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人の数だけ『真実』がある(2/2)

(承前)
The pen is mightier than the sword
ペンは剣より強し(『英語ことわざ集』 岩波ジュニア新書)
これは、「ペン=文筆・言論は、剣=武器・武力よりも勝っている」という意味で、19世紀イギリスの作家リットンによる戯曲「リシュリュー」の中の科白が出典と言われています。実は、この言葉の前には「Beneath the rule of the men entirely great(偉大な者の元では)」という前置があります
え、そうなんだ。
「偉大な者の元では」の偉大な者というのは、多分に治世者のことを言っているのであるが、情報の発信元がこのように多様化している現在、偉大な者というのは今のIT環境下でその環境がでは、有る程度スキルを持ったりしてる全員となるかもしれない。問題は、この環境の有無があるということがなかなかお互いに認められない環境では判りにくいかもしれないですね。これらの社会のトップと言う人が情報をまとめて伝播していた時代ならこの人たちはほぼ「偉大な者」と同じ意義であろうが、いまはそこを読み替えるべきではないか。となると情報発信が可能な人材全部がこの条件に該当するようだ。
さて、私は知らなかったのはこれです。

http://www.keio.ac.jp/staind/238.htm
【番外】 ●ペンは剣より強し●
 慶應義塾の校章であるペンの記章は、そもそも塾生が考案し、勝手に使っていたもの。当時の教科書に載っていた「ペンには剣に勝る力あり」という成句をヒントにしたらしい。(多分上述)やがて塾当局に公認され、それを表した三田の図書館の大ステンドグラスは義塾の象徴となった。ラテン語では、“Calamvs Gladio Fortior”というこの言葉を、福澤先生のものと誤解している人も多いかもしれないが、真実は以上の通り。

ふーん、前提条件があるとないとではかなり文面が異なるとも思います。
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となるとだ、こういう「情報を受け取る人=発信する人」という図式に限りなく近くなってる今、どの人も剣をもってることになりうるわけ。これを注意しなければ、報道関係の業務は丸く当たり障りのないような表現で、リスク回避と言うことを考えなければならないことになる。

じつは、報道関係の業務をしてるフリーアナウンサーさんも、業務を80年代に始めた人と90年後半に始めた人には差があるようです。(局アナさんの場合は、これを使いきれない人はバラエティーシフトをしたり、社員として他の業務に移行したりしますから、割と表立っって出てこないみたいです)勿論報道という所が私たちの目の一部になっている(・・というかそうでなければ身体も持たないし、なるべく多くの視点を持たなければならない以上、使い方を考えて上手に使うことにしか、実務上ムリが有る)こと、そして、読む側に絶対視をしてもらわないような指標を与えていくことがないでしょうね。その意味では
ペンは剣より強し」⇒「剣を使うのが私の使命」⇒「剣を作り出す報道関係業務に」
という使命感・・旧来の公論をメディアが先導していく・・・というのはもうIT化の結果なり立たなくなり、
「ペンは剣より強し」⇒「剣を使う人に情報を提示し、その副次的内容を逐次提供していくのが私の使命」⇒「剣を作り出す源である報道関係業務に」
ということになっているのでしょう。そこがメディアリテラシーと言うものを、急速に習得しなければならなくなった私たちの問題であります。
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ところで、ワイドショーに出たり、声優をしたりしているフリーアナウンサー(元民放の局アナ)さんの記載です。
---引用
http://www.mikimouse.info/interview-0.htm
インタビュー  2005.6.5 原元美紀
私にとって、ニュースを伝えるということは?「事実ではなく、『事実とされていること』を伝えている
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24時間ニュース専門チャンネルで来る日も来る日もニュースを読み続けて痛感したことは、「事実は変わる」ということでした。「事実だと思っていたこと」が否定されることがあるのです。例えば通り魔事件が起きたと大騒ぎになります。被害者に同情が集まります。しかし、すぐ後にこれが狂言だったと暴かれることがあります。しかも、しょっちゅうあります。
もしキャスターが一報を安易に「可哀想に!」という気持ちで同情を込めてニュースを読んでいたらどうだったでしょうか?事件でも、事故でも、調べが進むに連れ、『真実』が明るみ出てくると、被害者だと思われていた方が加害者だったり、またはその逆だったり・・・。
キャスターが安易な判断でどちらか一方が悪いと裁いて伝えては『真実』を歪めてしまうのではないでしょうか?
NHKの松平アナウンサーは講義でこう語られました。「キャスターの安っぽい感情で世間をミスリードしてはならないよ」
だから私はニュースを伝えるとき、感情ではなく、感慨を込めて読むように務めています。「こんな大変な事が起きてしまいました。今現在『事実とされている』ところによりますと・・・」と。
-*-
さて、報道とは「事実」に基づき『真実』を伝えるものであるとされています。「事実」の積み重ねによって『真実』を浮かび上がらせていくものだと。ここに異論は無いでしょう。そこで問われるのは<事実の伝え方>です。事実ならば何を言っても良いのか?また、不完全な事実でも良いのか?悪意を持った<事実の伝え方>は、『真実』を遠ざけてしまうということを知らなければなりません。
裁判のドラマなどで、「『裁判官の目に映る真実』と『本当の真実』は違う』」なんてセリフが聞かれますが、「証拠のある事実」と「証拠の無い事実」を見極める目を持って取材し、「事実」を並べる。その並べ方に意図を含ませず、どれだけフラットな視座に立った上での並べ方をしていけるかどうかに報道の公平・公正さが求められているのではないでしょうか?
-*-
しかし、実際は人の数だけ『真実』があるとされるのが難しいところです。私が思う『真実』と他者が思う『真実』にはズレが生じて当然です。育った環境が違うし、感じ方、価値観が違うのですから、「何を『真実』と思うか」は人それぞれです。でも本当は『真実』はあくまで一つであり、それを探る道(方法)が人の数だけあるのでしょう。それを人それぞれの「正しさ」であると肯定しうる視座が公正さを生むのかも知れません。被害者側が加害者側の立場の「正しさ」に立つのは困難だからこそのマスコミの視座であり、でもその冷静な見解は往々にして加害者に権利を与え、被害者の感情に障るよう映るかも知れない・・・。
ならばジャーナリストに求められるのは多くの良質な「事実」を提供し、その先にある筈の『揺るぎの無い真実』をできるだけ多くの人に感じ取ってもらうことではないでしょうか。「大衆が望む真実の姿」に迎合することではなく、一人一人が目を逸らさず自分で探していけるように。
---終了
私自身は、本当は『事実』はあくまで一つであると言う事自体も疑っています。それを探る道(方法)が人の数だけあるといくことから、現象を自分のなかで取り込むことが各位の既存ノウハウで行う以上、現象把握によって、現象と事実の間さえワンクッションある。そこから来るものだから、現象⇒事実⇒真実と3ステップあるのと考えるのですが、各々ステップ毎に各人が持っている感性が絡んでくるわけですよね。そこは聊か違うのですが、報道の現場にいる人が問題意識をもって対応して行こうとするのは、有る意味理想とするところではないでしょうか。

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コメント

こんばんは。
高校生のときに(おー!遠い昔の出来事です)E.H.カーの「歴史とは何か」を読んで、歴史的事実というのは後世の歴史家が彼の歴史観を持って拾いあげた"彼のものがたり”である(これ自身もE.H.カーの言説そのものではなくて私の理解です)を読んで、それまでとものの見方考えまたが一変したのを覚えています。

投稿: SUBAL | 2008年6月30日 (月曜日) 02時16分

>後世の歴史家が彼の歴史観を持って拾いあげた
よく教科書の表現や歴史認識が問題になりますが、こういう判断をしますと、もう恒久的に差異がないという歴史も、不確定要因を内包しているという判断が必要ですね。(子供に教えるかどうかの議論は別として)

投稿: デハボ1000 | 2008年6月30日 (月曜日) 11時24分

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