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梅は咲いたか(2)

明日は博物館周りと、労働争議史の調査。ということになりました。とかいておやすみしましたが・・・

翌日10時まで入浴、香料商社と打ちあわせをしてから、一見技術者倫理と関係ないことをしてみる。けどこれ技術史といういみでも関係があるので、溜め込んで悪くない話である。回りまわって関係してくるというふかーい研究。

普通選挙法とそれを制御する治安維持法という関係はご存知でしょう。これと同じたとえをすると民本主義と天皇機関説というのもなんとなく連携がありそうですよね。
吉野作造が「民主主義」と訳さず民本主義としたのは「天皇」という存在から考えると民「主」という表現は時代にそぐわないという意味です。(厄介なかたはスルーしてください)このことから、労働組合の争議というものが、イノベーティブな世界になることがあるのです。
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以下http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E8%89%B2%E4%BA%89%E8%AD%B0  から引用(引用文献明示)

中心人物である水の江滝子の愛称にちなんだ「ターキー・ストライキ」の異称。1933年(昭和8年)、松竹少女歌劇部・松竹楽劇部で発生した労働争議をいう。
(前段:この直前ウオールストリートでの株暴落で、観光産業は業績急降下に陥った)
経過
1932年(昭和7年)、松竹はこの年4月、浅草で起こった映画活弁士、楽士の首切り闘争で一定の成果を収めた。翌1933年(昭和8年)に至り、今度は松竹少女歌劇部に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告した。
同年6月14日、「レビュー・ガール」と呼ばれ少女歌劇部の大部をなす少女部員が新聞記者らを集めて「絶対反対」の意思を明らかにし、同部の誇る18歳のトップスター水の江滝子(18歳)を争議委員長に任命した。前年の活弁闘争に勝利した松竹がこれに応じないことは火を見るよりも明らかであったから、水の江以下少女部員230名は翌6月15日、神奈川県にある湯河原温泉郷の大旅館に立てこもってしまった。
一方、大阪においては松竹楽劇部が、待遇条件の改良要求が拒否されたことから会社側と一触即発の状態になった。楽劇部員たちは一番人気の飛鳥明子を争議団長に据え、舞台をサボタージュしたうえ、遂に6月28日、三笠静子(後の笠置シヅ子)はじめ70余名の部員が高野山の一宇に立てこもり、弘法大師ゆかりの霊峰に「トラスト反対」などと大幕をひるがえして演説をぶち、参詣客の度肝を抜いた。
松竹はただちに水の江を「賊女」と呼んで懲戒解雇に処し、争議団の自然崩壊を待った。しかしなにぶん女性、しかも未成年で幅広く大衆に知られた有名人であるから、世情は彼女らに傾きがちで、それにのった新聞各紙も徐々に松竹の態度に異を鳴らし始めた。一時は水の江を拘禁した警察もすぐ解放した。また経営する劇場や舞台の観客動員が落ち込み、却って不倶戴天の仇敵宝塚少女歌劇団の隆盛を助けるという、松竹にとって極めて不愉快な状況を呈してきた。
少女たちに追い風が吹くなか、大阪では7月8日手打ち式が行なわれ、7月15日東京で「協定文」が読み上げられて、飛鳥は退団、水の江が謹慎となったものの、週休制と最低賃金の設定に成功した争議団側の勝利に終わった。
参考文献  『記録現代史』筑摩書房
---------------引用終了
「不倶戴天の仇敵宝塚少女歌劇団」は阪急がバックアップ(実質直営)をしていたからである。松竹歌劇団はのちOSK女子歌劇団として再興し近鉄があやめ池遊園地に劇場を作って活動したが、知名度低下と近鉄の急激な営業不振で閉鎖となった。現在は自主活動を全国展開している。
ここで注意しなければならないのは、彼らは会社に対して直接雇用が認められていたということである。従って争議権を確保することができた。海外ではすでに認められていたことであるのだが日本では、必ずしもそうでなかったということが、この運動が国内の労働者を覚睡したものの、烈火のごとく広がったわけではないのが一寸注意しなければならない話である。むしろ武蔵野鉄道と西武鉄道・多摩湖鉄道(現在の西武鉄道)のようにお互いが客を取り合いという給与連動のある「愛社精神」に帰属するという変形例の存在も注意するべきであろう(おっ、たまには鉄道BLOGになったぞ)
従って、この地盤で、欧州的な産能主義の横型の労働組合(ギルドシステム)に移行しなかったという事情は、給与という体系がそうさせたのであると考えなければならない。まして後述するように、今で言う派遣労働構造に近い工場労働者までが戦時体制とともに、この直接雇用方式に移行するという面白い現象がでてくる。
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さて、湯河原には10年通い続ける私、このことが気になっていたが、なかなか機会がなかったので、観光協会と、町役場に相談することにした(どちらも、展示があり学芸員がいる)
(観光協会・町役場)宮上町にあった(温泉地中央というバス停付近)小松屋だと聞いている。戦後廃業しているが、息子さんが町内でご健在でお元気なのでいってみたらどうか。
で、行ってきました。隠居なさっているが内科医だったそうで、非常にお元気。始めはなんだこりゃという状態だったのだが、町役場の紹介状と当方の名刺を出すと、完全に扱いが変わった。
(1)当時の小松屋はなにぶんにも湯治のための木賃宿であった。確かに労働争議で立てこもりというなら有りうるが、定員が25名から50名(時期は戦前)だし、後に海軍の指定療養所に指定されたときも50名だったから、雑魚寝しても230人は入れられない。
(2)小松屋の近くに富士屋という旅館がある(川向)著名な文豪が定宿にしたところでとても高いが。キャパも大きい。争議で飛び込むことがありえないと思うだろうが、但しそうでもない。
富士屋の先代の主人は松竹の役員と慶応予科・学部と同級だった。もしかしたらその関係で誘導したということも充分考えられる。当時は宴会を温泉街で行うのは、「湯河原では」あまりなかったので、200人雑魚寝できる大きな旅館はあと一つしかなかった。

即断は出来なかったが、このアジテーションはもしかすると松竹側にも、批判する幹部がいて、誘導させたという考え方も出来る。もとより、彼等が湯河原・熱海でレビューの公演をよくやっているというなら話は別。しかしそんな設備はなかったしいまもない。土地勘もないだろうし・・となるとこの小松屋旅館の末裔の方が述べることは意外と正鵠を得ているようである。
ただ、ここで、水の江瀧子が推しあげられたぐらいの人格の持ち主であったことは、戦後日活の映画プロデューサーとして活動したことから、人々を鼓舞するスキルが彼女にあったのだと推測する。
-------------引用開始
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%B1%9F%E7%80%A7%E5%AD%90水の江瀧子(みずのえ たきこ 1915年2月20日- )は、日本の女優、映画プロデューサー。水之江瀧子、水ノ江瀧子とも。本名は三浦ウメ→水の江滝子。
略歴
1928年から1942年まで東京松竹楽劇部・松竹少女歌劇団に所属し、断髪に男装姿が人気になり「男装の麗人」の異名をとる。この頃「ターキー」、「タアキイ」の愛称で親しまれ、日産自動車のキャンペーンガールに選ばれるなど一世を風靡した。(中略)
1955年から1970年にかけて日活の映画プロデューサーとなり、石原裕次郎らを育てた。テレビでは、NHK「ジェスチャー」、テレビ朝日「独占!女の60分」の司会(これは蝶々発止すごかった。ために大阪朝日放送エリアはこの番組をネットしなかった(独立U局に配信)、フジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員などが知られる。
私生活ではずっと独身を通した。(太平洋戦争中求婚者がただ一人いたが戦死したためと伝えられる)
舞台・映画・テレビにわたる半世紀以上の芸能生活だったが、1985年に甥(実兄の子)の三浦和義がロス疑惑で世間に騒がれ、(中略)(その後三浦和義氏は無罪)この件を機に本名を水の江 滝子に改名。その後、1993年に生前葬を華やかに行い、関係者を驚かせた。
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彼女は存命で鎌倉に居住されてるそうであるが、すでに生前葬をされた方には私はききにいけない。それは現世との決別なのだから。

この篭城という方法は初期の労働争議としては比較的あるが、社員採用でなければこのようなことがおこなかった、従って、工場では今の派遣業務と類似した派遣システムが確立されている会社もあった。戦時中工員さんを産業兵士と持ち上げる懐柔のためにこの方法は徐々になくなっていったといわれる。

工場は、技術職・事務職・現業職と分けられる。現業職は全員「」(班という表記の場合もあるらしい)に属しており、雇用というより受託関係は組長と会社の間に商行為としてある。
組長は、沢山の専門工を管理し、作業指示を伝達する。会社からの業務報酬は、組長に一括して支給され、組長はその勤務評定を元に各人に分配する任務もになう。また会社の報酬に関して組長と会社側が決裂した場合、組全体が職務を離脱し、場合によっては他の会社に丸ごと入ることもいとわない。
この方法は、伝統のある中華料理店のコックのシステムとしてだけはのこっていると聞いた。中国本土との整合があるからといわれる。(知人に聴取)
自動車会社ではこのシステムはなかったと聞くが、多分欧米の影響によるのと戦後創立したプリンス・ホンダなどがこれに対して同意をぜったいしなかったであろう。
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この制度は、産業機器に対してがメインと思っていたが、技術史の見地から見ると鉱山(特に非鉄金属)には「友子制度」という形で逢ったらしい。日光古河鉱山、と岩手県の松尾鉱山の事例が知られているようだ。後者は岩手大・小野寺助教授などの見識もある。http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/brmurksi.htmを見てみるとこのような記載がある。
人文系の文章であるためここには、上記HPの抽出を転記するにとどめる。詳細はHPをされたい。
------------引用開始
「友子は、徳川時代の鉱山マニュファクチュアに雇用されている親方層も含む鉱夫のクラフト・ギルド的な同職組合として形成された。友子は、鉱夫のクラフト・ギルド的な同職組合として形成された本質からみて、徒弟制度に基づく親方制(親分子分関係)の形態をとりつつ、鉱山業における熟練労働力の養成、鉱夫の移動の保障と労働力の供給調整、構成員の相互扶助、さらに鉱山内の生活・労働秩序の自治的維持、時として生活・労働条件の維持改善などの多様な機能をはたした。友子の組織は、一山に限定されていたが、制度としては全国的な共通性をもち、鉱夫にとって友子のメンバーになることが、日本の鉱山で働くための一般的な資格であった。」
-------------引用終了
なにか、今の派遣雇用や常駐派遣と先祖がえりしてないか・・・考えるに値する項目である。

最後に、民本主義の限界から来る天皇制との相克の事例を少し取り上げてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%8F%AC%E3%81%97%E5%88%97%E8%BB%8A

なーんだおなじみ「お召し列車」(やっと鉄道BLOGに・・・以下自粛)でありますが・・・私はこれを注目した。富士瓦斯紡績事件である。
必要なところを写してみる。
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大日本帝国時代には、お召し列車を陸橋や丘陵などから見下ろす事まで、“不敬である”として官憲により規制された。1930年11月に起こった富士瓦斯紡績川崎工場の争議は、この理由から解決した。この時に出現した煙突男が、岡山から帰る途中のお召し列車を煙突から見下ろす体勢になることから、引き降ろすために、(注:富士瓦斯紡績会社は)労働者側の要求をほぼ受け入れ煙突男を引き降ろした。その直後、お召し列車が多摩川橋梁を通過したと言われる。
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富士紡績株式会社五十年史  S22 387p [S586.2/H]
  明治29年富士紡績として東京に設立。東京瓦斯紡績等を合併、同39年「富士瓦斯紡績」となる。川崎町長石井泰助が工場設置期成同盟会を組織、工場招致を展開。旧川崎競馬場跡地等約13万坪の用地を確保し、大正4年操業開始。沖縄出身の工員を多数雇用。昭和14年川崎撤退。
名称から、東京瓦斯電気工業とのなんらかの関係があったと考えられ、いすゞ自動車・プレス工業が近場であることは関係ないとはいえない。
ちなみに、昭和14年川崎撤退ののちこの膨大な土地は、同年、川崎競馬場・東京機器工業(東京瓦斯電気工業の関連会社)テニスコート・トロリーバスの走る計画道路・川崎競輪場・そして運動場化された川崎球場、及び公園となっている。地名は戦後富士見町という名前になった。けどこれらの設備は一つとして高い煙突を作らなかった。
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戦争前は社員なんて独立独歩だと古い人は言う。しかしやっぱり帰属意識というものが、鉱業でも工業でもあったのだ。従って戦後の完全雇用制度との連携がないという意見は、当らないのではないのか、それの崩壊は世界基準というアメリカシステムの喧伝がいたづらにそうさせた(欧州はギルドシステムの崩壊までは至っていない)のではと不肖私は考えるのである。

さて「ターキーストライキ」は労働史ではまとめて松竹労働争議という事例もある。また社会史の文献ではなんと「桃色争議」といわれることがおおいようである。過日の湯河原の梅はまさに白と桃色満開であった。

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-----------------課題
1:リーダーシップというものの発露には、色々なものがある。技術開発・工場展開・製品不良対策の各場面において自分ならどういう順位をつけてリーダーシップを取っていくか、シナリオを書いてみよう。
何の事柄に関するリーダーシップかを場合わけしてみよう。

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