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光がこない

私の支店に「光」通信が入ることになっているのだが、・・・・・・・6月初旬着工といっておきながら、催促しても一向に日程が決まらない。休日も予定が入っている私としてはこまったものである。でもなにかと仕事のうえでも生活のうえでも必要になってしまったんです。
さて、このように通信関係が早くなるかつ大量に送れるということはだ・・・・そのインフラが入っていない人との差がますます激しくなるわけである。「データ送った?」「フリーズしてるよ」これだけで1つ仕事を失うことだってあるんですよ。特に自由業に近いお仕事の方は
機械を扱いたくない・・・と信念を持って語る気力のある方ならまだいいのだが、扱いたくても扱えない人が選別される。例えば目が悪いばっかりに、地方で自家用車免許の持てない人が、まともにショッピングセンターにもいけなくなる、社会の波から取り残されるのと同じである。
このようなことを「社会のプラットホーム」と呼んでみよう。意図しないプラットホームを私たちはあまりにもたくさん持ちすぎていないかな。携帯電話なんて高嶺の花だったのに、今はみんな普通に持ってるから、それ前提で交渉ごとも済ませてしまう。挙句の果てには「おさいふ携帯」なんいてのまで現れる。清潔な服装でいいのに、「流行」という流れに流されて、ついつい余分な服を買ったりするにもそのひとつかもしれない。(服が汚いのを肯定してるのではありません)どうりのある自己主張がある場合は許せるが、その概念がない場合はその人を一寸疑ったりする。私ごとき人物でも。
なにもないことが、実は美徳だったという時代もかつてあった。一方、不満を言いながらでも、それでもまんざらでもないというのが今の大勢の人々かもしれない。そういう見解の違いがなぜ起こるのかを考えて見ると、世代間の認識の違いが根底にあって、「プラットホーム」の存在自体が、その実、単なる妄想にみえてしまうのかもしれない。

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コメント

太字のところ、また日本語おかしいですよ。

投稿: TX | 2005年7月14日 (木曜日) 00時44分

アメリカの生活を映した映画を見る。

投稿: くろきや | 2005年7月14日 (木曜日) 01時37分

道具というのは、結局(「使われる」のではなく)いかに「使いこなす」か、だと思うんですよね。新しい道具を自分の生活に取り入れ、評価する。プラスにならない道具は淘汰されるでしょう。
人類はそうやって文明を築いてきたわけです。「火」にしても「貨幣」にしても、最初はデハボさんおっしゃるインターネットやおさいふケータイ同様の拒否反応もあったと思うわけです。(おさいふケータイが淘汰されずに残る道具か?は、これはまた別問題)
だから、われわれ現代人類(というか消費者というか)に求められるのは、新商品を無条件に受け入れることでも無条件に拒否することでもなく、それを自らのモノサシで選別し使いこなすことなのだと考えます。「なんにもないことが美徳」なのではなく「価値のないものは持たないことが美徳」なのです。

ただここで、現代は弱肉強食の時代ではなく全ての人々に生存権が保障されている(またはされているべき)わけです。道具や社会システムに即していえば、これはバリアフリー→ユニバーサルデザイン→ノーマライゼーションという思想で具現化されます。
例えばケータイなら、多機能てんこもりの新機種がもてはやされる一方で、高齢者をターゲットにした超シンプル操作の機種が高い評価を受けていたりします。デハボさんが書かれた地方の交通問題は重大かつ深刻ですが、これも今までの1日数便の路線バス、といったものとは次元の違う解決法が模索されているところです。この2つに共通するのは、対症療法ではない基本的コンセプトからの発想であるということです。

実は地方の交通問題にはより根本的な問題がありまして、それは、本来通過交通を速やかに流すためのバイパス道路に郊外型店舗が張り付いてしまって、交通弱者の利便低下や中心市街地の衰退ばかりでなく、出入りのクルマによってそもそもの通過交通の機能まで妨げられてしまっている、ということなのです。これこそまさに政治と行政の、都市計画と国土構想のコンセプトの欠如と言えると思います。

ここでファッションの「流行」の話ですが、ここまでを読んでいただければもう察しがつくように、やっぱりこれも無条件の受容でも拒否でもなく「選別」だと思うんですよね。
既に旧石器時代に我々の祖先はアクセサリーを身につけていたわけですし、日本文化の象徴であるところの歌舞伎の起源である「傾き者」は今日で言えばジャニーズ系のような流行芸能、またこれも日本を代表する振袖は元禄時代の流行ファッション、と、我々人類の文化は「流行」が選別され昇華して形成されてきたものなわけです。
だから「流行」に無条件に背を向けることは、人類の文化を否定することだと言っても過言ではないと考えます。「流行」を選別し文化にしていく力を持つこと、そしてそのためには、まずはまねて、経験してみること(「学ぶ」←「まねぶ」)です。
確かに世の中にはまねることしかできない人もいますけど、毎日若い大学院生諸君をみていると、大丈夫、これからの人たちは確かな目で文化を築いていけるように思います。物質的に豊かな時代に育ち、あらゆるものを体験し吸収してきた彼らこそ、精神的に豊かな次の時代を切り開いてくれるのではないでしょうか。

ところでこの「無条件に拒否する」ような考え方を「思考体系の硬直化」と言い換えられると思うんですがね。
「不易流行」という言葉(↓)を噛みしめてみることをおすすめします。
http://svrrd2.niad.ac.jp/faculty/ogiue/essay/math.html

投稿: TX | 2005年7月14日 (木曜日) 18時40分

ちなみに私が「不易流行」ということばを初めて教わったのは某模型店のオヤジからで、「不易は確かな基本工作技術とまとめのセンス、流行は最新の技法・素材と新しいネタ」とのことでした。わかりやすいですね。

投稿: TX | 2005年7月14日 (木曜日) 20時47分

>確かに世の中にはまねることしかできない人もいますけど、毎日若い大学院生諸君をみていると、大丈夫、これからの人たちは確かな目で文化を築いていけるように思います。物質的に豊かな時代に育ち、あらゆるものを体験し吸収してきた彼らこそ、精神的に豊かな次の時代を切り開いてくれるのではないでしょうか。

その様な感覚が研ぎ澄まされた人が協調して社会を作り上げるというのなら、非常にうれしいことです。たた、必ずしもそういう人ばかりでもないですよね。そこをどうするか。
(この考えは一種全体主義の色をもったり、ファッショの色合いをもったりするので、なかなか難しいのですが。)
「不易流行」ですか・・・やさしきにあらず、流れに身をまかす。書道の教材でよく使う熟語ですが、自分はそこまで深く考えていなくて、むしろ「一時的にやさしい方向にながされても、正道にいずれ流れていく」という意味合いしか取ってませんでした。
いい勉強になりました。

投稿: デハボ1000 | 2005年7月14日 (木曜日) 21時21分

そこで消費階層の考え方ですよ!スキミング層 ・イノベーター層・ フォロアー層・ ベネトレーション層、とか、そういう言葉で説明されるあれです。
フォロアー層のひとたちは上で言う「まねることしかできない」に近いのですが、実はあるメリットを享受してまして、それはスキミング層がテストし、イノベーター層が選別してくれた安心な商品だけを使うことができるということなんですね。ファッションに即していえば、ほどほどに新規性があり、ほどほどに無難で、他人に不快感を与える心配のないスタイルを容易に手に入れることができるわけです。
ですから、とりあえずフォロアー層に身を置いてみる、これは消費者としてある意味正しいあり方だと思います。そこから他のどの層に移行するか(または移行しないか)、それは個々人の自由です。
私が上で書いたのは、このフォロアー層として豊かな消費生活を味わった中から真のイノベーター層が育ちつつある、ということです。

デハボさんのファッションに即していえば、まずフォロアー層として安心の消費を覚えることをおすすめしますけどね。
「流行」とはちょっと違いますが「定番商品」(たとえばアイビースタイルとか)で固めるのもいいかもしれません。

投稿: TX | 2005年7月15日 (金曜日) 11時19分

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