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Artficial

このまえアーサー・D・リトル(Arthur D. Little)社のコンサルタントさんの話をしたが、その川口盛之助さんがこのようなことを言っているのです。
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かつて近代オリンピック競技には「芸術競技」があった。絵画や彫刻、文学、建築、音楽があり、スポーツを題材とした芸術作品を制作し、採点により順位を競っていました。(1912年~1948年)(中略)ところが最近になってフィギアスケートやシンクロナイズドスイミングなど、技術点と芸術点の両方を持つ競技が人気を集めています。(中略)わが国がひたすら技術を追い求めた高度成長期を経て、成熟した社会を迎えたからこそ、単なる量的な勝ち負けの判定で無い芸術的な面が求められるようになったからではないか。そう捉えることができるような気がします。
かたや技術開発においても、同様に技術点と芸術点の両方があったはずです。アートと語源を同じくする、「Artificial 」(人工)と言う意味は元々「技術」という訳語が当てはめられていたと言われていますし、近代では技術と芸術の区別がさほど無かったという 事実が証明していると思います。(後略)
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●Artificial 人工[変造]の; 不自然な, わざとらしい (an ~ smile 作り笑い).
・artificial environment 【コンピュータ】人工環境.
・artificial in・sem・i・na・tion 人工授精.
・artificial intelligence 【コンピュータ】人工知能 ((略 AI)).(注:たとえば日本でも人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)というのもあります。)
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そういえば、旅客機・自動車のように世界あちこちで作られ、使われてるものはそうでもないようですが、私の知ってるアメリカの一般機械は、おおむね設計者が変わると前の基本設計が継承されるわけとは限らず、意匠からなにから全く違う設計思想で造られてたりするんですね。部品も一寸だけ違ってたりするんですよね・・共通化できそうなのに・・・。下手すると前の型式と継承した次の型式が同じ製品群であっても、設計諸元こそ一緒とてその中身は設計者の意図が独自に生かされてるからか、日本的視点から見ると「これ違うぜ」と思うことって、意外と多かったです。
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考えると一般機械は、各々の設計者の創意工夫が投影されたものを、設計者が各々の感性・経験・実績に基いて造るのがアメリカの考えなんでしょうね。日本の設計者は、企業論理に依存することになるから、設計者でも以前の設計を踏襲したり、また以前の設計者が会社の中にいるわけだから、そうそう飛び跳ねた設計思想の変更をしないというわけです。またそのような「実績」の積み重ねが、会社ごとの設計の独自性や信頼性の結実になるわけです。団体競技が強い日本と、個人競技が強いアメリカという違いでしょうか。(また、野球を団体競技とみなすか個人競技と見なすかという視点もあるかも。)
これは、工業でも分野によってかなり色が違うところがあります。建設・土木のような思考や視点が一品ごとにオリジナリティを発揮するものなら、日本の発想もアメリカ・欧州に近いような気がします。ただ、このあたりの基本的思想が違う製品群があると、製品の志向まで異なるということが、なんとなく感覚的ではありますが、実感として分かるのです。技術と芸術の区別がさほど無かったという思考様式。それはボトムアップとカイゼンで製品を作り上げてきた日本では、分かりにくい方向性であるかもしれません。唯一建築は「欧米化」なんでしょうが、それとて寺社仏閣建築の強度設計などは、ボトムアップとカイゼンの色がまだ強い気がします。外来技術を咀嚼して、工業化を図った歴史がからんでるとも思うのですが。では現在の中国はというと、その方向性は余り濃くないようにも見えますしねえ。

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