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本箱から散歩へ

体調がよくなかったので、医者に行くかそうでなければずっと、薬をのんで寝ていた。学会に行く予定があったのだが行けず。(けどもしかしたら、ゆりかもめの事故車に乗ってた可能性が高い)寝ているだけでも仕方がないので、久しぶりに、本棚などを引っ掻き回している。

宮脇俊三氏の著作として、時刻表昭和史という本がある。中学の教科書に取り入れられていると聞く。(終戦のお言葉を山形県の今泉駅で聞くくだり(13章)である)残念ながら、彼の末期の文章は考証不十分ということであまりいい評価をしないかたもいると聞くが、そこは熟練のなれた手で読ませる文章である。中央公論社の取締役編集局長として、北杜男をそだてただけはある。文章はそれなりにいい味をだしている。(ちなみに、主な所管業務は「中央公論」「婦人公論」の編集纏めだったそうな)
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で、しばらくよんでいるとこんな文章が目に入ってきた。
----以下引用(P57)----
戦前の時刻表をみると赤帽がいることを示す「帽子マーク」のついた駅が非常に多い。東京-小田原間のごときはずらりと「帽子」が並んでいて、ないのは、辻堂と鴨宮だけである。二宮のような田舎駅に赤帽のいる情景など想像もつかないし、どれだけの仕事があったのだろうか。
それとは逆なのが駅弁販売駅で、戦前の東京-小田原間で「弁」のマークがあるのは品川・横浜・大船・国府津・小田原だけであるが、今は新橋と辻堂をのぞくすべての駅にマークが付いている。
(参考:昭和9年12月号汽車時間表)
--------------(引用終了)---------
えー、現在の東海道線の停車駅とは少し違うところがあって、当時は、横須賀線電車専用の駅があった関係上、こうなっている。
東京・新橋・品川・横浜・大船・藤沢・辻堂・茅ヶ崎・平塚・大磯・二宮・国府津・鴨宮・小田原・・・
川崎・戸塚はこの場合横須賀線電車のみの停車であり、保土ヶ谷は現状と同じ・(東戸塚は最近です)ですね。
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これを知ってみるとまあ、辻堂と二宮はさんざんな言われ方である。大磯なんかも後背地がなさそうだが、あそこは著名人の別荘がある(例:吉田 茂)ことで有名であるからニーズはあるという判断であろう。鴨宮は今は工業団地・辻堂は住宅地・で二宮も住宅地化が進み、最近二宮発東京行きという運用があるぐらいだから(ちなみに国府津-二宮間を回送)いまなら田舎という雰囲気はそこまで強くないですね。
さて、その二宮であるが、昭和9年ということになると、実はこの駅、湘南軌道という軽便鉄道の接続駅なのであって、本当にニーズがあったのだということがどうも宮脇氏は気がつかなかったようである。
湘南軌道は秦野の特産物、葉タバコをメインとした輸送のため、秦野-二宮に通じていた馬車鉄道から軽便鉄道になった蒸気軌道であるが、このころは、すでに小田急線が開通しており、昭和10年には旅客輸送を止め、12年には廃止されている。( 記載文献によっては、1933年(昭和8年) 旅客営業を休止、貨物営業のみとなる。1935年(昭和10年)10月9日 秦野~二宮間全線営業休止。1937年(昭和12年)8月25日 秦野~二宮間全線廃止(-10.0km)。 とあるから、微妙なところなのかもしれない。)宮脇氏は小田急にはよく乗っていたようであるから、なおさら気にならなかったのだろうかと思われる。そういえば秦野にはJTの工場が長らくあった。(構内に乗り入れていたとか。今は駅の跡地とともにスーパーになってるらしい。小田急線の駅とは離れている。)また小田急線の沿線には足柄に工場があったから、元来そのような商品作物が立地しやすい地域だったのであろう。ちなみに、後から開通した小田急は「秦野」という駅名にせず「大秦野」という駅名に昭和58年までなっていたのはその所以と聞く。この軌道での二宮-秦野間所要時間1時間だったそうな。時間表の記載は、まさに末期の名残であったわけだ。
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資料も割と残っていることもあるし、バスもそこそこある(時間2本)ので、以前私はここを走破し(といって、つかれたらバスに乗ることも出来る)たこともある。小田急線がオーバーする煉瓦ポータルなども残っているが、結構な勾配である。1月の寒い時期だからこそ終日楽しめるところであった。(疾病のことを考えればまず今ならむりであろう)
・・・ということを、実家が二宮でそこから通っている上司と食事のときにしていた。
デ「いやー、この前の日曜日は秦野から二宮まで歩きましたよ。」
課「なにかあるのかい。あのあたりはみかんぐらいしかないんじゃないの」
デ「そう思われるでしょうね。いやあ、軽便鉄道の跡を散歩というわけで」
課「あれ」
デ「たぶんご存知でしょうが、湘南軌道てのですわ」
課「いや-、・・・・・実は曽祖父がそこの車掌をしてたんだよ。おまけに株主にもなっていたらしい。小さいころ株券を見たことがあるぞ。・・・あらら。またー(激しく動揺)」
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とんだところで話がくっついてしまった。
さて、弁当マークであるが、たしかに今大概の駅では弁当が売られていますね。今は川崎は横浜の崎陽軒が、戸塚は大船の大船軒が入っている。当時は食中毒の蔓延防止とか言う名目で結構衛生管理を鉄道省が独自にしたり、また戦時中は物資配給が優先的だったり、東北地域では、雪による車両の遅れのときの炊き出しのため、大きな駅では弁当屋が2件必ずはいっていたり(その大なるものが、東北地方における伯陽軒ですね)したようである。もっとも駅弁というのは狭いロングシートで食べるものではない。(泣)・・・昔の2等車ならともかく・・・そういうからといって、仕事場で駅弁を買って食べたりする気はおきないから、まだ健全なほうであろう。
それと電報()のマークもあちこちにある。私は、父親が車中から打った電報を辛うじて記憶している。(いわく、トラブルのため宇野に行く・・・当時自宅に電話がなかったからだと思う。しかも深夜であった。)
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この手の話は結構枚挙にいとまないのでして・・・入社して3年ぐらいたったころであろうか上司と飲みに行って
デ「最近サークルKてのが寮の近所にできまして、便利にはなりましたが」
係「サークルケーてのもあるのか。そういえば丸にKの字がかいてあるあれか」
デ「で、まるにKといえば頚城鉄道自動車とおもっちゃうのですね(頚城自動車といわなかったのに注意)」
係「はあ。なんだお前。・・・・・」
係長の実家は医者だそうで、頚城鉄道浦川原駅前で開業していた(兄がいまでもされてるよし)ということらしい。ちなみにサークルKと頚城自動車のマークはKの字がまるとくっついているかいないかの違いがあります。廃線跡を歩いた人間としてはなんともはやである。今はかの地は北越急行ができ便利になってますけどね。
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年々歳々人は変わり、万物は流転するものである。そう考えながら私は今、思い返している。

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