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心の中にある池上線

---------引用---------WIKIより
池上線(いけがみせん)は、東京都品川区の五反田駅と大田区の蒲田駅とを結ぶ東京急行電鉄が運営する鉄道路線。都市内の中量輸送を担う形態から、日本国外ではLRTとして紹介されることもある。
(中略)
1976年(昭和51年)に池上線を舞台にした歌『池上線』(作曲・唄:西島三重子 作詞:佐藤順英)が大ヒットし、その名が日本全国に広がった。しかし、この歌詞に池上線の車両の古さや状態の悪さを思わせる箇所があり、東急がそれらを否定するコメントを出す事態となった。ただ、当時の池上線を走っていた車両はほとんどが戦前製のデハ3450形(目黒蒲田電鉄・東横電鉄モハ510形。1931年~1936年、川崎車輛(44両)・日本車輌製造(6両)製造)を始めとした旧型車の初代3000系で、車体の更新工事は始まっていたものの、製造から40年以上が経過したものがあったことは確かである。その初代3000系も1989年(平成元年)3月11日をもって撤退し、3月19日より新性能ステンレス車(当時は7200系)のみの運行となった。
-----------終了
デハ3450形・3500形・3650形の3形式計78両は、1930~40年代の製造後50年以上に渡り他社譲渡を生じることなく、ほぼ全車が1980年代まで運用された希有な存在でした。とはいえ初代3000系に含まれる後継車には青森県や愛知県の会社に積極的に動いたものもあります。手入れは良い電車であった(しかも更新工事が行われていたものの)ですが、最終期は更新車はともかく、おおむね古色蒼然としていたことは否定できないかもしれないですね。(ただこれは当時の目蒲線(現在の目黒線+東急多摩川線)もあまり変わらなかったと思う。)加えて、池上線は本流の目蒲線(≒目黒蒲田電鉄)の競合線として作られたのを吸収合併した経緯もありますから、地元密着型という使い方をされる反面、余り恵まれない時期があったのは致し方ないかもしれません。

さて、池上線・大井町線の開通80年記念イベントが地元と鉄道会社とのコラボで進められているそうです。参考:http://www.tokyuensen.com/80/経緯からして、関東大震災からの復興に伴った都市化に伴った良い事例でしょう。さてこのイベントの中で西島三重子さんが池上線の貸切車両で『池上線』を歌うライブイベントが行われるということです。
--------一部記載(参考:こちらこちら
古い電車のドアのそば  二人は黙って立っていた
話す言葉をさがしながら すきま風に震えて
いくつ駅を過ぎたのか  忘れてあなたに 聞いたのに
じっと私を見つめながら  ごめんねなんて言ったわ
-----------------------
確かにカラオケでも良く歌われる歌でもありますし、今はかくのごとく近代的鉄道となってる路線ですが、上記の事件を知っている人間としては、思わず突っ込むのはともかくいまや思い出となったんだなと思います。
私にとって見れば、仕事の関係でよく出向いた大崎広小路・旗の台ということになるんでしょうが、なぜか新名古屋・上飯田もイメージするのは明らかに邪道です。(だいたい3700→3880は池上線に入線実績がないぞ!)
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コメント

「池上線」は十八番のひとつです。昔は替え歌で「東上線」も歌ったものです。

投稿: mac | 2007年11月29日 (木曜日) 22時37分

>「池上線」は十八番
をを!ここにも。

さて、
>「東上線」
確かに7800(以下自粛)

投稿: デハボ1000 | 2007年11月29日 (木曜日) 23時43分

> ほぼ全車が1980年代まで運用された
最初の廃車と荷電改造が出たのが81年ですから「ほぼ」は不要です。車体交換で別モノ(3600形更新車の車体)になってしまった3472号のことをおっしゃりたいのかとも思いますが。

投稿: TX650 | 2007年12月 2日 (日曜日) 13時02分

>最初の廃車と荷電改造が出たのが81年ですから「ほぼ」は不要です。
貴殿ご指摘の通りです。3472は意識してました。とりあえず履歴上「ほぼ」という表現はのこしておきました。

投稿: デハボ1000 | 2007年12月 3日 (月曜日) 20時30分

当時の池上線車輌の推移を改めて見直してみました。
更新を受けなかった3300形、3400形、3551~2が廃車されたのは75年ですし、3850形(同線では3450形と組んでいたクハ)が更新(一部は3370形に改造)を受けてアルミサッシになったのは74~76年、3361~3号(3650形の中間サハ)の更新に至っては79年ですから、「すきま風に震えて」という歌詞も、少なくとも作詞された時点ではあながち事実無根とも言えないですね。確かにこの曲がヒットした時点では、上記3361~3の3両を除いては更新が完了していたわけではあるのですが…。

> 最終期は床が木張り、油引きということで
東急旧性能車の更新車の床は、全て樹脂上張付になっていたと記憶しています。少なくとも最終期に残った3450形、3500形を中心とするグループはグレーの上張でした。
名鉄に行った3700系はちょっと記憶があやふやなんですが、鉄道ピクトリアル誌85年6月号p.76の久原秀雄氏の記事に「床のロンリューム張りなど行なって面目を一新し」とあり、長年同社で車輌実務を担当された方だけに信憑性は高いのではないでしょうか。

投稿: TX650 | 2007年12月 3日 (月曜日) 23時14分

>名鉄に行った3700系はちょっと記憶があやふやなんですが、
そうですね。どうも更新車以外は板張り床のイメージが非常に強かった(但し床が張りなおされてるのも記憶はある)のですが・・・・当方の思い込みもあるでしょう。とはいえ、走り出すとひしゃげるN鉄道のク2320なんてのから考えれば天と地の違い。名古屋ではこれとか前期AL車Grの印象が強すぎるかも。
ただ東急さんが、歌の発売後アナウンスしたのは確かに記憶があります。ニュースだったかな。最近聞いた西島さんの出演でも「当初いろいろ電鉄さんから反響が」という言い方をされていました。

投稿: デハボ1000 | 2007年12月 4日 (火曜日) 01時29分

> 板張り床のイメージが非常に強かった
同社の世田谷線や、上田、弘南など他社への譲渡車、はたまた東武の73/78系などとごっちゃになっているのかもしれませんね。少なくともこの歌のヒット以降に目蒲、池上両線に残っていた旧性能車は、上記の3361~3の更新前を除いて全て床上張付だったのは確かですので。

> 東急さんが、歌の発売後アナウンスしたのは確かに記憶があります。
そこで、作詞された(というか着想された)時点→曲がヒットした時点のタイムラグということになるのですね。ニューミュージックの世界なら特に、何年か前の記憶からイメージを膨らますことはよくあるでしょうから。3300形や3400形、ましてそれ以前の3150形や3200形なら、まさに板張りすきま風の世界だったでしょう。

投稿: TX650 | 2007年12月 4日 (火曜日) 02時44分

>同社の世田谷線や、上田、弘南など他社への譲渡車、はたまた東武の73/78系などとごっちゃになっているのかもしれませんね
まず7300はのったことがない。7800はmacさんではないですが以下自粛の世界という強烈な記憶があります。世田谷線はあるかも知れないです。
そういえば、京阪電鉄には3700と同時に入った運輸省規格B型(ここは同じ)の1300てのがありまして、これが油引き床、木工が安つくりでして(といっても特急に使ったりしたのですが)最後も京都口の急行運用に混ざる事もありましたが、間に何度と無くドア設置などの更新工事を請けてるにもかかわらず座席は、「藁」をカチカチにつめていました。それを考えると手を加えていたなあと思います。(それでも私鉄全体から比べたらぜいたくだとは言えるかも)この車は更新を激しくしていたのに、床は踏襲してました。だから、このあたりはなんともいえんなと思っています。

さてこの歌詞は西島さんの作品ではないです。もしかしたらかなり思い入れがあってこういう表現になったとも思えますね。

投稿: デハボ1000 | 2007年12月 4日 (火曜日) 03時46分

はじめまして。佐藤順英と申します。「池上線」を作詞した者です。この曲が発売されたのは、昭和50年9月でした。しかし、その舞台となった、思い出のシーンは、昭和47年冬のことなのです。実話なのです。気持ちを伝えきれなかった私は、この事がきっかけで作詞の道に入りました。昭和50年と、47年では3年のタイムラグがあります。実際、「すきま風に震えて」いたのは本当でした。そんな訳で、発売当時(シングルカットは昭和51年)東急電鉄より、キャンペーンへの協力を拒否されたのでした。それが、80周年の記念イベントで「池上線」が歌われるとは・・・ 時の流れを感じるしだいです。

投稿: 佐藤順英 | 2007年12月12日 (水曜日) 20時14分

>佐藤順英と申します。「池上線」を作詞した者です。
一瞬動揺いたしました。おいでくださってありがとうございます。
上述の書き込みの通り、
>そこで、作詞された(というか着想された)時点→曲がヒットした時点のタイムラグということになるのですね
ということになったわけですか。池上線は今でこそ最新車がはいりますが、本線の増車で忙殺されていた当時の東急電鉄は、頑丈がとりえの車両を更新して使ってたのは事実で、非冷房の車を接客対応上無理して使ってるのは引け目だったのでしょう。
ただ、心象風景を考えると本当に隙間風が吹いていたのは車内と、そして作詞家の貴殿の心だったのですね。逆にそれが今に続く感動を呼び、東急さんとしても(その後にもっときついコミックソングがでたこともあるんでしょうが)追認の姿勢に転じたと考えます。今のまで歌われてるということはそれだけ賛同される方がおおかったのかと。
http://news.livedoor.com/article/detail/3403096/

投稿: デハボ1000 | 2007年12月13日 (木曜日) 03時26分

佐藤様が実体験されたことから、イメージが広がり、歌詞という創作物となり、西島さんとも出会ってひとびとの心に響く名曲になるには、やはり相応の時間がかかるものなのですね。(わかったようなことを言って申し訳ございません>佐藤様)

> 本線の増車で忙殺されていた当時の東急電鉄は(中略)非冷房の車を接客対応上無理して使ってるのは引け目だったのでしょう。
その「本線」と目される東横線の当時の冷房化率は15%強、輸送力の逼迫と新玉川線の開業準備で新車を大量投入していた田園都市線がやっと50%程度、目蒲線に至っては22編成中たったの1編成でゼロの池上線とどっこい、という状況でしたから、東急が池上線以外も含めて車輌水準の話題にナーバスだった、ということもできるように思います。

投稿: TX650 | 2007年12月13日 (木曜日) 09時55分

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