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技能を支える信念

技術立国ニッポンが叫ばれる現在、技術の向上とともに、技能の確実な伝承とその技術背景の解析は必要なことであるが、なかなか難しい項目が控えている・・・と言う話を今日聞いてきた。もっともである。けどその方法が模索中だということ。
実はそれについてはいろいろ語ることもあるんだが、今日は堅い話は置いておいて、それを背景に今日は一寸技能と信念について考えてみたい。とくに放送についてである。
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(1)タモリ倶楽部
毎度おなじみ流浪の番組」「コンビニエンス・キャバレー(今は使っていない)」と女性のお尻が踊る画像(CGのときもあり)で有名である、20年続いている深夜番組の嚆矢。むかしは「AV女優ネタ」とか「おかまバーねた」とかがおおかったのだが、このところ一寸「金曜11PM(古いぞ)」みたいになってませんか。うちの下の女の子はタイトルバックを見ただけで「エロはきらい・・・」と多感な時期を迎えているので逃げる(しかたないか・・・)のだが、このところなんかネタが非常に「モノつくり」に傾いた、大人の高尚な番組になってませんか。
○日本開閉器工業を取材したり 日の出ゴム(消しゴム)の会社、ヘルメットの会社の検査工程見学。
○鉄道ネタで京急ファインテックの見学。模型会社の見学。(今度、(故)鹿島鉄道のもあるそうです)
○舞台設営作業 左官作業 塗装作業の実習
○野菜つくりコンテストや、稲藁の干し方コンテスト。
○スパゲティーで橋梁を作り、その強度評価を行うコンテスト。ポン菓子の生成方法の研究

以前のイメージからするとすごい変わりようですね。これは製作メンバーの変化と、森田氏も還暦となり考え方が変わってきたみたいで、油っ気がぬけたのかもしれませんが
ここで面白いのは、意図せずもモノつくりの深耕傾向が見られるということです。熟年になって面白みが分かってきたのか、以前からあった企画が隠蔽されていたのかは分かりませんが、もしかしたら、本当は彼はこういう番組にしたかったのかもしれません。でなくちゃあ20年も安い出演料(甘んじているというか、それでいいと考えているらしい)でやらないもんね。
ただ「金曜11PM」とちがうのは、あちらは楽しい週末の過ごし方として、完全に職務から離脱した話題「麻雀・競馬」が多かったのに対し、こちらはどちらかというと多様な・・・というかアブノーマルだった世界にも目を当てていること。これは評価していいかもしれませんね。ということでバラエティーの職人の世界です。
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(2)オールナイトニッポン・・・でなくて糸居五郎氏
糸居 五郎(いとい ごろう 1921年1月17日 - 1984年12月28日)は、元ニッポン放送アナウンサーで元祖DJ。現・東京都文京区音羽出身。
満州アナウンサー時代
戦前、1941年5月に満州中央放送局でアナウンサーとして入局。当時同局の実質的な先輩だった森繁久彌からアナウンサー指導を受けた。同年11月には満州電信電話会社(以降MTTと記載)ハルビン中央放送局に転任。1945年、大連で終戦を迎えたが帰国はその約1年半後。
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(少し加筆しました)
ここで、かれのDJ魂が炸裂する。当時MTTは23時の東京からの報道(NEWSのこと)を短波(東亜放送)で受信し、そのあと23:55まで各局ともローカルで宿直のアナウンサーが「おやすみのまえに」というレコード音楽メインの番組を行った。(ここでNHKとまったく同じだということがいかに欺瞞性をこの放送局が持っていたことがわかる。但し第一放送(日本語)、のほかに北京官話・韓国語・・・朝鮮系住民向け・ロシア語の放送という考慮はしていた。(場合によっては混合放送)糸居氏も日本語放送で当然これを時々することになる。
ところで、当時ジャズは中国人や韓国人、当然日本人にも人気があったにもかかわらず、敵性音楽として放送を禁止されていた。そこで、糸居氏は一計を案じ、番組開始後こういうアナウンスを入れる。
「現在、敵国である鬼畜米国においては、かくのごとき猥雑な音楽に国民はうつつをぬかしておる。かような状況に対し、当方軍の優位は明確であり、勝利は近い。」
と一発アナウンスをしたあと、23:55の番組終了まで好きなジャズをかけつづけた。
これは軍からも、だれからも文句がでなかったという。
(管理人注)ここに関しては、いくらかの人の話を間接的に聞いているが、政治状況としてありえないという話もあり真実のところは分からない。今になっては、闇の中の話としたほうが、夢があっていいのかもしれない。
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終戦後、NHK入局を考えるがかなわず、(注記:但し、のち民間放送開始において、復員してきたNHKのアナウンサーは管理職として男女問わず引く手あまたになる)しばらく食料品店を経営していたこともあった。1951年10月、当時開局を控えていた京都放送(現:KBS京都:詐欺事件にあうまでは独自プログラムで有名であった)に入社。ニュース、スポーツ中継の担当アナウンサーとして活動し、翌1952年には民放初の本格的DJ番組といわれた「アルファベット・ジャズ」を担当
1954年7月、日本深夜放送(ニッポン放送の子会社。後に吸収合併)へと移籍し、「深夜のDJ」という番組を担当。ニッポン放送が開局した1954年7月15日の第一声「ただいまから開局いたします」とキューを振ったのも彼であった。1959年10月からはオールナイトニッポンの前身番組「オールナイトジョッキー」のDJとなって脚光を浴びる。1967年10月に「オールナイトニッポン」がスタートし、月曜日のディスクジョッキーに就任。「音楽はDJがかけるもの」という信念に基づき、リスナー、ディレクターのリクエストに一切耳を貸さず、レコードやコンソールにさえ触らせなかった。その為、「最初で最後の職人DJ」と言われた。1980年6月に定年。1981年6月に「オールナイトニッポン」を降板。1984年12月死去。

管理者自身では:私は彼の放送を聴く機会があったものの深く聞いた覚えはない。ただ当時は洋盤レコードを日本に広めると言う使命感が強かったという認識は、現ニッポン放送相談役の亀淵氏が語るところである。

君が踊り 僕が歌う時 新しい時代の夜が生まれる
太陽の代わりに音楽を
青空の代わりに夢を
新しい時代の夜をリードする オールナイトニッポン

は、糸居氏が言い始めたが、この台詞は当時のオールナイトニッポンの構成作家が考え、それが当時の番組のキャッチフレーズとして使用されたという由。現在、斉藤安弘氏がパーソナリティをつとめている「オールナイトニッポンエバーグリーン」でも受け継がれている名ゼリフである。

この言葉には今でも私は感銘を受ける。その案外な高尚な意図を見せてくれている。
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(3)森繁 久彌(森繁 久弥、もりしげ ひさや、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方市出身。現・大阪府立北野高等学校、現・早稲田大学高等学院卒業後、早稲田大学商学部中退。舞台俳優、NHKアナウンサーを経て本格的な俳優活動に入る。(喜劇俳優・新劇俳優としての活躍はあまりにも有名でありここでは割愛する)

NHKアナウンサー時代には満州電信電話株式会社(MTT)の放送局に勤務。さらに、満洲映画協会(偽満州国での国策映画からはじまり、のち純粋な娯楽映画の製作会社に移行 李香蘭を世に出す・・・経緯などはたとえばこちらとかこちら。)の映画のナレーションなどを手がけ、政治家:甘粕正彦(宣撫映画で日満友好(?)を図るべきと主張し、一時軍からにらまれたとも言われる軍人経歴のあるかなり個性的な人物。)とも交流があった。また満州巡業に来た5代目古今亭志ん生や6代目三遊亭圓生とも親交を結んだ。
この方のように、アナウンサー生活から決別し、自分の道を作った人はまさに技術者である技能者であり、つまりクリエーターである。

自分のかいた図面を客先に転送するとき私は
○信念をもって語る技術者であるか
○技能者・顧客のことをかんがえているか
○顧客の隠れた要求を見出すクリエータであるか

を考えるが、(こらそこ、笑うなよ)どんなものであろうか。
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(4)山川 静夫(やまかわ しずお、1933年2月27日 - )は、昭和後期から平成期(1950年代後半~1990年代前半)のNHKアナウンサー。現在はNHKを辞し文芸評論家(特に歌舞伎)、エッセイスト
アナウンサーとしての活躍は有名だが、実は歌舞伎評論については当代唯一とまで言われている。
静岡市の静岡浅間神社の神主の家に生まれた。伝統文化に造詣が深く、國學院大學在学中から歌舞伎の声色が得意で、ニッポン放送の歌舞伎番組(そういうのがあったのだ・・・)に出演していた経験を持つ。中村勘三郎 (17代目)とも親交があった。大學在学中には歌舞伎研究会を自ら設立させた。また、学生時代には勘三郎は二役を務める舞台などで勘三郎が早替りのために舞台袖に下りている間、勘三郎の物真似をする山川の声を使い、その間を繋げたことも度々あったという。
1956年にNHKに入局。青森、仙台、大阪に勤務の後、1968年に東京アナウンス室に配属。前期の担当番組は「ひるのプレゼント」など。後期は「科学番組ウルトラアイ」など生活科学番組の司会。NHK紅白歌合戦の司会を通算14回担当。1990年に特別主幹(事務理事待遇)職に就任。
著作も多く、1974年に刊行した「綱太夫四季」が処女作。1991年からは国語審議会委員を務め、また文芸評論家として雑誌・単行本に評論・エッセイを執筆するなど、退職後はブラウン管から一歩離れた立場での活躍が目立っている。

ここまでの記載を見ると、この人は自分の仕事と、趣味を見事に切り分け、信念を持って生きている人なんですね。面白いのは45歳の前はバラエティーがメイン、45歳以降はバラエティーでも特定分野に特化した処なんですね。45歳はやっぱりどっか分かれ目があるんだ
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くそまじめでもなんですから、オチを一つ。
山川氏はNHK青森局勤務時に、「おやすみのまえに」(当然戦後です。このときは東京からの全中になっていた)のあと23:55からローカルニュース・あすの満潮・干潮・日の出時刻を各局が流して、放送終了となったあと、どうせ朝まで起きなければならない(と言う規定だった)からと技術員たちと麻雀を始めた。4時代にやめ5時のローカルニュースで天気予報を山川氏が読んだのだが、
「東の風 風速3m(ひがしのかぜ ふうそく さん メートル)」
と読むべきところを、頭が切り替わっていなかったらしく、
「東の風 風速3m(とんのかぜ ふうそく さん メートル)」と読んでしまった。

まあ、こういう話はアナウンサーでは時々あることでして、旧中山道をとんでもない読み方をした方は有名であるが、こんなベテランでもあるんですね。
今ニッポン放送で力のあるアナウンサーの上柳昌彦氏は「オールナイトニッポン」を1:00から3:00まで生放送した。で、なんか特集をやっていたためか新聞の読者欄に「なかなかいい内容であった」とか載っていた。当然喜びますな。ところが、彼はこのあと5:00から定時ニュースを読んだのだが、これがはっきり言ってめちゃくちゃであった。(読み間違い・つまり多数)であった。理由はわからない。このことを、新聞の読者欄に「5:00からのニュースはなんだあれは」とかかれていたので愕然。事もあろうにこの2つの投稿が某新聞の上下に載っていた。(下はアナウンサーの氏名無し)後年本人が山田邦子相手に嘆いていた
なんといっても管理者が、終夜、生で聞いていたのだから間違いない(おい)

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コメント

「旧中仙道」ではなく「旧中山道」でないと読み間違えの面白さ、おかしさが通じません。
また、亀渕昭信氏は「アナウンサー」は経験してなかったと思います。ディレクター兼パーソナリティというような位置づけではなかったかな?
もうひとつ、風速だと「3」という言い方はないですね。「風速3m」か「風力3」(気象通報ではなく天気予報のようなので多分「風速3m」)の間違いではないでしょうか?
以上、本日の「査読」でした(笑)。

投稿: TX650 | 2007年4月 1日 (日曜日) 08時09分

私のところでやっている「つまようじブリッジコンテスト」、どこかで「くだらないタモリクラブネタ」というお褒めの言葉をいただきましたが、実際に出演依頼が来ました。何回か電話で打ち合わせをしました。結局「制作費が少なく旅費が・・・」という話でした。東大泉研で行われている「パスタブリッジ」を紹介したら、企画はそちらに流れました。
個人的には同じく没になった「TVチャンピオン」よりはタモリクラブに出たかったですね。「空耳アワー」は大好きでした。
まだまだ北海道は辺境の地のようです。

投稿: SUBAL | 2007年4月 1日 (日曜日) 10時58分

TX650様:毎度査読ではお世話になっております。m( )m
(1)WIKIにて確認したところこういう表現があったので・・
『オールナイトニッポン』のディレクターやパーソナリティを担当。・・・パーソナリティーとはアナウンサーとは違うものですから、確かにこれは直さなければ。(他では明確に書き分けているものが私は見つかりませんでした)
(2)風速と旧中山道は完璧に誤記ですね。この件、上記のように修正いたしましたので承知いただきたく。ご指摘を感謝いたします。

SUBAL様:やっぱり来ましたか。(驚)確かに旅費で苦労しているようですね。けど、注目されていると言うことは、ある意味教育と言う場面に対して励みになっていると思います。教示感謝いたします。当方も是非とも一度見学させていただきたいものです。
基礎教育が結構、学生さんたちのリテラシーを育てるのにいいのですが、リテラシー教育の理解者を得るのも難しいという、ある学校の「愚痴」を聞いたばかりでして、不肖私も襟を正さなければ。

投稿: デハボ1000 | 2007年4月 1日 (日曜日) 21時09分

もうひとつみつけました。
「京浜ファインテック」ではなくて「京急ファインテック」ですね。
商号ですから正確に書きましょう。
管理者注: ほんとだ・・・・
       余談ですがどうも人の名前と名刺がくっつかなくてこまってます。 名刺の裏にいろいろかきこんだりするんですが・・・何かいい方法ないでしょうか。

投稿: TX650 | 2007年4月 2日 (月曜日) 07時07分

ブログの日付が3月31日ということで、随分時間が経過しておりますが、誤りに気づきましたのでお知らせいたします。

糸居・森繁両氏に関連することですが、1933年9月1日以降、満州における唯一の放送機関は「満州電信電話株式会社」(略称はMTT)、本社は満州国の首都・新京に置かれていました。満州放送協会(MHK)とか日本放送協会満州中央放送局という組織は存在しておりません。日本にとって満州国は「別の国」でしたから、満州の放送局が日本放送協会の傘下に入ることもなかったのです(Wikipediaなどネット上の情報については、まずこの辺でふるいにかけることができると思います)。
森繁氏の入局の経緯はご本人の著書に記されていますが、1939年に日本放送協会にアナウンサーとして採用され、すぐに満州電電に派遣されたものです。ですから、所属は日本放送協会とも満州電電ともいえるわけです(給与は満州電電から受け取っていました)。
糸居氏の入局については、手元に資料がありません(日本放送協会に採用されたかどうかは、数日中にお知らせできる予定です)。1941年入局であれば、森繁氏は糸居氏の「2年先輩」ということになります。8年先輩という誤情報は、森繁氏が糸居氏より「8歳年長」であることに由来します。
満州電電の放送系統も誤りで、第4放送はありませんでした。また第3放送はロシア語・朝鮮語・モンゴル語等で、地域の特性によって使用言語が異なっていました(例えば、哈爾浜中央放送局の第3放送はロシア語で、1942年12月開始)。さらに、第2放送・第3放送はすべての放送局で実施されていたわけではなく、第1放送のみの局では日本語と満州語(つまり中国語)の混淆放送が行われていました。
糸居氏のジャズ放送についても、それを証明する資料がありません。たしかに、日本国内では手に入れられなかったジャズのレコードが満州では自由に売買されており、それが目当てで満州の企業に就職した音楽関係者も少なくありませんでした。しかし、放送禁止事項は基本的に「内地」と同じでしたから、自由にジャズを放送できた可能性はないといえるでしょう。事実ではなく「伝説」としては楽しいのですが。

以上、長くなってしまい申し訳ありません。

投稿: イーハトーブの風 | 2007年6月17日 (日曜日) 11時21分

ご来訪ありがとうございます。本件のなかには、NHK愛宕山の図書室にて保管して有る資料を用いており、典拠があるもののあります。ただしその原資料自体が意図的なものを表していると思われるので、もっと他の資料も当るべきとは考えております。
(1)まず、内地向けの宣伝材料として、日本放送協会名で、「日本の放送局は内地のほかに、台湾・朝鮮・満州にと広げている」という広告宣伝資料とポスターがあります。その中に大連から電波を発信しているという資料(映画・映像)があります。これだけならプロパガンダともいえますが、コールサイン呼称からだと下記の資料があります。
JQAK 大  連 1925.08.09 中央放送局 1945.08.-- 廃止
JQBK 安  東 1937.10.20 1945.08.-- 廃止
当時のコールサインの場合、内地は
JOAK 東京中央放送局(1925)1kw→10kw
JOBK 大阪中央放送局(1925)1kw→10kw
JOCK 名古屋中央放送局(1925)1kw→10kw ※
JOEK 欠番
JOFK 広島放送局(1928) 10kw
JOGK 熊本放送局(1928) 10kw のようになっていますよね。
JOからスタートするのがJODK以外国内全部
外地は韓国朝鮮管内の場合(後の韓国放送協会)
JBAK 釜  山 1935.09.21 1945.08.-- 廃止(→韓国 HLKB)
JBBK 平  壌 1936.11.15 1945.08.-- 廃止(→北朝鮮)
JBCK 清  津 1937.06.05 1945.08.-- 廃止(→北朝鮮)
というコールサインになって、一応区別しているのですがJODKだけは日本放送協会の一員ではないのに、(上の映像では日本放送協会の中に京城を入れているのですよね)
JODK 京  城 1927.02.16 1945.08.-- 廃止(→韓国 HLKA)
そのままになっていることもあり、(内地融和政策という理由で紛糾した挙句)一寸難しいです。
ちなみに台湾はJFというコールサインですね。一例。
JFAK 台  北 1928.05.15 1945.08.-- 廃止
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戻って、JQというコールサインを与えたのは資本が日本であることを示しているのでしょう。以降はMを頭に用い(独立国であることを誇示しているがこの呼称自体、ヤミの番号つけであるようだ)
MOHB 哈 爾 浜 1928.01.01 1933.12.15 呼号変更 MTFY 旧COHB
MTBY 奉  天 1928.10.01 1938.04.01 中央放送局 1945.08.-- 廃止
MTCY 新  京 1933.04.16 1938.04.01 中央放送局 1944.02.-- 放送総局 1945.08.-- 廃止
と区分変更しているのに上2つの位置付けが不明のようです。
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というようにまだ分からないことも多いこのあたりの調査はもう少し続けていきます。逆に、ご指摘した内容ベースでもう少し当ってみます。
(2)>満州電電の放送系統も誤りで、第4放送はありませんでした。また第3放送はロシア語・朝鮮語・モンゴル語等で、地域の特性によって使用言語が異なっていました
第4放送はごく一部だという記載もあるようですが、混乱している可能性も有るし、放送機材があったのかという問題点は私も気にしていました。混淆放送は一部でやっていたようですが、(第二放送がない局がある)そこの記載と調査が不十分だということをお詫びします。
(3)愛宕山の資料のなかでも人事関係は余り表に出してないような。調べたけれども分かりませんでした。(人権的な問題、資料接収が有る可能性も。)あんまりwikiの資料が典拠が有るとも思えないことは承知してますのですが、原典が見つからなかったというのもあります。
(4)なお糸居氏のJAZZの話は都市伝説という可能性があるのは事実です。ただ、2つのニュースソースがありまして、(1)まだ糸居氏がニッポン放送勤務時に、他のアナウンサーが放送で話していた。さすがに在任中の先輩の話を迂闊には話さないだろう。(2)近畿放送勤務の祖父の知人から聞いた話(話された方は逝去。祖父は近畿放送の近所の警察所勤務で、その後近畿放送の株主であった銀行に勤めてました。)後者の話は、「混乱していた時期で検閲が出来る陣容になっていなかった」という話でしたが、ここは???だと思ってます。糸居氏はこのようなことを語る方でなかったようで、なぞのままでのこる話だと思います。けど逆に現地では音盤がアングラでも手に入る環境だったということを知って、勉強になりました。(多分局内にはなかったOR使えなかったでしょうから)
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取り急ぎ、手持ちの資料とメモから書かせていただきました。ただ勿論どの資料も参考文献レベルでないことも事実です。
今後とも、ご指導よろしくお願いいたします。長文失礼致しました。なお本文は、調査をしてから改めて直しますが、むしろそのあたりの資料を集めているところが会ったら教示いただければ幸いです。

投稿: デハボ1000 | 2007年6月17日 (日曜日) 18時19分

丁寧なご返事、ありがとうございます。
コメントを書き記した後、まだ次の調査に入っておりませんので、ご挨拶だけで失礼いたします。

なお、デハボ1000様が引用なさっている呼出符号(コールサイン)、引用元は“Radiofly”の「放送博物誌」ではありませんか(http://www.radiofly.to/wiki)。もしそうであれば、実はその呼出符号の一覧表は私が作成したものです(参考文献については、「放送博物誌」の使用資料総覧をご参照いただければ幸いです)。お役に立っているならば、嬉しく思います。
それでは、近いうちにまたおじゃまいたします。

投稿: イーハトーブの風 | 2007年6月17日 (日曜日) 23時40分

>引用元は“Radiofly”の「放送博物誌」ではありませんか(http://www.radiofly.to/wiki)。もしそうであれば、実はその呼出符号の一覧表は私が作成したものです

えっ。その通りです。これは失礼致しました。以前から見せていただいている人間であります(放送業界には就職などはしておりませんが)。
不遜ながら、今後ともご指導ご鞭撻お願いいたします。

投稿: デハボ1000 | 2007年6月18日 (月曜日) 14時34分

現時点ではっきりしていることを、一部だけお知らせいたします。

(1) 満州放送協会は存在しなかった
手元にある、当時の『満州放送年鑑』・『満州年鑑』・『ラジオ年鑑』・『朝日年鑑』などを見ても、「満州放送協会」という名称は一度も使われておりません。満州電信電話株式会社(満州電電、略号MTT)だけです。このことは戦後出版された各種資料や法律の条文を見ても確認できます。宣伝の表現は単に、外地や満州でも(東京からの)日本放送協会の番組を中継放送している、という事実を示しただけであろうと思います。
外地の各放送局では当初、日本放送協会各局からの放送電波を受信し、そのまま中継放送していましたが、受信状態の問題や国策上の不都合が生じたため、短波を使って番組中継専用の放送が行われるようになりました。この短波による番組中継は、1941年1月には「東亜中継放送」、翌42年9月には「東亜放送」と改称され、終戦まで続きました。

(2) 大連・安東局の呼出符号について
満州電電の放送局の呼出符号のうち、大連JQAKと安東JQBKだけが「J」から始まっていることはご承知のとおりですが、その理由は、両地が満州国からの租借地として日本の行政権下にあったからです(大連は関東州、安東は南満州鉄道附属地)。なお、満鉄附属地は安東局開局から2ヵ月ほどで満州国に返還されましたが、安東局の呼出符号は変更されませんでした。
満州電電は日満合弁企業であり、もともと資本の大半は日本からの投資によるものでしたから、日本資本=「J」から始まる呼出符号、とはならないわけです。
ちなみに、満州国は国際的に承認されていなかったので、呼出符号も割り当てられていません。そのため、「M」から始まる呼出符号(本来はイギリスに割り当てられていた)は満州国が勝手に使ったものです。

投稿: イーハトーブの風 | 2007年6月23日 (土曜日) 17時20分

ご指導ありがとうございます。(二重投稿になってましたので1つは消しました)
>(1) 満州放送協会は存在しなかった
手元にある、当時の『満州放送年鑑』・『満州年鑑』・『ラジオ年鑑』・『朝日年鑑』などを見ても、「満州放送協会」という名称は一度も使われておりません。
満州放送年鑑という本があるのですか。これは国会図書館でよんでみることにします。で、本文のほうはMTTという形で統一する形にするべきですね。早速訂正します。また、来週都内神谷町に夕刻行く用事が有るので、早めに愛宕山に行って文献を確認してみます。宣伝用映像は、国内向けの宣伝として分かりやすいように偽装していたと見えますから。
>(2)両地が満州国からの租借地として日本の行政権下にあったからです。
なるほど、租借地ならその扱いになるわけですね。(返還前の沖縄もある意味そうなのかもしれません。調べないと)満州電電は日満合弁企業を模謬しているならなおさらそうです。その割には、
MOHB 哈爾浜 1928.01.01 1933.12.15 呼号変更 MTFY 旧COHB
と几帳面に中国由来のコールサインを少しずつ変えてるのがまあなんというかですね。
なお(独立国であることを誇示しているがこの呼称自体、ヤミの番号つけであるようだ)というのは貴殿ご指摘の「満州国が勝手に」という意味をぼかして書いたのです。(英国がなぜMから始まっていたのか想像が付かないので断言しなかったのです・・)

お手数をおかけし申し訳ありません。真摯に受け止めました。
ところで、余談ですが「糸居氏のJAZZの話」、糸居氏逝去後LFの冬シーズンの番組「でも」、同様の話をしていたことを思い出しました。(ちなみにその番組の名前は「アルファベット・ジャズ」という名前でした。明らかに糸居氏を意識した名前ですね。今考えれば。)

投稿: デハボ1000 | 2007年6月23日 (土曜日) 19時30分

航空分野でも満州航空は日本航空輸送→大日本航空と密接な関係にありながら、登録記号はM***(当時の日本はJ-****)でした。
当然のことながら、外見だけでも日本ときっちり切り分けて見せなければならなかった、ということですね。

投稿: TX650 | 2007年6月24日 (日曜日) 11時23分

>満州航空
またコアな話ですね。けど誠に納得すべき話であります。

投稿: デハボ1000 | 2007年6月24日 (日曜日) 16時23分

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