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ウィキペディアにようこそ!

---------------引用開始
ウィキペディアにようこそ!
ウィキペディアはオープンコンテントの百科事典です。基本方針に賛同していただけるなら、誰でも記事を編集したり新しく作ったりできます。詳しくはガイドブックをお読みください。現在、ウィキペディア日本語版には約 351,948 本の記事があります。
---------------引用終了
ウィキペディアを百科事典代わりに使っている人がおおい。たしかにそうなんですよね。先日もある会議で、「ITの活用の中で、案外面白い、かつ有効な展開を図っているのがウィキペディアである。」という話になっていた。私も確かに引用文献として使うことが多いのはご存知だろうと思う。
他方、ウィキペディアに対する問題意識を持つ方も結構いらっしゃるのである。「誰でも記事を編集したり・・・・」ということは間違った知識を書き込まれてそれがスルーパスになった場合これが固定されてしまうということである。
過日も外国のある大学で、生徒にレポートを書かせた所、みんながみんな同じところを間違っているのでよくよく調べてみると、ウィキペディア自体の誤記を、みんな写していた・・・と言う話があったらしい。依存するのも程ほどに・・・ということを示して余りある。

まあそういうこともあるから、本当は文献類に依存しなければならないはずの記事は、図書館などを渡り歩いて調べるしかないわけで、私も国会図書館とかに出入りして文献を探すことはよくあるのだが、更に工学・科学だとそれでも追いつかず、米国の権威の雑誌などの記事を(図書館でですけど)よむということもある。こちらは日本語でさえもう、海外の文献の翻訳でカバーするのが難しいらしいし、それを行う学識経験者自体がかなり専門化(孤立電子対化・・・てのもいいかもね)している上に、特に近頃は研究費獲得のため忙しく(研究以外でも忙しく)そこまで手が回らないと言うことになっているらしい。(幸いにも英語を読むだけはなんとかなってるので・・・・なんていう希望的観測はなしにしましょうね。)

ある溶接技術の本を学会が執筆しようとして立ち上がったまではいいが、査読中に新しい文献が入り、新しい知識が入り・・・で、出版が非常に遅れてしまったという内部事情を聞いたことがある。また、機械分野では「機械工学便覧」という世界に冠する(これ、本当に世界に類書がないそうだ)書籍があるが、これも改訂が進んでいるのにもかかわらず、同じ理由で20年ぐらい全面改訂が出来ない状態のまま遅々としてやっているのである。これなんぞ私はこまってるんですよ。
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要するに、書籍では時間的に追いつかない事項が多くなり、またインターネットでの検索は玉石混交であることを考えると、どっちもどっちだということは認識したほうがいい。というわけで私も、広辞苑だけは買い求めまして、最低限のラインは「紙で見える」範囲のことをしようとしている。目で見えるということ自体を求めると、それは単なる安心感を求めてるだけ、という見方も有るのだけどね。
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ここで一寸比較実験してみましょうか。
中庸:私は文献としての名前のほかに、物事を平均的にバランスよく認識することと解しているが、上述したものはどんな表現をしているのだろうか。

(A)大辞林 第二版より
【中庸】ちゅうよう
(1)(名・形動)[文]ナリ
考え方・行動などが一つの立場に偏らず中正であること。過不足がなく、極端に走らないこと。また、そのさま。古来、洋の東西を問わず、重要な人間の徳目の一とされた。中道。
「―を得る」「―にして過甚ならず/西国立志編(正直)」
(2)中国の哲学書。一巻。孔子の孫の子思の作と伝えられる。元来「礼記」の中の一編であるが、南宋の朱熹(しゆき)が取り出して四書の一つに加え、「中庸章句」という注釈書を作った。天と人間を結ぶ深奥な原理を説いたものとして、特に宋以後重視された。

(B)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【中庸】
中庸(ちゅうよう)とは、儒教において、「四書」の一つであり、またその中心的概念の一つである。
「中庸」という言葉は、『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆されたのがその文献初出と言われている、それから儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。
古代ギリシャでは、『ニコマコス倫理学』のなかで、アリストテレスは人間の行為や感情における超過と不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)を挙げた。日本語訳ではこれに中庸という儒教用語をあてた。例えば、勇気は蛮勇や臆病の中間的な状態である時はじめて徳として現れる。アリストテレスによれば、この両極端の中間を知る徳性が思慮(フロネーシス、実践知)である。
現在「四書」の一つとして広く知られている『中庸』は、もともと『礼記』の中の一篇文章として伝えられてきたものである。子思の作であるという。(中略)この中で、もっとも知られているのは朱子の『中庸章句』である。
『中庸』の内容について
『中庸』では、「中庸」の徳をくわしく解説している。しかし、『中庸』は、「中庸」以外に、「誠」、「性」、「道」、「慎独」など多くの概念についても述べている。この中で、「誠」は「中庸」よりも一層重要な概念であることも言われている。
「中庸」の「中」とは、偏らない、しかし、決して過不及の中間をとりさえすればよいという意味ではない。(中略)
中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。
参考文献:
金谷治 『大学・中庸』 岩波書店  
赤塚忠 新釈漢文大系『大学・中庸』 明治書院 
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ウィキペディアからみると私の解釈は中途半端のようですね。
このようにちゃんと引用文献がある場合はウィキペディアにはたしかに有効である面が評価できる。ただし、これを証拠として論旨をもっていくのは危険な場合もおおかろう。
辞典に書いてあることにバイアスが掛かっていないとは思わないのだが、ウィキペディアの場合、かなりの合議形成などのシステムをとっても、「オープンコンテントの百科事典」と言うこと自体を否定する場合、意味を成さないのである。バイアスの有無が見えないのである。
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それじゃあ、他の皆さんのHPを見て比較すればいいじゃないか。
はいそうなんです。私も実際それをすることがよくありました。たとえばこの場合Googleで35900件みつかったそうであるからやってみようと思ったが、いかんせんノイズが多すぎる!
まあ、それを排除して細かく見ていくと本当に専門的な訓読形式のHPだとか、漢方の治療の指針とか、なかにはこの儒教の文献を始めから否定してるのもあって、「そりゃおもろい」のだが、よっぽどのリテラシーが元々ないと、これを整理するのはむずかしかろう。したがって、参考にはなるが、人に推奨するにはちょっとなあ・・・となってしまうのである。要するにバイアスが掛かってるらしいのだがどれぐらい掛かってるのかが私達に見えないのである。そらそうだ。わからないから調べてるんだ物ね。
そこを指摘するとメディアリテラシーとかコンピュータリテラシーを習得していないからということになる。これはまあ事実でしょうが、全ての人にこれを習得できる能力があるとは限らないし、そもそもこの分野自体が確固としたものでもなければ、まだITの発展によっては全く今後の動向さえ予想も付かないものなのである。
このような状態で、他の人にWEBの記事を推奨するのは難しいというのはわかるだろうが、とはいえ、一番とっつきやすく、理解してもらえる「最新」の事項・・・となるとこれまたこまる。ウィキペディアの場合は参考文献自体がありえないようなもの(もちろん辞書には始めから載っていない)について、使うしかない場合、引用であることを示して、やむなく自分の文章にする(推敲する・・・ことになるのかな)ことで処理する場合がある。まして最近は百科事典自体もほとんど売られなくなり、書店でもあったほうが珍しいこともある。(電子辞書と言う場合ならまだいいのだが・・・・)
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そういう意味で、どうしても私は引用をウィキペディアに頼る傾向が出てしまうのだが、これは緊急避難的なところがある。本当は同じようなコンセプトの「百科事典」を作るチームがいて、2つが切磋琢磨するというところから入るのも一つの理想なのだが、そもそも元祖たるウィキペディアでさえ経費難に苦しんでるらしいので、これは夢なのかもしれない。
●書籍・文献は査読をしている場合も多いので間違いがないという意味はあるのだが、そこにいたずらに頼ると権威主義になり、じつは存在した「真実」を見失うことになりかねない。
●ウィキペディアは権威主義は反対にないと考えていいが、あくまで大衆の知識を合意を以ってまとめると言うところになるために、その真偽性やバイアスの可能性がゼロにはできない。

ということで腐心しており、一方仕事の本は信頼できるものを買い集めている状態。
これをお読みになってるみなさんは、情報収集のポリシーとして、どういう考えをお持ちか書き込んでいただくなり、教示いただければ幸いです。
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今日は、まだ本調子でないので、今から寝ます。(不在者投票は行って来たので)

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(PS)
日立Grと平凡社が連携して(一時は合弁会社まで作っていたような。現在は解消。)そういうサービスをしている(有料・端末毎約6000円/年)。けどデータが古いみたいだなあ。・・・以下一部を引用・・・
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<世界大百科事典サーチ> 知の最高峰,平凡社『世界大百科事典』をオンラインで検索し,WWWブラウザで読むことができます。表示された項目からは,関連項目やウェブサイトへもリンクします。
※ 書籍の索引,百科年鑑,百科便覧,書籍にある図版のうち,カラー図版および一部のモノクロ図版は収録されておりません。
※ ご提供する『世界大百科事典 第2版』は1998年に編集・制作したものです
ちなみに
中庸 ちゅうよう zhヾng yヾng
儒教の徳目。 〈中〉は偏らず,過ぎたると及ばざるとのないこと, 〈庸〉は平常,つまりあたりまえでコンスタントであること。儒教では忌憚のない直情径行を夷狄 (いてき) の風としていやしみ,俗をおどろかすような (社会において突出するような) 行為をきらって,庸徳庸行を尊ぶ。孔子は〈中庸はそれ至れるかな,民の能くすること鮮 (すくな) きこと久し〉と嘆いた。それは形而上的な〈中〉に基礎づけられた徳であり,その獲得と実践には深い省察が要求される。 [島田 虔次]
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このほかも冊子として提供しているものは少ないようです。
ブリタニカ国際大百科事典がありますが、これも電子化移行済です。「お試し」を使ってみたが、意外と中身が薄かった(但し、筆者の著名入り)のは、たまたまなのだろうかなあ。

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コメント

> 管理人様

拙僧が、一応所属している仏教系などですと、やはり時代によって特定の人物や思想についてまったく評価が変わってしまうこともあるので、今回の御指摘のような情報については、あまり最先端を追いすぎると痛い目を見るということがございます。

論文の発表から、ただちに技術化されて社会に寄与していく理系と違って、文系は概念の共有にある程度時間的余裕があるというのが、有り難いところです。ウィキペディアでは、ジャーナリズム的な更新を止めて欲しいとしておりますが、その意味では或る程度「枯れた」概念ばかりを求めるべきなのではないかとも思っています。

また、拙僧は、やはり原典を徹底して集めております。そこから、実世界の研究のみならず、拙ブログの展開もございます。

投稿: tenjin95 | 2007年4月 9日 (月曜日) 16時19分

>時代によって特定の人物や思想についてまったく評価が変わってしまうこともあるので
それは過去の歴史が示してますね。たしかに。仏教の歴史でも多いですね。親鸞しかり。日蓮しかり。
>文系は概念の共有にある程度時間的余裕があるというのが、有り難いところです。
そうか・・・その点の視点も接している分野によって異なってくるんですね。工学では「枯れた」概念は当然必要ですが、「生きのいい」概念を上に迅速に積まなければ・・・という要求からきますからね。そのサイドからの見方も入れなければ・・・・ご指導感謝します。
>やはり原典を徹底して
本当はそれが有るべき姿ですよね。工学・医学ではそうもいかない時代の進行。反面教師的ですがITがすすまなかった方が考証の回帰かも。時代の皮肉です。

投稿: デハボ1000 | 2007年4月 9日 (月曜日) 18時12分

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