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言葉は文化です。大いに弄びましょう。(2)

(承前)
最近、ある技術指導に関する書籍の改定をお手伝いすることになったのだが、改訂前の本は「文章ばかりが目立つので学生さんが嫌がってよんでもらえない」のだそうである。どういうことでしょうねえ。いぶかしげに思って私は改訂前の本(現行版)の筆者Grに聞いてみるとこういうことらしい。
「前回は初めに、パワーポイントで資料を作ってあちこち講演した結果を元に改定を加え、それを底本として『学生の指導をする教員用』と『学生用』を造った」
「『教員用』は参考文献などや、引用される規格や法令を書いたから、かなり専門的になった。こちらは一部法令を入れ替え、実施例を増やすことにすればいいと思う」
「『大学生用』は草案を作り、文章も易しく、FAQも入れてみたのだが、書籍化する時にイラストの中に版権問題があるものが出てきたので、イラストを削った結果、文章が目立つものになった」
「文章を’立たせた’書籍を見せたら、はっきりいって大学生は読まないことも分かった。従ってもっとイラストを入れたいが、製作コストの問題もあって、ページ数増加のからみという金銭的問題もある。イラストレーターをいれることはムリ。いい編集者を選定するところで工夫したい」
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あれれ、どういう絵を削ったのかと言うことが不思議だったので、もともと底本としたパワーポイントデータを貰って、現行版を比較してみたのですが・・・必要な図面・グラフなど視覚的なところが抜けてるわけではない。でなにが欠けてるのかというと、「なじみやすいイラスト」だったり挿絵などの「アイキャッチ」ということらしい。字面が多いだけで忌避の対象になるみたいだ。
もとより、色々な技術やトレンドをいろんな人に説明するときに、動画を作ったり、3D図面を提示したりすることは、実物を添付できない事情を考えると、進んですべきだと思うし、事実そういう傾向は今のテキストには必要な要素であろうと思う。技術指導をするとそういう具現化した資料は非常に有効で、直感的であるため、分かってもらうのにはいいし、以前の本は文献の厳密性にこだわり、枝葉末節にこだわる本も多かったことを考えると、一つの技術の広範な喧伝とスキルの下支えの有効性は非常に大きい。
但し、自力で探し出す姿勢を見せないで、物事の取捨選択が図れるものかという疑問符が付くのである。耳さわりがいいものだけが学習するべきことではないとおもうのだが、なかなかそういうようにいかないということらしい。
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このようなことを、私は改訂前の本(現行版)の筆者に会議後に一献しながら話をしていたのだが、例によって、学習能力以前に、学習に対する態度が落ちている生徒が増えていることを彼は気にしている。そこで実際に講義でする方法を聞いてみると、最適解であるとは思わないという前提のもとに彼曰く、
プレゼンテーションに徹すべし
うーん。これは工学というより興業ですな。たしかにこれは私も一般向けセミナーなどではそれを意図していることもあるが、どうもこれから実務に赴く学生さんに追求していくと、結果的に、自分で難しさを知る人材が育たないということもあるかもと憂慮する。当然彼が、そこを問題意識として持っているのは事実なのだが、そうでないと授業が成り立たないという現実があるようだ。
そこで言われるのは、「古典落語をモディファイするぐらいの考えで、教授技術を考えるのも仕事」ある意味真実だろうと思うが、一寸親切にしすぎていないかと考えてしまう側面もある。場合によっては都都逸の一節を歌うぐらいしなければ、印象が残らないというわけか。全ての最初は知識欲以前に印象と言うことですね。下支えして育成することが技術伝承の身上であると私は思ってるのだが、それを受け付けない人も多くなったという認識はある。
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とはいえ繰言を言っても始まらない。現場・現象・現実を見なければならない。けど本当に編集者を選んで・・と言う問題以前になにか根源的問題が横たわっていないかとも思う。
かつて「面白くなければテレビでない」というフジテレビのキャッチコピーがあった。これはエンターテイメントの立場としてなら事実が、「学問には王道なし」という言葉もあるんだ。確かに興味を持てるような動機を付ける活動や行為、話し方から指導は必要ですよ。その努力をしなくては教官は勤まらないと思う。しかし甘言だけでは、社会の慣習には追従できないはず。その認識は学生さんに持って欲しいのだが、余り言うと「そんなの関係ない」と、そっぽを向かれる時代かもしれないのか。受身だけで世の中を渡れるなら、誰もこんなに苦労はしないはずだよな。事実最近は若手芸人にも大学卒業という人も多くなっているが、(それはそれで一つの価値観を持ってるわけで恥じることではない)結果的に成功するのは、運や、人脈、いい指導者との出会いもあるだろうけど、創造力を基本的に育成し、継続維持を図る人材が成功する場合が多いのではと思う。その発露として意外と、「言葉を弄ぶ行為」は効果があるのかもしれぬ。
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まあ正直言うと、本当にこれが私が言える位の力量があるかというと非常に疑問。けど疑問だから格闘するのである。間違えてしまうから「サルでもできるかもしれないが」反省するわけである。そうしないと自縛して自爆することになってしまう。そこは、能力程度にはわかっておかないといけない
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コメント

高校までの授業は内容それ自体が必要な知識ですが、大学や大学院の講義というのはあくまでイントロダクションであり、ものごとの概要や問題の所在、解決の考え方などをつかんでもらうのが狙いのように思います。具体的内容は学生自身が(彼らが社会に出てからでも)問題に直面して身につけていくものでしょう。
その意味では「プレゼンテーションに徹すべし」、大学の理想的ありかたとしても大いに結構なのではないかと思います。

投稿: TX650 | 2007年10月27日 (土曜日) 11時58分

>大学の理想的ありかたとしても大いに結構なのではないかと思います。
なるほど。それに徹すればいいと言う意見ですか。プレゼンテーションという意味ではそれでいいのですかね。但し、聞くだけの授業と言うのは、問題に直面したときに彼らが解決できるスキルを育成するのにいいのでしょうか。ここは悩むところです。

投稿: デハボ1000 | 2007年10月27日 (土曜日) 16時08分

その意味ではプレゼン(教員)→グループディスカッション→プレゼン(学生)なんていうのが理想かもしれませんね。まあこれに馴染まない科目も多いでしょうが。ゼミナール形式は大学入りたてではちょっと難しそうだし…。
と、既に四半世紀前に「学習に対する態度が落ちている生徒」だったオッサンの戯言でありました(笑)。

投稿: TX650 | 2007年10月27日 (土曜日) 20時03分

>プレゼン(教員)→グループディスカッション→プレゼン(学生)なんていうのが理想かもしれませんね

究極はこれだろうと思ってます。ところが以前書きましたように、(http://dehabo1000.cocolog-nifty.com/holder/2007/10/post_0d8d.html)このグループディスカッションが成り立たないような思考方法の生徒が多いんですって。どの学部でも多かれ少なかれその傾向があるそうです。
も一つ、最近の先生の外的判断は教授内容の充実と研究(商品化)実績に依存するんだそうで、両立しないと悩まれてる人もおられます。

投稿: デハボ1000 | 2007年10月27日 (土曜日) 21時47分

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