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意「匠」と技「術」と工「学」(1)

痛風はとりあえずないと言う話になってしまい、検査入院クラスで様子見になりそうです。以前にも薬の連用による副作用が、思いもかけないところで出たことがありまして、・・・体質改善をなんとかしなければとは思ってますが。
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今まで私がやったもののなかで、意匠登録を工業デザイナーの人と共同で取った機器というものがあるのです。(当該製品からの撤退により権利消滅してます)
技術の研究所勤務の人間は普通の場合これをすることはないし、第一、私の性格を知ってる人には「デザイナーとは言わないでね、自分では(笑)」と念をおされました。当然です(きっぱり)。そこまで自分を買いかぶっていません。ただ、この「」の道がいかに深いか、そして「」という考え方で押す話ではないのだが、会社の技術者で分かるのは特許技術者さんが分かる以外は、きちんと理解していない場面も多いようです。事実上述の時もグループリーダーの私に対する揶揄(というかそれを指揮している人が技師長クラスの人の上、その人の性格も知っているから余計 デハボ1000にくそみそに文句をつけるときはみーんなそのクラスの人が近くを歩いているとき聞こえるようににする・・・どういう意味かわかるでしょ)で神経が参った時期もあります。
ではなぜそんな齟齬がおこるか。製品の特性が大衆膾炙形と専門家形でこれはかなりちがうし、それを語る経験を私は持ってますよと、自分を買いかぶるほど「うぶ(爆笑)」ではありません。ただね、いずれはどこかでけりをつけ、この公開の場所であえてさらし者になり、意見を貰わなければならないという悲壮感を私はもっていますし、7年間その十字架が肩の上に乗っかってる気がしてます(水子かよ!)そういうわけですこし語らせて、容赦なく雑言を浴びせてください。
NHKの愛宕山に出入りして文献をあさってると、思わぬことに会うことがあります。過去の優秀な番組を映画館形式でタダで見せてくれるのですが、あるとき偶然見たのが奥山清行氏という著名なカーデザイナー(デザイナーのほうが適当か)が指示してイタリアフェラーリ社の車のコンセプトメーキングから全体デザイン構成までを指導するものであって、じつはこれを見たあと、私はある意味動揺して立てなかったです。(番組は2005年03月11日 NHKハイビジョン特集"デザインルームの6ヶ月、イタリア、スーパーカー誕生というもの)商品性を語り過ぎない指揮者とそれを感覚で創造していく世界とがコラボレイトしている。他方、ビジネスの場面では同じ話をしていても実は同床異夢の経験ばっかしだった自分にとっては、お互いに不幸な世界だったんだな・・・・と思いましたね。
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始めに、設計者がデザインということを意識する場合御前会議でこんな話になったということを、有る関係者がわたしに教えてくれたことがあります。彼はそのあと勤めていた会社を替わり、職務内容まで変えてしまいました。そのため本当かどうかは完璧には分かりません。
但し、その製品のテリトリーによってそこまで変るものなのだなということは考えておいたほうがいいです。特にマン-マシン インターフェースが絡む家電・ユニバーサル性の高いロボット、電気工具・自家用車などと、産業機械・医療器械・大型建設機械などは、仕事をしていく場面で違うんだということは必然性が有る話なのです。従って、これも語ってみようとしましたが、どろどろした話をあげると嫌悪感があるかたはスルーしてくださって結構です。但し秘匿事項上すこしいじりましたので、創作込みということで。
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事例
ある産業機械のモデルチェンジが原価面からも、市場の優位さからも、具体的な大口商社からのニーズとしてまで現れてきた。そこで製品化に着手したが、着手する前に作らされた(とあえていう)コンセプトがこれ。
(1)4種類の機種のもっともハイクラスの位置に置く。但し、市場はあまり機械を触れない人で、コストは少し掛かってもいいからというが、商社サイドとしては、利がなければ売らないと宣言されている。(営業コストがかかるから)
(2)従ってコンセプトは、(統計的ではなく)しずか、存在感の薄さ、見栄えを計って中身は廉価、+せールスポイントαを加えた柱で行く。生産台数は●●台/月MIN(量産効果が出ない・・・・・)とする
(3)工場内では新規設備などの投入はほとんど行わない。(型・プログラムのみ)従って色変えもできない。図面による作りこみで勝負することが必須(命令であった)。
(4)ここで会社トップからの声作りやすく、生産コストを極めて抑えてトップをとらないとキミ達の仕事はないと肝に銘じよ。かつ存在感が出ないデザイン(これ自体自己矛盾があるのですよね)を専門家に頼んで入れ込むこと。但しこの投資費用は最低限とする。
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これでどうすればいいか、設計者は既存部品の流用とか、まあできることはしてみて試作を始めたが・・・最高位の品種でもありグレードを落とすことが出来ない部品も数多いという事実に直面した。で意匠(注:デザイナーというからデザインというほうがいいのだが、設計業務と混乱するので以降「意匠」と書く)もちゃんとした人と契約した。業務はうごき出したのだが、意匠は作者が出すにも、設計側からは使えないといって担当者は付き返す。くりかえされると、意匠を担う相手にとっては「どんな設計拘束があるのだろうか」と思うのが自然であろう。そこで話し合った結果、その人は上記の設計拘束をずらりと並べ、相手にみせた。するとしばらくしてデザイナーの上司からの連絡がきた。「これは、製品を(意匠の上で)作りこむということに対して全て否定しているのと同じことである。優先順位が高いという意見でも、製品企画自体に疑問を感じてしまう。」結果的にこの仕事はデザイナーから断る形になったが、会社側はも少し意匠が顧客にとって有利となる(ステータスとして価値が高くなる)別の仕事を改めて依頼してデザイナーの仕事を生かした製品を開発する方向性にしむけたそうだ。(これは成功したらしい)
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これはなにを私に意味している、示唆しているのであろうか
要するに意匠をまかされた人に対してその相手は創作物であり、作者はベストを作らなければならないのである。しかしそれは創作物、評価が一元化できるものでは当然ちがう自分の感性の完全な濃縮がそこに現れないと「作品」であることは納得いかないし、不良品を作ったということにさいなまれるわけである。多分文筆家のなかで表現などに非常に緻密なこだわりを求める作家も同じであろう。不肖の息子を許せないのである。これがのなせる技である。従って工芸でも努力したが思った通りの発露が出来ていないものは割る、裂くというのは理解すべきである。わたしらならもったいないというところの代物でも、陶芸家にとっては意図せぬ息子との縁切りの場なのだな。
これとことなるのは、工業という場。いろんなディメンジョンを組み合わせる。商品性(これは会社によっては、独自にそこを構築する部署がある)はともかく、製品の特性から始まって、価格、メンテナンス性、寿命・・・・・・・・・・をバランスよく配分するという「」なのである。という限りは最適を意味するが全体最適化だけであり、個々の完成率は100%でなければならないとは、なんにもおもってない。優先順位をつけて上から90%・85%・・・・・・・という世界なのだろうと思う。従ってそれに対するすべは、極端なところ理論にあってようかなかろうか、要求されるところに落ち着けばそれでいいのである。ただそれらのなかで極端な差があってはならない。バランスボールの上で落ちないようにしている。それが「」の意図する心である。が奇であっても、結果がちゃんとしていればそれでいい(一寸過激な言い方であれば・・・)というのはある。実際理論に会わない製品というのはまやかしである可能性が多く、新しい機構で達成されたというなら後付けであるそういう例は多くは成立しえない。それでも時にはあるのだ。現場ではこういうのをときに「過去からの伝説」なんて皮肉で呼ぶ人もいる。
意匠と技術は相容れさせる行動をしない限り同床異夢になる。そうにちがいないと思ってしまう。
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「匠」を志向する人は「術」のまやかしや要件をいちいち理解して作業することは、かえって自分の出したものに対する品質を失墜されないという見方をするのだが、「術」を志向するひとは「匠」が抱えるその意味合いに気が付くとはおもえない。まあ経験豊富でわかっていたとて大概はそれを感性の中に取り込み過ぎた結果全体のバランスが破損することを懸念する。お互いに共通点がないんだもの理解できないせよといっても理解することが不可能な事象がある。
では両立するのはどういう場合か。「」の道の人がどれぐらいバランスの中身を「」の内容に取り込んでいける柔軟性に掛かっている。それを全ての「術」のバランスを固定したまま「匠」の意識を入れ込めというのは、お互いがお互いを理解していないということになる
但し、「匠」にしても不十分なしごとをすること自体が信用失墜につながることを分かっていて、製品自体の製品化を潰すことは、本意でないのは事実である。従ってそこを柔軟・・・というか現実直面する方はなあなあでごまかすしかないわけで、従って製品として世にでてもそれを自分の作品とは言いたくない場合もあるだろうというところ、そこは「匠」の側が自分で経営者的な見方で割り切るか否かというしかない。そこは個人の付加価値追加の問題である。これも「職業倫理」の一つの概念かもしれないぞ。
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振り返って、得私は意匠登録をした製品を提案、プランニングしたとき、自分はどうしたかなあとおもうと、「「術」の配分はこれ」であり「ここは動かすのは相談次第でおりあわせましょう」逆に「「匠」として意匠業務を完逐するのはこの部分とこの部分」という形で、分担を分けてしまったのである。そして実際の顧客に対しては、双方で一緒になって出かけていき、分掌を作りこむという形に責任分担を明確にした。従って全体意匠は責任は双方にあることをぶち上げた上で、「匠」の作りこみはこれこれ「術」でのバランスとりはこれこれというのを勝手に持ち上げ、上長が口を挟むまえに、分掌内容を提示してしまったのである。これ、ずるいな。(但し、先行モニターという形だったので、だめならやり直しが効くと言う立場にしたのも大きい。そこだからだれも文句を出さなかったという幸運はしってなきゃならないな。)
でこの場合、このあと工場移管という製品化のときに他の事件もあって頓挫したのであるが、ここまで「完成したと思い込んでいるプロトタイプ」に対しては、物理的問題をあげつらうことにならなくて、存在全体(つまり会社としての商品企画概念の経緯)を否定するしかなく、断る理由として予算処置とかそういう世界で話を持ってくるわけであるから、「匠」の責任でもなければ、「術」の責任にもならないわけである。あくまで経営概念の議論に収斂して討議できる。但しこれも実は「逃げ」なのであるけど。
大衆に嗜好を訴えて膾炙する製品、たとえば自動車を作る場合は、もっと商品企画、コンセプトを探り、考えるセクションがあるのだろう。いわゆる家電品でも企画部門はそこを作り出したり見出したりする知識を持って、資源配分をしてから製品に対する意味合いを明確にしなければならないしそうしているものだと疑わない。
ただ、お金(固定費)が絡むとこの理論は弱くなる。「目利き」が成り立つ業界、それはある程度その企画部門が維持できるだけの人員配分が出来る規模でなければならない。そこまで割けない業界は担当者が考える場合「術」に依存した製品化になってしまい、そこから経営陣にお伺いを立てる可能性が高い。ただし担当責任者が社長だったりするとそこはその才覚によるのだろう。また世の中には「」を考えるグループリーダーをあえて市井に鮮やかに出して、意見を直接交わしてグループリーダーの才覚を総合的に育成することで、「匠」の存在意味と依頼内容を明確にさせ、そこでバランスをとるという大胆な手法をとっている事例もあるらしい。割目すべき考えである
ところで、更に先に示した奥山氏は、TVの演出だからかということから、真実かどうかはいえないが、1:1の車の樹脂モデルをイタリアの職人やデザイナーと共に作りこむとき、すでに漠然とした造形を頭の中に描いているとみえる。その信念で全てを指図し、削り、すかして眺める。手ひねりの茶碗を名人が作り、焼いて炉から出し選別し駄目なものを割り砕くのと同じ目をしている。この目をして機械設計をしたら、機構というものになるには幅が狭すぎるわけで機械設計者としては非常に仕事が遅い・・・ということになりがち。(できないといってるわけでない。完璧を期することに執心してしまう可能性がある。人材活用としてこれは損失である。)
もっとも、製品戦略というところまで考えると、今度は企業理念との協調性がどこかで関わってくるステージがあるのだが、この話は煩雑なので別に述べよう。
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さて、なんでこんな話をしたのかというと、今日出張のついでに国立近代美術館に行って、その近代の商業美術も含めた展示を見るという、まことにいい経験をしたのである。近代美術というのはその思想性を完全に発露するために、とことん追求した美術を見せるのだな。それが匠=作家の存在位置であり自己主張・・・もとい「自己そのもの」であるというのを強く感じたのである。
ところがこの中に、お互いを抹殺せず生かせている匠の世界がある。それはまあ民芸品というものが一つある。無のように装った必然の美・匠の意識の発露であるのだが、ここでみたのは、一寸違うもの。
●東京地下鉄道の開業ポスター
●国策宣伝用の看板絵(零戦が中国の飛行場を壊滅・・・米国が接収後、日本に無償貸出しているもの)・・・(実は北朝鮮の金正日氏の入ってるポスターのイメージに極めて近い図画なんですよ)
のように、まあ製品をどうこうという形でないにせよ、商業美術という分類で顧客(=宣伝スポンサーにとってはある意味製品)の意向に応えるものである。製品と美術を同一線上にならべるのは無理があるが(まあ民芸品の世界のほうが適切な話ですけどね)こういうようにコラボレーションをするというのには、「匠」だけでなくて「術」だけでなくて、その相互協調をすることを誰かが考えなければならないのに、そういうように動くことの難しさが思い返されてならない。
今後ロボットなどますますヒューマンインターフェースが必要性があるのに、また全ての製品にそういう世界が広がっていくことがみえているのに、そこを明確に理解することがこの年齢と経験をつむまで理解できなかったことに、自分自身の苛立ちが納まらない事実が自分を苦しめた。
けどそれが分かっただけでも、今日、美術館に足を運んだ価値が充分あったのだと思うか。そのほうがアグレッシブか。(笑い)

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コメント

やはりご専門と離れた分野は、わかりやすく整理して書くのが難しいようですね。(失礼:私のほうが意匠分野は専門に近いので)
私自身の考えとしては、本当の「匠」とは、「技」を取り込み包含し、技術者を「使いこなして」まとまりのある商品を作る力のあるデザイナーのことだと思います。「技」に聞く耳を持たない「匠」は二流三流です。
(これは裏返せば「匠」に聞く耳を持たない「技」も二流三流ということです)
まあ実際には二流三流の人のほうが多いのも事実ですが。
お話にある奥山氏などは、TVで見た限りでは十分「技」を取り込み、部下のデザイナーだけでなく技術者をも使いこなす力を持ったデザイナーだと感じました。

投稿: TX650 | 2007年5月17日 (木曜日) 09時43分

いや、これは私の見方がいいのか悪いのか分からないところだったですからありがたいことです。
>「技」に聞く耳を持たない「匠」は二流三流です。(これは裏返せば「匠」に聞く耳を持たない「技」も二流三流ということです)
なるほどね、何回か技術のやり取りをして、問題点を挙げてくるということでこの事例は「匠」のほうがまだグレードが高いのではと思います。・・・という考え方をしてましたわ。
まあ、じゃあ一流というのがどれぐらいの数なのかというと、本当に少ないとは思いますけどね。

>お話にある奥山氏などは、TVで見た限りでは十分「技」を取り込み、部下のデザイナーだけでなく技術者をも使いこなす力を持ったデザイナーだと感じました。
そこは、TVで見た範囲という形に私もなってしまうのですが、部下のデザイナー・意匠作業員クラスも含めてを使う能力は高いとおもいます。(育てるというところまでは私の能力的に読めません)
但し技術者がわからしてはどうでしょう。使いこなしてやるなんていう考え方の人間よりも、「カリスマ」についていって従うのがお仕事・・・という本来と逆な人間が結構いるのが、現状なんではないでしょうか。

投稿: デハボ1000 | 2007年5月17日 (木曜日) 13時47分

> 但し技術者がわからしてはどうでしょう。
そう、そういう相互理解、開発プロセスの共有の姿勢こそ大切なんです。時には意見が衝突することもあるし結構しんどい作業ではありますが、それをやらずにお互い「相手におまかせ、自分は専門外」という姿勢では、機能・デザイン・コストなどの調和の取れた商品性の高いモノづくりは成し遂げ得ないと思います。

投稿: TX650 | 2007年5月17日 (木曜日) 19時28分

>> 但し技術者がわからしてはどうでしょう。
>そう、そういう相互理解、開発プロセスの共有の姿勢こそ大切なんです。
これ自体は、各々がオープンに意見を出し合い円卓会議等をしっかりかけるのが最上級の仕事だと理解しました。なんのことない工場内での設計部隊と製造管理部隊の間と同じ考え方でよいと理解します。ところが社外の意匠専門家に頼むときは、そういうところをオープンにすることはまかりならぬという管理畑が一杯。理解してもらえないこと、それより、理解する気がない姿勢の人間っているんですよ。私も切れましたもの(ここでは書きませんが)。分かっちゃいるけど・・・・嘆息という技術者もいるんじゃないかなあとおもうのですよね。
ここに書いた私自身の経験の時は、共同作業する意匠専門者に週何回かきてもらい、会議室を占有してお互いに見せ合いっこしながらやりました。分担を分けたとはいえ検討は共同、しかし対外的にはお互いに分掌範囲を決めたとしておかないと後から難癖つける管理畑がいるのが現実でした・・・。この場合でも結構ありましたし。
技術コンサルという仕事もこういうスタンスで頼まれることがあるんですよね。その問題意識もあるのです。(次回)

投稿: デハボ1000 | 2007年5月17日 (木曜日) 20時07分

> ところが社外の意匠専門家に頼むときは、そういうところをオープンにすることは曲がりならぬという管理畑が一杯。理解してもらえないこと、それより、理解する気がない姿勢の人間っているんですよ。
それでは二流三流のものづくりしかできないのは自明ですね。デザイン事務所さんが断ったのは賢明な決断だと思います。

ところで「曲がりならぬ」じゃなくって「罷りならぬ」ですぜ(笑)。
(管理者注:そうですね・・・けど読み間違える人も多そう。ひらがなにしてしまいました)

投稿: TX650 | 2007年5月17日 (木曜日) 20時26分

>それでは二流三流のものづくりしかできないのは自明ですね。デザイン事務所さんが断ったのは賢明な決断だと思います。
考えてみるとこの技術者が仕様提示を明確にしたのは、実は相手さんが「辞退しますと言いやすくする地盤をつくる」という、深慮遠謀だったのかもとおもいます。(その人に聞くことも出来ない古い話ですが)

ところが、同じ会社が、別の(品物の)仕事をお願いしたところ、すごい実績になっているという後段の表現を考えると、意匠専門家自体の能力が低いとは思えないのです。要するにこの場合はマネージメント姿勢(ないしはマネージメンターを遠隔操作する・・・いい言葉かな)の能力という、ある種政治的な側面を技術者に求めるもありかもしれぬ。
つまり製造者がデザインを・・・という場合、上級管理職にそのような認識がなく、ただ「やれ」とかるーい旗を振ってるだけ・・・というクラスかどうかを確認して行かなければならないという、なんかそこまで読まなければならないという事実を教えてくれます。

私にとっては、結構問題となる問題意識であります。工学と技術という場面でも見られること。齟齬があちこちにあるという現実を感じます。

投稿: デハボ1000 | 2007年5月17日 (木曜日) 22時07分

まあ、いまだにデザインとは「機械装置に体裁よくお化粧をする」ことだと考えている技術屋さんって、実のところ多いですからね。一方ではいまだにデザインとは「作品を作ること」だと考えているデザイン屋さんもまた多いわけで。
困ったもんですが。

投稿: TX650 | 2007年5月18日 (金曜日) 00時11分

そこの相互理解が出来る人ってのは、確かに少ないかもしれません。言ってる本人も自信ないですもの。(お前が言えるステータスかという突っ込みは無しの方向で)

投稿: デハボ1000 | 2007年5月18日 (金曜日) 00時24分

>(管理者注:そうですね・・・けど読み間違える人も多そう。ひらがなにしてしまいました)
たびたび瑣末な話で恐縮ですが「まがりならぬ」ではなくて「まかりならぬ」なんですが(笑)。

(管理者注:うち間違いですね。まちがいはなおしました。こういうところの感性のバランスが(いう「も」・・・)悪いみたいですね。まあそれが味だという境地まで開き直るのがいいかというと私はそうは考えないので)

投稿: TX650 | 2007年5月18日 (金曜日) 10時37分

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