし、逆に資産から賠償額を決めることとてある。いわゆる害をなすのは益をなすよりずっと簡単だ。何千万円もする家屋もマッチ一本で灰に。何百万円もする車はハンドルをちょっと切り損ね壊す。高価なパソコンを壊すには水をかければ充分。そして人を故なくあやめるのだって、薬を散布したり、鉄砲を乱射したり、刃物を振り回したりとあったわけだが、意志の問題を超えれば出来なくないし意思自体を確実に持つのが実は決してない話でないのには、近年の動向でよく分かる。
●加害者を特定し、加害者に加害を認めさせても、最後に加害者の財産が足りるのかという問題が立ちふさがるえわけで、そこでいつの間にか政府の管理監督責任という議論になることも多い。
この論理を被害者の感情を逆なですることを前提でいうと、「自然災害と思っていたが、報告書によって改めて立件の難しさを突き付けられた感じだ」というのは、責任を問えるのが大地だったり・自然だったり寄与するのが多いのでは、被害者救済という事もできないのだから、「大きな政府」きぼーんということになる。
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勿論、この論理に「よくある病気」である「統合失調症」の病理にあわせるのにはかなり危険性がある推論である。但し「定型性」にある思考の硬直化というのは、経験上脳機能が動かなくなっているときに起きることが私にもあったから、意外と生じ易い事象なのかもしれない。

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